2021年1月31日日曜日

2021年1月31日(詩編36)

詩編36
主よ、あなたの慈しみは天にあり
あなたのまことは雲にまで及びます。(6節)

本当に美しい詩編です。こういう詩編に触れられることは本当に幸いなことだと思います。「主よ、あなたの慈しみは天にあり」ます、と祈る。私たちは天を仰ぎます。天を仰いで祈ります。天にまします我らの父よ、と。神の慈しみを仰ぎ見るために。私たちが「父よ」とお呼びすることを神が喜んでくださると信じて。
しかし、私たちの目の前にある地は、それとは異なる様相を呈しています。「背きの罪が悪しき者にささやくのが、私の心に聞こえてくる。」それが世界の現実です。神に背き、神を蔑ろにしている。神さまは私たちに慈しみを示し、弱い私たちを救ってくださいました。だから、私たちが慈しみに生き、孤児や寡婦の権利を重んじ、弱い者の叫びを聞くことを神さまは望んでおられる。ところが、この世界はそうなってはいません。社会システムは強い者に有利に作られているし、私たち個々人は社会システムのせいにして自分が果たすべき弱者への義務を認めようとしない。背きの罪が悪しき者にささやいている。その声に聞き従っているのが、私たちの世界の現実です。
しかし、それでも、神の慈しみが変わってしまうことはありません。この世界がどんなにデタラメであっても、悪が大手を振るっていても、神の慈しみがかき消されてしまうかのような世界であっても。神の正義、その公正は、私たちを救おうと熱意を燃やしています。「主よ、あなたは人も獣も救ってくださいます。」そう。私たち人間も、人間が収奪した自然世界も動物たちも、神は救ってくださいます。神さまの慈しみによって。「神よ、あなたの慈しみはなんと貴いことでしょう。人の子らはあなたの翼の陰に逃れます。」私たちは神さまの御許、その御翼の陰に身を寄せて、救いを待ち望むのです。

命の泉はあなたのもとにあり
あなたの光によって、私たちは光を見ます。(10節)

私たちは神さまの御許で命の泉からの見、神さまの光に照らされています。神さまを仰ぎ、その慈しみの中で、私たちの一週間が今始まります。

2021年1月30日土曜日

2021年1月30日(詩編35)

詩編35
悪意のある証人が立ち上がり
身に覚えのないことばかりを問い詰める。
彼らは私の善に悪をもって報い
私の魂を不毛なものにした。
彼らが病のとき
私は粗布をまとって断食し、自らを苦しめ
胸の内に祈りを繰り返した。(11から13節)
ところが、私がよろめいたとき
彼らは喜んで押し寄せた。(15節)

この詩編は、主イエスの歩みをそのまま映し出すような詩編であると思います。主は悪意ある証人に囲まれました。彼らはデタラメを並べ立ててイエスを告発しました。イエスは病む者と共に生き、彼らのところへ行って癒やし、友なき者の友となりました。しかし必ずしも歓迎されたわけではなく、善に対して悪で報いられたことがしばしばです。主イエスが弱り、よろめき、打たれて苦しんだとき、人々はイエスを見てはやし立て、侮辱しました。十字架の上におられるイエスは人々の嘲笑の的になりました。
それらはすべて、私たちがしたことです。私たちがイエスを嘘で追い詰め、恩を仇で返し、苦しむイエスをあざ笑いました。この詩編を読んで、私は最初は、こういう目に遭ったら本当に辛いなと思いました。自分が体験した厭なことも少し考えました。ところが、ここにおられるイエスのお姿に気づいたとき、それまでとは違う意味で怖くなりました。自分がイエスの前にいてしたこと、イエスに対してしたこと、他の人にしてきたことを思い出すと、怖いと思います。
この詩編は18節に「私は大いなる集会であなたに感謝を献げ、強力な民の中で、あなたを賛美します」と言っています。私たちは、この言葉をキリスト復活の賛美として聞くことが許されていると思います。私たちが侮辱して殺したイエスは復活し、神さまの救いを確かなものとして打ち立ててくださいました。私たちは復活したキリストを賛美し、私たち自身の苦しみの日には救いを求めてキリストに祈ります。「私の魂に言ってください『あなたの救いは私だ』と」。

2021年1月29日金曜日

2021年1月29日(詩編34)

主を仰ぎ見る人は輝き
辱めに顔を伏せることはない。
苦しむ人が呼び求めると、主はこれを聞き
あらゆる苦難から救ってくださった。(6から7節)

主を仰ぎ見る人は輝いている!これは、私たちのための言葉です。私たちも輝いている。主を仰ぎ見ているからです。辱めを受けていても、苦しんでいても、苦難の中にいても、そこから主を仰ぎ見るなら、私たちは輝いています。
かつて、出エジプトのときのことです。モーセがシナイ山で神さまから十戒を頂いて山から下りたとき、モーセの顔の肌が光を帯びていたことがありました。(出エジプト記34:29~35)神さまの栄光を映すような輝きに人々は彼に近づくことを恐れました。主を仰ぐ者はモーセと同じように輝きます。神さまの栄光を映す輝きを帯びる。辱めは、別の言葉で言えば「顔に泥を塗られる」ということですが、どんな泥を塗られても神を仰ぐ者の輝きを覆い尽くしてしまうことはできません。神さまの栄光の光が輝いているからです。
実際にそういう信仰に生きたキリスト者は無数にいると思います。私の母教会にいたある男性は、以前事故に遭って障害を負い、いろいろと不自由な生活を送っておられました。学生の頃、私は日曜日の夕ご飯は牧師館で頂いていましたが、その席で毎週お目にかかっていました。とても優しい方で、私のような青年たちから慕われていました。神さまの輝きを映し出しておられました。もう何年も前に亡くなりましたが、忘れ得ぬキリスト者です。

味わい、見よ、主の恵み深さを。
幸いな者、主に逃れる人は。(9節)

この言葉は、聖餐のたびに思い出す言葉です。主の恵み深さを、私たちは聖餐で実際に味わう。私が高座教会で出会ったあの人、神さまのご栄光の輝きを映し出していたあの人も、やはり聖餐で味わう主の恵み深さに生かされていたのだと思います。そして、この輝きは私たち自身の輝きでもあるのです。神さまが私たちの内に生きて、その輝きを私たちに映し出してくださっているからです。

2021年1月28日木曜日

2021年1月28日(詩編33)

詩編33
王は軍勢の大きさによって救われるのではない。
勇者は力の大きさによって助けだされるのではない。
馬は勝利に頼みとはならない。
力の大きさでは人を救い出せない。
見よ、主の目は主を畏れる人に
主の慈しみを待ち望む人に向けられる。(16~18節)

王の仕事は戦争に出て行って勝つことです。もちろん現代社会ではそのようなことをしたら大変な国際的な非難を浴びますが、古代世界の王の仕事は、強い戦車を持つ軍隊を率いて国を守り、あるいは領土を広げたり資源を獲得したりすることでした。勇者は、力を振るって戦争で活躍することが仕事です。
聖書はつくづく、常識外れのことを言うものだと思います。王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって救われるのではない。それでは、殆ど、王であることや勇者であることをやめるのにも等しいと思います。
聖書は私たちに新しい世界を見せます。私たちの常識の外にある世界です。そこでは、私たちがごく素朴に「力」だと思っているもを無意味だと言います。私たちが常識的に頼りになるものに頼るな、と言います。馬や力の大きさは、私たちが常識的に言って頼りになると思っているものの象徴です。
主を畏れ、主を待ち望め。詩編はそのように訴えかけます。私たちを救う力を持つのは、神さまであって軍勢の馬でも勇士の力でもない。もちろん、お金でも社会的地位でもない。神さまこそが、私たちを救ってくださるお方です。
「まず、神の国と神の義とを求めなさい。」主イエス・キリストはそのように言われました。神の国と神の義。それらが私たちを救うからです。私たちは何に価値があると思って生きているのでしょうか。私たちは何が私の命を保つと信じているのでしょうか。今日、私たちが生きるために必要な糧を与えるのは、この世で常識的に必要とされる力なのでしょうか。それとも、キリストなのでしょうか。

2021年1月27日水曜日

2021年1月27日(詩編32)

詩編32
幸いな者
背きの罪を赦され、罪を覆われた人。
幸いな者
主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人。(1~2節)

私にとってとても印象的だったのは、この詩編の冒頭の言葉が「背きの罪を赦され」と言っていることです。これまで罪を犯したことがない人、神にも人にも責められるべきところがない人、そのような人は幸いだと言っているのではありませんでした。幸いな人、それは、背きの罪を赦された人、罪を覆われた人。神さまにそのように扱って頂いた人、その人は幸いだ、と言います。
この世界のどこを捜しても、過ちもなく咎もない人などいません。欺いたことがない人など一人もいません。しかも「一般的に言って人間は罪を犯すものだ」ということでは済みません。この私が、他の人には見えないところで、あるいは心の中で、それとも人目もはばからずに、一体どんなに恥知らずなのか。神さまはそのことを私以上にご存じです。だからこそ、背きの罪を赦され、罪を覆われた人、その人は幸いです。

私が沈黙していたときは
一日中、骨も朽ち果てました。
昼も夜も御手は私の上に重く
夏の暑さに気力も衰え果てました。(3から4節)

私たちの今の季節で考えるなら、冬の寒さに心が固まっていますと言うことが許されるのかもしれません。骨も朽ち果て、重い肉体と心で気力も失い、呻いている。神さまの御手が重い。それは神さまに顔向けできない自分だからです。神さまが豊かに赦してくださることを信頼できないからです。しかし、赦しは神のもとにあります。豊かな恵みは主のもとにあります。

私はあなたに罪を告げ
過ちを隠しませんでした。
私は言いました。
「私の背きを主に告白しよう」と。
するとあなたは罪の過ちを
  赦してくださいました。(5節)

神さまは、今日、私たちの祈りを待っていてくださいます。耳を傾けて、豊かな赦しを準備して、私たちを待っていてくださいます。失われた息子を待つ父のように。

2021年1月26日火曜日

2021年1月26日(詩編31)

詩編31
主をたたえよ。
包囲された町で
  主は私に慈しみの奇しき業を行われた。
私はうろたえて言いました。
「あなたの目の前から私は絶たれた」と。
しかし、あなたに向かって私が叫ぶと
嘆き祈る私の声をあなたは聞かれた。(22~23節)

深く、厳しい苦しみの中で、神さまに向かって助けを求める祈りの言葉がこの詩編31です。「主よ、憐れんでください。私は苦しんでいます。目は憂いによって衰えました。魂もはらわたも」(10節)。悲しみは深く、嘆きのために力が尽き果ててしまいました。そういう私を見ても周りの人は助けてはくれず、却って自分を遠ざけ、逃げ、私は忘れられてしまった。そのように訴えています。
この詩編は比較的長い詩編です。嘆きの言葉が重ねられています。私がこの詩編の言葉を読んでいちばん心に残ったのが、冒頭の言葉です。「包囲された町で、主は私に慈しみの奇しき業を行われた。」神さまの慈しみに気づいたのは、包囲された町でした。困ったことが解決したから、奇跡的に助けられたから神さまを賛美しますと言っているのではありません。包囲された町で神さまの慈しみの奇しき業を知ったのです。不条理なこと、どうしても変わってくれない辛いこと。悲しみ。それらに取り囲まれている中で、神さまは私たちに慈しみを示してくださいます。
私たちはうろたえます。厭なことしか目に入らなくなってしまうこともあります。「あなたの目の前から私は絶たれた」としか言いようがないときがあります。しかし、神さまは私たちの祈りを聞いてくださっています。必ず。
「主よ、私はあなたに信頼します」とこのキリスト者は告白します。私たちも同じように告白します。「主よ、私はあなたに信頼します。」私たちの主は十字架にかけられた方です。「十字架から降りて」自分を救ってみろ」と罵られたとき、その侮辱を甘んじて受けた方です。この方は敵に囲まれる私たちの祈りを聞き、私たちのための慈しみの業に生きぬいてくださいました。
今日も、このお方の奇しき御業の内に、祝福の中で一日を歩まれますように。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にありますように。

2021年1月25日月曜日

2021年1月25日(詩編29〜30)

詩編29~30
主は洪水の上に座し
主は王として、とこしえに座した。
主がその民に力を与えてくださるように。
主がその民を祝福してくださるように
  平安のうちに。(30:10~11)

川の水はかの平清盛にさえもどうにもならないと言わしめたと聞き及んだことがあります。私たち人間の力の外にある。治水工事をしたり、いろいろな対策を講じることはできても、限界があります。もちろん洪水だけではなく、雷も大雨も、山も動物も、人間の力の外にあります。現代社会は自然世界を制圧できるような傲慢な思い込みを信じ切っているようなところがありますが、私たち人間の力は決して大きなものではありません。
しかし、主なる神様は洪水の上に座す方です。私たちの手に余るこの世界のすべてを造り、支配しているのは、神さまです。そのことに対して謙虚でありたいと今日の詩編の祈りの言葉を読んで考えさせられました。
洪水や自然の驚異だけではなく、私たちには自分ではどうすることもできないことがたくさん起きます。過去と他人は変えられないと言います。その通りだと思います。だからこそ、神さまの前に身をかがめて、へりくだりたいと願います。

夕べは涙のうちに過ごしても
朝には喜びの歌がある。(30:6)

本当に美しい祈りの言葉です。涙のうちに夕を迎え、夜を過ごさなければならない時も、神さまが喜びの歌を授けてくださる朝を迎えることができます。私たちには変えられないこともたくさんありますが、しかし、私たちの手に余ることへの涙を、神さまが喜びに変えてくださるときは必ずやって来ます。私たちはそのことを信じてる。

あなたは私の嘆きを踊りに変え
私の粗布を解き、喜びの帯とされました。
それは、心の底からあなたをほめ歌い
口をつむぐことのないためです。(30:12~13)

キリストが私の嘆きを喜びに、賛美に変えてくださる。その日を待ち望みつつ、キリストを待ち望みつつ、私たちの新しい一日が始まります。

2021年1月24日日曜日

2021年1月24日(詩編28)

詩編28
主をたたえよ。
主は嘆き祈る私の声を聞かれた。
主はわが力、わが盾。
私の心は主に信頼し
私は助けられ、心は喜び躍る。
私は歌を献げて主に感謝する。
主こそ、その民の力。
油注がれた者の救いの砦。(6~8節)

神さまは必ず私たちの嘆き祈る声を聞いてくださいます。私たちの祈りを憶えていてくださいます。それが私たちの祈りの確信です。整った祈りの言葉が出て来ないとき、たった一言「神さま」とお呼びして二の句を継ぐことができないとき、神さまは必ずその声を聞いてくださいます。そして私たち以上に私たちを知って、言葉にならない思いをも覚えて、私たちの祈りを受け止めてくださいます。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。神さまに向かって私たちが祈るならば、たった一言でも神さまを呼ぶならば、あるいはそれが言葉にならなかったとしても神を求めるならば、それは私たちが神の子であることの証しです。神を「父よ」とお呼びする神ご自身の霊が、私たちの中で叫んでいる。
「油注がれた者の救いの砦」と詩編は言っています。油注がれた者。油を注ぐという習慣そのものは私たちは持っていませんが、私たちの言葉で言い直すならば、これは神の霊を受けた者ということであろうと思います。聖霊によって神を父と呼んで祈る者。神はその人のための救いの砦になってくださいます。いや、神が私たちのための救いの砦でいてくださることに、祈る者は気づくのです。神はこの私をもすでに救ってくださっていたのだ、と。
だから、私たちは主をたたえ、主に信頼し、神さまの救いの御業を賛美します。キリストによって示された神の愛をほめたたえます。このお方が私たちの救いの砦でいてくださるからです。

2021年1月23日土曜日

2021年1月23日(詩編27)

詩編27
私が主に願った一つのこと
私はそれを求めよう。
命のあるかぎり主の家に住み
主の麗しさにまみえ
主の宮で尋ね求めることを。(4節)

詩編の中にはたくさんの麗しい言葉、美しい言葉があります。その中でも特に輝いているのが、この言葉であると思います。主の家に住み、主の麗しさにまみえ、主を求める。それこそが私のただ一つの願い。私たちも、この詩編に心を合わせて願い求めたいと思います。そうすれば、私たちの心も麗しくなるのではないでしょうか。
この詩編は「主はわが光、わが救い」と言っています。だから「私は誰を恐れよう」。なぜなら「主はわが命の砦」だから。誰に対してもおののくことがない、と宣言します。裏を返せば、今現に恐れおののくような現実に直面していたということでもあります。「悪をなす者が私の肉を食らおうと近づく」のです。自分を食い物にしようとする世間はまことに厳しい。しかし「私の信頼は揺るがない」。
こういう文脈で「命のあるかぎり主の家に住み」たいと願っている。うっかり「主の家に住む」というのは厳しい世間の現実から逃げることだと勘違いしないようにしたいと思います。しかし、この詩編の信仰は現実逃避の考え方とは違うと思います。「災いの日に、主は私を仮庵に隠し」と言っています。仮庵というのは、出エジプトをしたイスラエルの人々が40年間の荒れ野での旅の時に生活をしたテントのことです。仮庵というのは現実逃避どころか、荒れ野という本当に厳しい厳しい旅のための住まいです。神が準備してくださる住まいは、荒れ野の旅を生きぬくための住まいです。
私たちは毎週日曜日に神さまの御前にでて、神さまを礼拝しています。神さまに遣わされた場所で、神さまに与えられた使命を果たすために、私たちは神の家に帰って神さまを礼拝する。これが私たちの仮庵です。神の家は、荒れ野のど真ん中にあります。神を礼拝するとき、私たちは知ることになります。この方は私のことを決して見捨てず、見放すこともない、と。例えわが父、わが母が私を捨てるときにも、神が私を捨てることは絶対にないのだ、と。だから、今どんな敵に囲まれていようとも、恐れるべき者は何一つない。この荒れ野の旅は神が共にいてくださる旅だから。
私たちのために独り子を下さった神の愛の麗しさを礼拝する。それが神の家の営みです。

2021年1月22日金曜日

2021年1月22日(詩編26)

詩編26
主よ、私を調べ、試してください。
私の思いと心を確かめてください。(2節)
私は空しい者と共に座らず
欺く者と共に進まず
悪をなす者の集いを憎み
悪しき者と共に座りませんでした。(4~5節)
主よ、私はあなたの住む家を
あなたの栄光の宿る所を慕います。(8節)

1節では「主よ、私を裁いてください」と言っています。私を調べ、試し、私の思いと心を確かめてください。そのように神さまに願い出ています。どのような意味での裁きを求めているのかと言えば、自分が誰と共に生きてきたのか、誰を頼りに生きてきたのかを調べてください、と言っています。
すなわち、自分は空しい者、欺く者、悪をなす者、悪しき者と共に生きてくることはなかった。むしろ神の家に生きてきたし、神の栄光を求めて生きてきた。その点を確かめてください、と祈っています。
この詩編は、読むととても厳しい気持ちになると思いました。神さまと共に生きるのか、空しい者と共に生きるのか、どちらか一つだと言っています。どちらにもいい顔をすることはできない。それがこの詩編のスタンスだと思います。そうは言っても八方美人な方が楽です。しかし、この詩編の言葉は、一度よく耳を傾けて聞かなければならない言葉なのだと思います。私たちは神を愛するのか、神に逆らう者を愛するのか、どちらなのでしょうか。

私は全き道を歩みます。
私を贖い、憐れんでください。(11節)

「私は全き道を歩みます」と言っていますが、ここでは「他の人はどうあれ私は」といったニュアンスで、「私は」を強調した書き方になっています。そういうことができたのは、神が私を贖ってくださったこと、憐れんでくださったことを知っているからです。だからこそ、贖い、憐れんでくださいと祈ることができる。
私たちは独善的になって気にくわない人を遠ざけるのではなく、ただ神の憐れみへ帰り、神の御許に私の生きることのできる場所があることを深く知りたいと願います。私たちを生かす神の憐れみへの道は、私たちの前に開かれています。

2021年1月21日木曜日

2021年1月21日(詩編25)

詩編25
主を畏れる人とは誰か。
主はその人に選ぶべき道を示す。(12節)

私はこの詩編第25編12節が若い頃からとても好きでした。今も、これを読むと胸が熱くなる思いがします。ただ、今回この詩編を読み、12節だけではなく詩編全体の中の12節として読むことがとても大事なのだな、と思いました。
この詩編では、例えば4節に「主よ、私にあなたの道を知らせ、行く道を教えてください」とあり、8節にも「主は恵み深く、正しい。それゆえに、罪人に道を示す」とありますので、この詩編にとって「道」というのがとても大切な事柄であることは間違いありません。それと共にこの詩編で繰り返されているのは、今の8節にも書かれていた罪に関わる事柄です。7節「私の若き日の罪や背きを思い起こさず・・・」、11節「私の過ち」、18節「私の罪のすべてを」。
この詩編は17節で「心の苦悩から解き放ち、苦難から私を引き出してください」とあり、苦悩や苦難の中にいる人の祈りの言葉であることが分かります。2節を見ると敵が出て来るので、人間関係でとても辛い目に遭っていたということであるのかもしれませんが、恐らくその根本的な問題は自分自身の罪や過ちだったのだと思います。だから、そのような私の罪を赦し、あるいはそれを思い起こさないでください、と祈っているのではないでしょうか。
これは私たちにもよく分かることです。表面的には他人に問題があるように見えて、実は自分の罪や過ちが問題を生み出したり複雑にしたりしてしまっている。それが私たちの現実なのではないでしょうか。
「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示す。」主を畏れる人というのは、自分の罪を悔い、神に赦しを求め、敵として自分の前に立つ者との間に神に立って頂くことを乞う者ではないでしょうか。主は、主を畏れる者に選ぶべき道を示してくださいます。私たちが今日生きるための道を、神は示してくださいます。

2021年1月20日水曜日

2021年1月20日(詩編24)

詩編24
門よ、頭を上げよ。
とこしえの扉よ、上がれ。
栄光の王が入る。
栄光の王とは誰か。
強く勇ましい主。
戦いの勇敢なる主。(7~8節)

さがみ野教会の週報の週間予定表では、土曜日のところに「主日の準備」と書いてあります。私はこの書き方を、渋沢教会で神学生として研修したときに浜崎孝先生から学びました。主日の準備。それは、牧師が説教の準備をしたり会堂を整えたり、という意味ではありません。いや、それも含みます。しかしそれだけではないのです。礼拝者一人ひとりの、主の日に向けた準備です。例えば、土曜日は夜更かしをしない、そのために一日のスケジュールを整えるというのも一つの準備だと思います。
この詩編では「門よ、頭を上げよ」と呼びかけていました。栄光の王が来るからです。強く勇ましい、主なる神様が来られるから。それに備えて門は頭を上げ、扉は上がるべきだ、と言います。この方は「地とそこに満ちるもの」を造り、「大海の上に地の基を築き、大河の上に世界を据えた」方です。この世界の造り主、支配者が私たちのところへ来てくださる。そのための準備をしよう、と呼びかけています。
私たちは、主なる神様をお迎えするために、どのような準備をするのでしょうか。大切なお客様を迎えるためには、家を掃除したりきれいな服を着たりします。主をお迎えするために、私たちはどうやって準備しているのでしょうか。
この世界を造ったのは神さまですから、この世界に神さまの手が届かない場所、神さまのものではないところはありません。そういう意味では、神さまはお迎えする前から私たちのところにおられると言うべきなのかもしれません。ただそうであっても、あるいはそうであるからこそ、主と出会うための準備をするということは尊く、大切な営みなのではないでしょうか。そして、主と出会う準備をするのは土曜日だけではありません。私たちの毎日の営みが、主と出会うための準備です。私たちは門として頭を上げ、扉として上がり、主をお迎えします。私たちの王であり、造り主である方が私たちのところへ来てくださっているからです。

2021年1月19日火曜日

2021年1月19日(詩編23)

詩編23
主は私の羊飼い。
私は乏しいことがない。
主は私を緑の野に伏させ
憩いの汀に伴われる。(1~2節)

主は私の羊飼い。私たちにとってこの言葉はどれほど大きな慰めでしょう。主は、ただの羊飼いではありません。私の羊飼いです。私を緑の野に伏させてくださり、私を憩いの汀に伴ってくださいます。主イエスの声がここに響いています。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。・・・私は羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:14,15b)。
この「緑の野」というのは、青々とした大草原ではなく、荒れ野に僅かに残る草地を意味するそうです。そうだとすれば、憩いの汀も渇いた地の小さな水場のことなのでしょう。この詩編は安全で豊かな場所の牧歌的な風景を描いたものではなく渇いた荒れ野で、しかしそれでも主ご自身が私の羊飼いとして私を守り、養ってくださることへの信頼の祈りです。

たとえ死の陰の谷を歩むとも
私は災いを恐れない。
あなたは私と共におられ
あなたの鞭と杖が私を慰める。(4節)

この詩編は4節から少し変わります。神さまを現す人称が、1から3節までは三人称です。英語に直して代名詞で言い表すならHeです。しかし、4節はそうではない。「あなたは私と共におられ」る。二人称、つまり「あなた」です。私と共にいてくださるのはHeではなく、あなたです。「あなた」とお呼びすることのできる方が私と共にいてくださる。だから、そこが例えそこが死の陰の谷であったとしても災いを恐れることがない。私を苦しめる者の前であっても、「あなた」が食卓を整えてくださるのですから。私たちのために命を捨ててくださった羊飼い、主イエスさまが今日も私たちを養ってくださるのです。

2021年1月18日月曜日

2021年1月18日(詩編22)

詩編22
すると、あなたは私に答えてくださった。(22節)

詩編第22編。この詩編ほどの深い嘆きは他にないのではないでしょうか。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか。私の嘆願の言葉は救いから遠い。」神に見捨てられた。祈りも願いも、神に届いていない。そう言わざるを得ない。どんなに祈っても叫んでもいっこうに答えがない。それでも、黙るわけにはいかない。
人々は私を嘲り、蔑む。「私は虫けら、人とは言えない」とまで言います。何よりも辛いのは、自分が信じる神を引き合いに出して罵ることだったのだと思います。人々が言うのです。「主に任せて救ってもらうがよい。主が助けだしてくれるだろう。主のお気に入りなのだから」と。これまで自分の信仰の先輩たちは神に救われ、助けられて生きてきた。聖書にはそういう出来事がたくさん書いてある。あるいは、自分自身のこれまでの人生を振り返っても、神のご配慮はたくさんあった。「まさにあなたこそ、私を胎から取り出した方、母の乳房に預けた方。母が身ごもったときから私はあなたに託されていた。母の胎にいたときから、あなたは私の神。」私は生まれる前から神の御手の中にいた。
しかし、今の私の現実は違うのです。神さまは今は自分のことは助けてくれないし、救ってもくれない。信じていることと現実とのギャップが、苦しみを一層大きくしているのです。
私たちにとって詩編22は主イエス・キリストが十字架の上で叫ばれた詩編です。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」という叫びは、何よりも先ず主イエスご自身の叫びとして私たちは知っています。神に捨てられる絶望、信じていることと現実とのギャップ、神さまがまったく見えない現実。キリストは神に捨てられた現実を誰よりも深く知り、神に捨てられた者として陰府に降って行かれたのです。
この詩編は23節からまったく違う彩りをもつ詩編に代わります。「私は兄弟たちにあなたの名を語り伝え、集会の中であなたを賛美しよう」と言っている。その転換点は前半部の最後の言葉にあります。「すると、あなたは私に答えてくださった。」前半の深い絶望の祈りの言葉の最後の最後に「あなたは私に答えてくださった」とある。しかし、実際に何が起きたのか、どう答えてくださったのかは書かれていません。もしかしたら、目の前の現実は何も変わっていなかったのかもしれません。しかしそれでも、神が私に答えてくださること、この祈りがちゃんと神さまの御前に届いていることを、この信仰者は確信したのではないでしょうか。私たちもそのことを信じることができる。それは、キリストがこの詩編の叫びを誰よりも深く味わって十字架の上で死に、陰府に降り、復活したからです。神さまの答えは、ちゃんとあるのです。キリストが私の代わりに神に捨てられた。だから、あなたが神に捨てられることは、ありえないのです。

2021年1月17日日曜日

2021年1月17日(詩編21)

詩編21
主よ、力に満ちて、高くいませ。
私たちはあなたの力強い業を歌い
ほめ歌を歌おう。(14節)

今日は日曜日。主の日です。私たちはこの日を神さまの御前で聖別し、礼拝のために神さまに献げます。今は自身の体調や家族や職場などさまざまな人々に配慮しながら、教会堂で礼拝を献げるのか、自宅で礼拝を献げるのか、選ばなくてはならない状況が続いています。例えどこであっても、あるいはどのようなかたちであっても、礼拝は礼拝です。私たちが主イエスさまの御前に膝をかがめてこの方を崇め、賛美し、祈りを捧げ、御言葉を聞く。その営みに何らの変更もありません。
この詩編は、最後で「ほめ歌を歌おう」と言います。神さまへの賛美の歌を歌います、と言います。今日、私たちもそれぞれの場所で神さまにほめ歌を献げましょう。教会堂であれば、今は大声を上げることは差し控えねば成りません。少し小さな声で、しかし、心を込めて。ご自宅で礼拝を献げているのであれば、大きな声で歌えるのか、あるいは周囲に遠慮せねばならないか、それぞれの状況によって違います。いずれにしても、歌詞を噛みしめ、心からの賛美の思いを神さまに献げたいと思います。
そこで私たちが思い起こすのは、主の力です。「私たちはあなたの力強い業を歌い」と言っているとおり、力強い主の御業を思い起こします。この詩編は王に誉れを与える神を賛美する詩編でした。私たちにとってのまことの王、ただおひとりの王は、イエス・キリストに他ならない。キリストが神からお受けになった栄冠を思い起こしてこの詩編に聞くことができるのではないでしょうか。神がキリストにお与えになった栄冠。それは何よりも先ず、復活の栄光でしょう。神がキリストを死者の中から引き上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった。私たちはキリストの復活を思い起こし、そのキリストと出会うために、今日神さまを礼拝するのです。
さあ、神さまの御前に進み出ていきましょう。

2021年1月16日土曜日

2021年1月16日(詩編20)

詩編20
ある者は戦車を、ある者は馬を誇る。
しかし私たちは我らの神、主の名を誇る。
彼らは膝を折り、倒れた。
しかし私たちは起きて、まっすぐに立った。(8~9節)

ある者は戦車を、ある者は馬を誇る。ある者は豊かさを誇り、ある者は人気を誇り、ある者は名誉を誇る。ある者は成功を誇り、ある者は力を誇る。しかし私たちは我らの神、主の名を誇る。あなたは、何を誇りとしていますか?
プライドばかり高かったり、異様に自尊心が強すぎたり、他人を見下したりしているのは、とても見苦しいことだと思います。しかし、その逆に全然誇りがないというのも不健全です。いつも卑屈で、ひがんでいて、自己否定の感情から抜けられない。それでは心が不健康です。
私たちには、誇るべきものがある。しかし、この世で礼賛されている豊かさや力のようなものを誇るのではありません。私たちは私たちの神である主の御名を誇る。私たちは、私たちのために命を捨ててくださった神の子、イエス・キリストのお名前を誇ります。この私のためにご自分を献げてくださった方がいるという事実を誇ります。
「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです」(ローマ5:1~3)。
キリストは私たちと神さまとの間に平和を築いてくださいました。だから、私たちは自分の苦難をも誇ることができます。私たちは神の栄光に与る希望を誇りますが、その誇りは苦難の中でも意味を持ち続けるからです。それは、戦車や馬を誇る者が決して知ることのない誇りです。戦車の力も馬の力も、結局はいつかは尽きてしまいます。膝を折り、倒れるとき、自分には価値がないと言わざるを得ない事態に直面したとき、私たちを支えきることのできるようなものではありません。ところが、キリストによって示された神の愛が変わってしまうことはないのです。だから、キリストを誇る誇りが空振りに終わることはないのです。

2021年1月15日金曜日

2021年1月15日(詩編19)

詩編19
天は神の栄光を語り
大空は御手の業を告げる。(1節)
私の口が語ることと心の思いとが
  御前で喜ばれますように。
主よ、わが大岩、わが贖い主よ。(15節)

詩編19は一読して明らかなとおり、はっきりと前半と後半で分かれます。表題の1節は別として、2から7節では神がお造りになった自然世界が神の御業を語っているということを言っています。天も大空も、昼も夜も、神がお造りになった被造物です。イスラエルの周辺社会では、自然世界が人間を襲う脅威として神格化された力を持つと考えられていたようです。ところが、この詩編では自然世界は神に造られたものであり、それ自体が神格化されるのではなく、むしろ造り主なる神の御業を語ると言われています。
「(自然は)語ることもなく、言葉もなく、その声は聞こえない。その声は全地に、その言葉は世界の果てにまで及んだ。」言葉ならぬ言葉が響いている。その言葉というのは一体何を語っているのかと言えば、神の栄光であり、神の御業です。自然自体が擬人化されて何かをしゃべり出しているということではなく、神の創造の御業のしるしが、私たちに神の偉大さを証ししている、ということでしょう。
それに対して8節以下には自然の話はまったく出てきません。代わって、律法の話になっています。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ」る。それは「蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」と言います。7節までと全然違う話になっています。それで、もともと別の詩編だったものが後代の人の手で一つにまとめられたのではないかと言われるほどです。しかし、簡単にそう決めつけることはできないと思います。
なぜなら、7節までも8節以降も、共通して「言葉」が主題になっていました。自然世界が語り出す言葉、そして律法が語る言葉です。自然世界は神の偉大さを賛美します。律法の言葉は私たちを真実な生き方に向かわせ、私たちの魂に命を与えます。主題は一貫していて、私たちが神さまの御言葉をどう聞いて、どうやってそれに従うのか、という話です。
最後「私の口が語ることと心の思いとが、御前で喜ばれますように」と言います。私自身の言葉も、自然や律法がそうであるように、神を証しするものとなり、また神に喜ばれるものとなりますように、と祈る。私たちは、今日、この世界の中でどのように神の言葉を聞き、それに従うのでしょうか。私たちの口は、今日、どのような言葉を口に上らせるのでしょうか。

2021年1月14日木曜日

2021年1月14日(詩編18)

詩編18
苦難の中から主に呼びかけ
わが主に叫びを上げると
主はその宮から私の声を聞き
叫びは御前に至り、その耳に届く。
地はおののき、揺らぎ
山々の基は震え、おののいた。
主が怒ったからだ。(7~8)

この詩編は敵の脅威に苦しめられる人の祈りです。しかも「死の縄が巻き付き、滅びの河が私を脅かす」と言っているとおり、死までも考えないわけにいかない厳しい状況に置かれています。その苦悩の中から主に助けを求めて、叫んでいます。すると、主は私の声を聞いてくださる。叫びは神の御前に届き、神は私の声に耳を傾けてくださる。主はその叫びを聞いて怒りを燃やす。そのために「地はおののき、揺らぎ、山々の基は震え、おののいた」とまで言っています。
この詩編18はずいぶん長い詩編ですが、私にいちばん印象深かった言葉は、この「地はおののき・・・」というところでした。たいへんなことを言っていると思いました。もちろん、私が祈れば神が怒って地震を起こす、などといっているのではありません。当然、比喩です。それではこの比喩で一体何を言っているのか?地はおののき、揺らぎ、山々の基は震え、おののいた。地も山々の基も、私たちが生きる基盤です。これだけは絶対に覆らないと信じている土台です。しかも大地は私にとっても敵にとっても共通のプラットフォームです。大地のように絶対に確かだと無意識のうちに信じているものがひっくり返ってしまう。そういうことなのではないかと思います。
地がおののき、揺らぎ、山々の基が震え、おののく。大地でさえ、何一つ確かなものは無い。しかし神を信じる者は神に向かい続けます。このような異常な事態も、神のあずかり知らないものではないからです。この社会の中でどんなに盤石だと思われているあらゆる制度も力も、どんなものであってもいつかは必ず覆るときが来る。しかし、神さまはそうではありません。「主をおいて誰が神であろうか。我らの神のほかに誰が大岩であろうか。」この方を信じ、従うとき、私を苦しめる敵の存在は絶対的なものではなくなります。私たちの目を、神さまに向けましょう。

2021年1月13日水曜日

2021年1月13日(詩編17)

詩編17
あなたの剣によって、悪しき者から
  私の魂を救いだしてください。
主よ、人々から、あなたの手で。
人々から、彼らの人生の分け前であるこの世から。
あなたがたかくまった人に
十分な食べ物を与えてください。
子どもたちも満ち足り
その幼子たちにも豊かな富を残せますように。
私は義にあって御顔を仰ぎ見
目覚めてはあなたの姿に満ち足りるでしょう。(13~15)

私はこの詩編の最後の言葉がとても好きです。この詩編では、途中で「あなたは私の心に試練を与え、夜、訪れて私を試みました」と書かれています。試練の中で神に自分の心の中を試される。苦しみの中で私は神に逆らってしまうのではないか、正しくない思いや行いへの誘惑に負けてしまうのではないか。だから、「神よ、私はあなたに呼びかけます」と言って、神の慈しみの御業によって私を守り、悪しき者から私を救ってください、と祈る。それらは、夜のイメージです。夜陰に乗じて私を誘惑する私自身の心や、私の心を誘惑する世の繁栄や富を「私を攻める者」と呼んでいるのかもしれません。しかし、神さまが、やがて眠りに就く私たちの手を取って起こしてくださる朝が来ます。朝の光の中、神が私の手を取って起こしてくださる。「私は義にあって御顔を仰ぎ見、目覚めてはあなたの姿に満ち足りるでしょう。」
夜の闇の中では、自分の罪悪感や実際に自分を責める声、理不尽な物言い、そういうものが私たちの頭の中を乗っ取ってしまうようなところがあります。しかし、神が手を取ってくださる朝、私たちの目に入るのは神の御顔だけです。目覚めた私たちの耳が聞き取るのは、神のみ声だけです。
これは、私たちの死の先にある復活の朝のことを言っているのかもしれません。私たちの死を超える希望、それは、朝の光の中で神の御顔を仰ぎながら、神に手を取られて目覚めることへの希望なのです。

2021年1月12日火曜日

2021年1月12日(詩編16)

詩編16
諭してくださる主をたたえよう。
夜ごと、はらわたが私を戒める。
私は絶えず目の前に主を置く。
主が右におられ、私は揺らぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び
心の底から喜び踊り
この身もまた安らかに住まう。(7~9)

この詩編は「神よ、私を守ってください」と始まっています。ところが、私にとっては意外なことでしたが、この言葉からすぐに想像するような自分の個人的な苦しみから「私を守ってください」という祈りではないようです。
この詩編は神さまを「諭してくださる主」と呼びます。神は私を諭し、私が誤った道に行くことのないようにただしてくださる方です。それは主こそが幸いであり、この方のもとが私の生きる場だからです。さらに「夜ごと、はらわたが私を戒める」とも言います。ヘブライ人たちははらわたを心の座と考えていました。日本語では「胸」が心の座と考えられていますが、同じようにヘブライ人が「はらわた」と言えば心のことです。私自身の心もまた私を戒める。どのように戒めるのかと言えば、主に我が眼を向けるように、と戒めると言うのです。「主が右におられ、私は揺らぐことがない」。神が私のすぐ右におられ、私を諭し、私の良心を呼び覚まして神に従う者にしてくださる。だから、私の心は喜び、心から喜び躍り、この肉体も安らかに住まうのです。そのように言います。
この詩編の祈りの言葉が表している信仰のあり方は、とても大切な事柄を訴えかけているように思いました。神さまに、私を見ていてくださいと祈っています。それは私が毎日を安心して暮らせるようにということではなく、(あるいはそれも含まれているのでしょうが、少なくともそれだけではなく)私が道を踏み外すことがないように、主よ私を見ていてください、という祈りです。他の神々を追うことをせず、主なる神に目を注ぎ、主なる神の御前に生きる。そこに私の幸いがあるから。神が示してくださった愛と慈しみの道を、主よ、私にも歩ませてください。この詩編はそのように祈ります。

2021年1月11日月曜日

2021年1月11日(詩編15)

詩編15
主よ、誰があなたの幕屋にとどまり
聖なる山に宿ることができるのでしょうか。
それは、全き道を歩み、義を行い
心の中で真実を語る者。
舌で人を傷つけず
友に災いをもたらさず
隣人をそしることもない。(2~3)

おかしな打ち明け話をするようですが、実は今日のこのメッセージを書くのは、二度目です。一度書いたものを消してしまいました。あまりにも暗かったのです。この詩編に書かれているような全き道を歩み、義を行うような生き方から自分がいかに遠いかを考えていたら、とても暗い話になってしまいました。それで、一度消してしまいました。
考えてみれば、自分が神さまから遠く離れている現実は、今に始まったことではありません。それなのに、驚くべきことを神さまはしてくださいました。この詩編では「主よ、誰があなたの幕屋にとどまり、聖なる山に宿ることができるのでしょうか」と言っています。神さまの幕屋、聖なる山。それは祈りの場所であり、礼拝の場所のことであろうと思います。そこにとどまることができるのは、全き道を歩み、義を行う人でしょう、と言っています。確かにその通りであろうと思います。そういう人こそ、ふさわしい。
ところが、主イエス・キリストは言われます。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)。神の幕屋、聖なる山どころではありません。神の国です。神の国が、私たちの間にあると主イエスは宣言しています。キリストは、神の国を、それにはふさわしくないとしか考えられない私たちの間に来たらせてくださいました。
神の国の民とされて、私たちは言うことができます。「これを行う人はとこしえに揺らぐことがない」(5)。神の国に生かして頂いて、私たちも、神さまに喜んで頂ける者になることができる。神さまが私たちを新しくしてくださいます。その基盤は、揺らぐことがありません。神さまがあなたを選んで、ご自分の民としてくださったのですから。今、あなたが祈っているその場所が神の国であり、神の幕屋、聖なる山なのです。

2021年1月10日日曜日

2021年1月10日(詩編13〜14)

詩編13~14
いつまでですか、主よ。
私をとこしえにお忘れになるのですか。
いつまで御顔を隠されるのですか。
いつまで私は魂に思い煩いを
心に悲しみを日々頂き続けるのですか。(13:2~3)

昨日読んだ詩編11では「心のまっすぐな人は御顔を仰ぎ見る」と言い、神の御顔を仰ぐことこそ救いだと告白していました。ところがこの詩編13では、その神の御顔が見えないのです。詩編11を読んだからこそ、この詩編の絶望の深さが私たちにもよく分かります。そして、神さまの御顔が見えない苦しみや悲しみは、私たちにもよく分かるのではないでしょうか。
神さまの御顔が見えない代わりに見えているのは、敵の顔です。しかも「いつまで敵は私に対して高ぶるのですか」と言っているとおり、高ぶる敵の顔。そんなものは誰も見たくないのですが、目について離れない。いつでも脳裏をかすめ続けている。頭の中が敵の存在で支配されてしまう。私たちにも似たような経験があるのではないでしょうか。
「私はあなたの慈しみに頼り」というのは、本当に切実な祈りです。そうでなければ、自分の心を敵に支配されてしまうからです。神の慈しみだけが頼り。主よ、私を救ってください。そのように祈ります。

このような敵の脅威は、詩編14ではさらに強まっているようです。
主は天から人の子らを見下ろし
神を求める悟りのある者はいないかと探られる。
すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。(14:2~3)

かなり強烈な言葉です。完全に絶望しています。人間という存在がどんなに悪に染まって腐りきっているか、骨身にしみている人の言葉です。しかも、一人か二人、中には悪い人もいるという話ではない。誰も彼も、皆、悪い。もちろん、みんなが悪いと言って責任転嫁しているのでも、独善的に他人を裁いているのでもない。世界に対する深い絶望の言葉です。
「主は天から人の子らを見下ろし」と言っていました。思えば、主イエスさまは天から私たちを見下ろすことのできたお方です。ところが、見下ろして済ますのではなく天から地上に降りてきてくださいました。それどころか、地上の誰よりも低くへりくだり、みんなに踏みつけられました。善を行う者はいない。一人もいない。人の世には絶望するしかない。それでもなお主は世を愛し、ご自身を献げてくださった。その事実に、私たちはただ圧倒されるしかありません。

2021年1月9日土曜日

2021年1月9日(詩編11〜12)

詩編11~12
主は悪しき者の上に罠を、火と硫黄を降らせる。
燃える怒りの風は、彼らの杯が受けるべきもの。
主は正しき方、正義を愛される。
心のまっすぐな人は御顔を仰ぎ見る。(11:6~7)

悪しき者と正しき者とを裁くのは主なる神。詩編11はそのように断言します。主が愛する心のまっすぐな者への報いは、その人が御顔を仰ぎ見ること。神の御顔を仰ぐことに救いを見ているということが、この詩編の魅力だと思います。
この詩編は、冒頭で「悪しき者」に対してこのように言います。「主のもとに私は逃れた。なぜあなたがたは私の魂に言うのか。『小鳥よ、山に飛んでゆけ』と。」この「私」は、相手と比べて圧倒的に弱く、対抗できる力もなく、逃げるしかありません。逃れる「私」を見て、悪しき者たちは言うのです。「小鳥よ、山に飛んでいけ」と。自分たちのコミュニティから追い出してやろう、さっさと目の前から消えろということなのだろうと思います。そして、「私」自身、この人たちともう一緒にいることはできない。ここから逃れるしかない。ただ、山に逃げるのではありません。「主のもとに私は逃れた。」他のどこでもなく、主のもとに逃れる。なぜなら、主のもとに行って神の御顔を仰ぐことが、私の救いだからです。
その意味では「逃げる」といっても、どこかに行ってしまうということではないのかもしれません。神の御許に逃げる。すなわち、祈りに向かうということなのではないでしょうか。ここではないどこかに行くのではなく、人を避けて閉じこもるのでもなく、この世界のただ中で祈り、御顔を仰いで救いをいただき、再びこの世で生きていく。そういう祈りなのではないでしょうか。

続く詩編12でも、やはり主が救いでいてくださるということを告白します。
主は言われる。
「苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いている。
今こそ、私は立ち上がり、
あえぎ求める者を救いに入れよう。」(12:6)

人々は滑らかな唇で大口を叩き、私を惑わし、苦しめる。しかし、主の御言葉が私の救い。弱い私を救うために立ち上がってくださるのは、主なる神様。そのような確信をもって、神さまの御前にまっすぐな心で生きていきたい。私もそのように願います。

2021年1月8日金曜日

2021年1月8日(詩編10)

詩編10
主よ、なぜあなたは遠く立ち
苦難の時に身を隠されるのですか。
悪しき者は高ぶり
苦しむ人を追い回している。
彼らが、自らの謀に陥りますように。
悪しき者は自らの野望を誇り
貪欲な者は主をたたえながらも侮っている。(1-3)
その道は常に栄え
あなたの裁きは彼らからは遠く離れてある。(5a)
主こそ王、代々とこしえに。(16)

悪しき者、神を侮る貪欲な者。彼らはこの世の中で成功し、栄え、とても幸せそうにしている。9節を見ると、この悪しき人は苦しむ人を苦しめている張本人である。そして、恐らく「苦しむ人」というのはこの詩編作者自身なのであろう。つまり、被害者なのだ。あの人は調子に乗って自分の成功を喜んでいるが、その陰で私は苦しめられている。多くの人はこの人の味方であって、自分がこのように苦しめられていることになんて誰も気に掛けようとしない。この人は神をたたえながらも実は侮っており、不遜にも「神は忘れているのだ。顔を隠し、永遠に見るまい」と嘯いている。この詩編は、恐らくそういう状況での祈りなのだと思います。
私はこの詩編を読んで、同じようなときに自分はどうしてきたのだろうかと考えないわけにはいきませんでした。そして、私がこのような状況で感じてきたことは、私の目には明らかです。私は妬み、憎み、祈ろうとはしてきませんでした。妬むというのは、裏を返せば、自分も同じような成功を手に入れたいということになります。そうすると、結局は「この人は神を侮っている」と言いながら、自分も同じように神を侮り、人間的な成功しか求めていなかったと言うことになってしまいます。
ところが、この詩編作者はそうではありませんでした。「主よ、なぜあなたは遠く立ち、苦難の時に身を隠されるのですか」と、この人は祈ります。神を求めています。「主こそ王、代々とこしえに」と告白しました。この世の成功というご褒美を求めて神を信じているのではなく、主が王でいらっしゃるから、神に従っているのです。神が永遠なる方だから、礼拝しているのです。必ず、神は「みなしごと虐げられている人のために裁き」をしてくださる。そのことを信じ、今報いを受けなくても神を崇めています。それが、信じるということなのです。

2021年1月7日木曜日

2021年1月7日(詩編9)

詩編9
主よ、立ち上がってください。
人が己の力を頼むことなく
国々が御前で裁かれますように。
主よ、国々に畏れを抱かせ
思い知らせてください。
己が人に過ぎないことを。(20-21)

ここに引用をした、この詩編の最後の言葉が心に残りました。「主よ、国々に畏れを抱かせ、思い知らせてください。己が人に過ぎないことを。」畏れというのは当然神への畏れでしょう。神を畏れ、自分は人に過ぎないことをわきまえる。今、私たちが失っていることだと思いました。
コロナのこと一つを考えてみても、このような疫病が出てきたことには何らかのかたちで人間の活動が関係しているのだろうと思います。今まで踏み入れなかった自然の深部に足を踏み入れていったとか、人間の活動が招いた温暖化だとか、説はいろいろあって私にはどれが正しいのかは分かりませんが、現代社会の人間の活動が無関係とは思えません。私たちの社会は、自然に対してあまりにも人間中心主義的に振る舞っています。自然からほしいままに収奪し、長期的にどういう影響を与えるかということよりも今の利益を優先させます。それは強欲だとか刹那的だとかいろいろな批判はできると思いますが、急所は、私たちが人間に過ぎないという事実を忘れているということであると思います。己が人に過ぎないことを忘れれば、人間は化け物になってしまいます。
「人間中心主義の非人間性」と言った人があります。その通りだと思います。さらに「非人間中心主義の人間性」とも言っていました。人間を中心に考えたときに、結局は非人間的な振る舞いを呼び込んでしまう。逆に人間を中心におかない構えを見せたとき、本当に人間を大切にすることができる。
人間を中心におかないといったときに、それでは何が中心にあるのか。この詩編では神を蔑ろにする者たちに対して、「貧しい人が(神から)永遠に忘れられ」ることは決してない、と言います。貧しい人や苦しみ人、社会の中の弱者を神は覚えている、と言います。人間中心主義的な振る舞いは、人間中心と言いながら、結局は自分中心であり、強者中心です。社会の中の弱い立場の人や物言わぬ自然を神が愛し、大切にしておられることに気づくとき、私たちの生き方は変わります。そのようにして、神が私たちの中心におられることを、私たちは学んでいくのではないでしょうか。

2021年1月6日水曜日

2021年1月6日(詩編8)

詩編8
主よ、我らの主よ
御名は全地でいかに力強いことか。
あなたは天上の威厳をこの地上に置き
幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。(2から3a)

この詩編の最初と最後の言葉は同じ。すなわち、「主よ、我らの主よ、御名は全地でいかに力強いことか」が繰り返されています。この賛美の言葉で全体が囲い込まれているのです。全地にとどろく神の御名の力強さを高らかにほめたたえている。しかも、その方は「主」であり、「我らの主」とお呼びする方であって、どこかにいる崇高な存在のようなものではありません。この「主よ、我らの主よ」には日本語訳では二度「主」という言葉が繰り返されていますが、原文を見ると別々の単語が使われています。最初の「主よ」は、神のお名前を現す四つの文字が書かれ、「我らの主」という言葉は一般的な「私たちの主君」という単語が使われています。つまり、全地で力強い御名が賛美される方は、私たちがこの方の方を向いてお名前を呼び、私たちの主よ、と呼びかけることを喜んでくださる方なのです。天とそこに満ちるものをお造りになった方は、私たちが神に向かって賛美を献げることを喜んでくださいます。

この詩編は、天に満ちる神の御手の業を仰ぎながら、驚きます。
あなたの指の業である天を
あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。
人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。
人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。(4から5)

まさに「驚いている」というべきであろうと思います。視線の移り変わりに注目してみます。まず、神の指を仰ぎ、その指の業である天を思う。果てしなく広がる天。そこには月と星とが輝いている。数え切れないほどの輝きを目の当たりにして、言葉を失う。これらはすべて神の指の業。果てしないこの天とそこに輝く星をお造りになった方が、人をもお造りになった。しかも神に僅かに劣る者として造り、栄光と誉れの冠を授けられた。一体、人とは何者なのか・・・。途方もない神の御業に驚いていることが、よく分かります。
賛美は驚きから生まれます。神の御業の途方もなさへの驚きです。この世界をお造りになった神の指が、この私にも働いているという驚きなのです。

2021年1月5日火曜日

2021年1月5日(詩編7)

詩編7
わが神、主よ、私は御もとに逃れました。
迫り来るすべての者から私を救い
  助けだしてください。(2節)
主よ、立ち上がってください、怒りに燃えて。
身を起こしてください
私を苦しめる者に激しい憤りをもって。
目を覚ましてください。私のために。(7節前半)

自分を苦しめる者がいる。その人は悪事を宿し、害悪をはらみ、偽りを生む。その人と自分との間を裁いてください、と祈る。この祈りの激しさにたじろいでしまう。自分はあまりこういう祈りをしない。「私を苦しめる者に激しい憤りをもって」身を起こし、その人を裁いてください、というのだ。
こういう祈りをしない代わりになにをするのか。恨んだり、無視したり、噂話をしたり。結局、自分でなんとか溜飲を下げるために小さな復讐をする。そして結局はあまりすっきりせずに、ますます恨みだけが募っていく・・・。
詩編はそのようなことをしない。はっきりと神に裁きを求め、神に復讐を求めるのだ。そうして自分の手から放してしまうことが、本当は健全なのではないだろうか。「彼は穴を掘り、さらに深くし、自ら掘った滅びの穴に落ちる。その労苦は彼の頭上に帰り、暴虐は頭に下る。」そういう日が来ることを、私がこの目で見ることはないのかもしれない。私が死んだ後かもしれないし、あるいは相手が生きている間には起きないかもしれない。それは、その人と神さまとの間の問題になってしまっているので、私は関与できない。神がお裁きになるとはそういうことなのだろう。私としては、手放してしまう。そうしたときに気づくのは、手放した者は自由であることだ。もう憎しみや恨みに支配されることもなく、神の御手を信じ、私は私の人生を生きる。神が正しいことをなさる。「その義のゆえに、私は主に感謝を献げます。」

2021年1月4日月曜日

2021年1月4日(詩編6)

詩編6
主よ、帰って来てください。
私の魂を助けだし
慈しみによって、お救いください。
死ねば、誰もあなたを思い起こすことはありません。
陰府にあって、誰が感謝を献げるでしょう。
私は嘆き疲れました。
夜ごと涙で寝床を浸し
床を漂わせています。

夜を巡る描写が、第3,4,5編とかなり違います。平安のうちに身を横たえ、また朝を迎えると言っていました。しかし、この第6編では涙で寝床を浸している。きっと眠れなかったに違いない。しかも、この寝床は、単に一日が終わって眠りに就くということではないのだと思います。3節では「私は病み衰えています」と言っています。病気だったのでしょう。肉体も心も弱っていた。床に伏していた。6節の「死ねば」「陰府」という言葉を読めば、この人は死を強く意識していたことが分かります。床の上で絶望し、涙を流して寝床が浸るほどだった。そういう夜の祈りです。
私は、この詩編第6編が好きです。とても暗い詩編です。しかし、悲しいときにこれを読み、この詩編の言葉を自分の祈りの言葉として祈ると、癒やされます。私の悲しみや嘆きを言葉にしてくれているからです。詩編はそうやって使うものなのだと思います。聖書の言葉に対して「使う」というと少し不遜な物言いかもしれません。ただ、詩編は私たち自身の祈りになることを待っているのではないでしょうか。この詩編第6編も、例外ではないと思います。
「主は私の泣く声をお聞きになった」と言います。祈る者は知るのです。神がこの涙を覚え、私の泣き声を聞いてくださっていることを。「主が私の祈りを受け入れてくださる」のだということを。助けてください、救ってください。そう祈る私たちの祈りを、主なる神様は耳を傾けて聞いてくださいます。
だから、私たちは祈ります。「主よ、いつまでなのですか」と祈ります。「主よ、帰って来てください」と祈ります。祈る者を、主は必ず御心に留めてくださるから。私たちは主を信じ、祈るのです。

2021年1月3日日曜日

2021年1月3日(詩編4〜5)

詩編4~5
あなたは私の心に
穀物と新しいぶどう酒の豊かな実りにまさる喜びを
  与えてくださいました。
平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。
主よ、あなただけが、私を
  安らかに住まわせてくださいます。(4:8,9)
主よ、朝に私の声を聞いてください。
朝が来る度に、あなたに向かって身を整え
  待ち望みます。(5:4)

礼拝前に司式者、奏楽者、説教者の祈りをしています。牧師が祈ったり長老が祈ったりしますが、以前長老をしてくださっていた方が、よく「あなたに寝ずの番をして頂いて、朝を迎えました」と祈っておられました。その祈りの言葉を聞く度に、本当にそうだなと、心を合わせて私も祈っていました。神が私たちのための寝ずの番をしてくださっている。それは出エジプト記に書かれていることで、過越の夜に神がイスラエルのための寝ずの番をした、という記事に由来する言葉です。
神が私のための寝ずの番をしてくださっている。だから、平安のうちに身を横たえ、眠ることができます。忙しくてなかなか寝床に行けない夜もあります。不眠で寝付けなかったり、すぐに起きてしまうこともあります。そうやって覚醒してしまうとき、神さまはどこかでぐっすり眠っておられるというのではない。神さまも起きていて、私たちのために番をしていてくださいます。根本的なところでは、私たちは平安です。
朝、神さまに祈りましょう。神さまは私たちの声に耳を傾けてくださいます。望みを持って神さまに祈りましょう。朝の光が辛い日にも、神さまの光はもっと優しく、私たちを照らしているのです。
神さまに祈る喜びは、穀物や新しいぶどう酒にまさる喜びだと言っています。お金で買うことはできないし、私たちの手で成し遂げた成果(例えそれがどんなにすばらしく、特別であったとしても)にまさる喜び、絶対的な平安。神さまは今日も、私たちのために夜眠ることもまどろむこともなく、そしてこの朝も、働いてくださっています。

2021年1月2日土曜日

2021年1月2日(詩編2〜3)

詩編2~3
なぜ、国々は騒ぎ立ち
諸国の民は空しいことをつぶやくのか。
なぜ、地上の王たちは立ち上がり
君主は共に謀って
主と、主が油を注がれた方に逆らうのか。

なぜ。私たちも問います。なぜ、と。なぜ、国々は騒ぎ立って神に逆らうのか。なぜ権力者たちは結託して神に背を向けるのか。この世界を造られた神の愛と慈しみを蔑ろにし、空しいものをまるで神であるかのようにあがめたてまつるのか。なぜなのか。なぜ、世界はこんなにもデタラメで、不正がまかり通るのでしょうか。
しかし、この詩編の祈り手は言います。「私は主の掟を語り告げよう」と。神が「あなたは私の子。私は今日、あなたを生んだ」と言ってくださるから。神の子として頂いた者として、私は神に従い、神の掟を語り継げる、と言うのです。世界が例えどんなにデタラメであったとしても、不正がまかり通っていたとしても、私はそれでも神に従うことをやめない。この世で報いを受けなくても、諸国の民や権力者たちに罵られても、神を愛し続ける。神が私をご自分の子として迎えてくださったから。そのように言うのです。

続く第三編ではこのように言います。
主よ、私の苦しみのなんと多いことでしょう。
多くの者が私に立ち向かい
多くの者が私の魂に言っています
「あの者に神の救いなどない」と。

しかし、誰が何と言おうとも、神が私の盾でいてくださり、私の栄光でいてくださる。そう断言します。私には苦しみが多い。神に祈っても信じても従っても現世の御利益は特にない。しかし、「それがどうした」と言わんばかりに、神に向かって「あなたこそ」と言うのです。あなたこそ私の救い。だから、平安の内に眠ることもできます。「私は身を横たえて眠り、目覚めます。主が私を支えておられるから。」周りが敵ばかりだと思えば、夜も眠れません。しかし神が支えてくださるから、安心して眠ることができる。今日の私たちの目覚めも、神の祝福の内に頂きました。主なる神こそ、私たちを愛し、ご自分の独り子をさえ与えてくださる慈しみに満ちたただおひとりの神です。

2021年1月1日金曜日

2021年1月1日(詩編1)

詩編1
幸いな者
悪しき者の謀に歩まず
罪人の道に立たず
嘲るものの座に着かない人。
主の教えを喜びとし
その教えを昼も夜も唱える人。
その人は流れのほとりに植えられた木のよう。
時に適って実を結び、
葉も枯れることがない。
その行いはすべて栄える。

主の教えを喜びとし、昼も夜も唱える人!その人は何と幸いなことでしょう。この「唱える」という言葉を辞書で引くと「黙想する」という意味もあると書かれています。とても魅力的な訳語です。黙想、それは聖書の御言葉に沈み込むことです。深く沈潜して、御言葉を内側から感じ取ることです。詩人の八木重吉がこのような詩を残しています。

この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ
ことばのうちがわにはいりこみたい。

主の御言葉を感じ取るとき、私たちは命の水の流れに養われていることに気づきます。葉も枯れず、実を結ぶ。
この「唱える」という単語ですが、「ブツブツ何かを言う」という意味もあります。ブツブツと言うと随分と印象が悪いですが、恐らく口の中にずっと言葉があり続ける、ということだと思います。ここでは口の中にあるのが不平ではなく、主の教えなのです。何が口の中にあるかで、私たちは変わります。
主の御言葉に入り込み、内側から感じ、私たちの口の中に御言葉があり続けるなら、私たちは必ず新しくなります。キリストに似たものにしていただける。私はそう信じています。御言葉が私を新しくする。そうであるならば、後は神さまの責任です。御言葉によって私を新しくしてくださる神さまに期待し、喜んで御言葉を口ずさみ、深く御言葉に潜り込んで、そこに込められた神の愛を感じ取りたい。そう願います。

新しい年も、神の言葉の祝福があなたにありますように。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...