2019年3月31日日曜日

コリントの信徒への手紙一11:1-16「神の栄光を映す礼拝」


 今朝の御言葉を読んでどのように思われるのか、できればお一人おひとりの感想を伺いたいです。私は、正直に言って戸惑いました。どう読んだらいいのか、ましてどう説教したらいいのか。今朝の御言葉は私たちの感情を刺激します。ことにジェンダーにかかわることが扱われています。性別によっても年代によっても、あるいは既婚か未婚かによっても、受ける印象が変わるかもしれません。同じ人間でも、時期によってぜんぜん違う印象を受けるかもしれない。さらに言えば、今朝の御言葉について解説している注解書を読んでみると、説教者にはよく分からないことを認める率直さが必要だという趣旨のことが書かれていました。
 具体的に問題になっている事柄は単純です。コリント教会の女性が、皆の前に立って祈りをしたり預言をしたりした。その時、当時の習慣とは違って、頭に何もかぶらないでしていた。それが教会の中で問題になった。それをどう考えたらいいのか。パウロのところへ、コリント教会からそういう主旨の手紙が送られたのでしょう。今朝のところは、これに対するパウロの回答です。
 今朝の御言葉を根拠に、ある教会では女性が礼拝に出席するときには頭にベールをかける、という習慣があります。あるいは、同じ手紙の14:34には「婦人たちは、教会では黙っていなさい」と書かれており、それを根拠に女性が牧師になったり長老になったりすることを認めない教会もあります。私たちのカンバーランド長老教会は、1889年に、米国にある長老教会としては初めて女性の教職者に按手を授けています。私たちのさがみ野教会にも、女性の長老がいます。それでは私たちの教会は聖書に反しているのか?そういうことではない。ベールにしても、昔はローマ・カトリック教会ではかけていましたが、最近では必ずしもそうとは限らなくなりました。このパウロの言葉は、一般的原則ではなく、時代や文化によって相対的なものなのだと思います。しかし、その中に、変わらない急所があるのだと思います。
 今朝の御言葉は、第1023節からの文脈からそのまま続いています。「わたしたちを造り上げる」、私たちを神の教会として建て上げる振る舞いとは何か、と問います。「神の栄光を現す」ために、自分の良心を満足させるのではなく、隣人の良心に配慮しようと言っていました。今朝の箇所は男女の振る舞いを巡る習慣の話です。女性が預言(説教)する時には、当時は頭にものをかぶるのがふさわしいという習慣があり、パウロもそれを尊重した。パウロがその根拠にするのは、人間が神に造られたときの出来事です。神は最初「人」を造りましたが、一人でいるのは良くないと言って、助け手を造ります。女が造られた。彼女と出会って、人は自分が男であると認識しました。主にあって、男なしに女はなく、女なしに男はない。神は、男と女を、他者と共に生きるべく造られたのです。1415節で、パウロは「自然そのもの」という言い方をしています。自然な生き方をしてほしいと言います。それは、神に造られた者としての自分を生きるということでしょう。自分の性別も、神に造られた具体的な私の姿です。そういう私として、自分のためではなく隣人のために生きる。それが、私たちを一つの「神の教会」とする秘訣です。

2019年3月31日(申命記11〜12)

今日の通読箇所:マルコによる福音書9:1~29、申命記11~12、詩編107

申命記11~12;
「見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。もし、今日私が命じる、あなたがたの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、あなたがたの神、主の戒めに聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道を外れ、あなたがたが知らなかった他の神々に従うならば、呪いを置く(11:26~28)」。
主なる神様に従うのか、別の何かに従うのか。二つに一つ、あれかこれかだ、と言います。いいとこ取りはありません。主なる神様が準備していてくださる祝福の道を進むのか、他の何者かが提供するものを手に入れようとするのか。主なる神様は、私たちがご自分の祝福の道に生きることを心から望んで、待っていてくださいます。
「あなたがたは、焼き尽くすいけにえ、・・・、牛や羊の初子をそこに携えて行き、あなたがたの神、主の前で、あなたがたも家畜も共に食べ、あなたの神、主が祝福してくださったすべての手の業を楽しみなさい(12:6~7)」。
礼拝、それは祝祭です。お祝いです。神様に聞き従う、それは、このお方のみを礼拝するということです。この方にだけ賛美を献げ、このお方の御言葉に聞き従い、このお方を喜ぶということです。神様の祝福に、私たちも祝いの喜びを献げます。
「あなたが行って追い払おうとしている諸国民を、あなたの神、主があなたの前から滅ぼし・・・彼らがあなたの前から滅ぼされた後、あなたは彼らに倣って罠に陥らないように気をつけなさい(12:29~30)」。
他の人はこうしているから、みんながこう言っているから。それは、神を信じる者にとっては罠です。主なる神様の前での祝祭に生きるのか、それ以外の何者かを信じ、その前で犠牲を献げて仕えるのか。私たちは誰の言葉に聞き従うのでしょう。世間のみんななのか、私たちのためにキリストを下さった父なる神様なのか。神様は私たちを祝祭の喜び、大きな祝福の中へと、今日も招いてくださっています。

2019年3月30日土曜日

2019年3月30日(申命記9〜10)

今日の通読箇所:マルコによる福音書8:22~38、申命記9~10、詩編106

申命記9~10;
ヨルダン川の向こうの神が与えてくださる地。それは、イスラエルの人々が正しく、立派だったから与えられるのではありません。「あなたがたは、自分が正しいから、あなたの神、主がこの良い地を所有させてくださるのではないことを知りなさい。あなたは、実にかたくなな民なのだ。あなたの神、主を荒れ野で怒らせたことを思い出し忘れないようにしなさい。エジプトの地を出た日から、この場所に至るまで、あなたがたは主に逆らい続けてきた(9:6~7)」。
私たちは、繰り返し、主なる神様を裏切り、悲しませ、罪を犯してしまっています。それにもかかわらず、神様は今日も私たちを生かしてくださっている。私たち自身には、その理由はないのです。
それならば、「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何(10:12)」でしょうか。それは、「あなたの神、主を畏れ、主の道をいつも歩み、主を愛し、あなたの神、主に、心を尽くし、魂を尽くして仕え、私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか(12~13節)」と言われるのです。主なる神様は、私たちが心を込めて主の御許に立ち返り、私たちの真心からの愛を喜び、それを待っていてくださいます。
そのことを、とても印象的な言葉で言い表しています。「だから、あなたがたの心の包皮に割礼を施し、二度とかたくなになってならない(16節)」。体の切り傷が大切なのではない。私たちの心が神様のものになることをこそ、神様は求めておられる。私たち自身を献げる礼拝を、神様の御前に献げたい。そう願います。

2019年3月29日金曜日

2019年3月29日(申命記7〜8)

今日の通読箇所:マルコによる福音書8:1~21、申命記7~8、詩編105

申命記7~8;
「あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった(8:2~3)」。
イスラエルの民が過ごした荒れ野での四十年。それは苦しみに満ちた旅でした。食べ物のこと、飲み水のことから始まって、神様をどうやって信じるのか、人間関係をどうしていけばいいのかといったことも。つまり、私たちの生きる旅路と同じ苦難があったのです。しかもその苦しみは、主なる神様から来たものだと言います。それならば「神様どうして」といいたくなります。しかしそこで気づくのは、神様はこの荒れ野の旅で私たちを生かすために、絶えずマナをくださっていた、ということです。私たちの苦しみが神様の御手の中にあるなら、私たちを生かす神の憐れみもまた神の手の中にあるのです
このマナというパンは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるため」のものだと言います。私たちが頂く毎日のパンは、神が下さったものです。私たちにパンを与えて生かして下さる方は、私たちがパンを食べるように神様の御言葉を食べるように、と御言葉を聞かせてくださいます。私たちにとってパンが毎日かけがえのないものであるのと同じように、私たちの命をつなぎ止めるために、御言葉のパンが欠かせないのです。
私たちを生かしてくださる神様のみ恵みは、そのようにして、私たちの衣食住に代表される毎日の生活の中に見えてきます。

2019年3月28日木曜日

2019年3月28日(申命記5〜6)

今日の通読箇所:マルコによる福音書7:24~37、申命記5~6、詩編104

申命記5~6;
「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい(6:4~5)」。申命記のこの部分の冒頭、「聞け、イスラエルよ」は原語のヘブライ語では「シェマー・イスラエル」と発音します。そのことから、6:4から始まるこの部分を「シェマー」と呼びます。今でも、ユダヤ教の人は朝に夕にシェマーを唱えるそうです。私たちが主の祈りを祈るのと同じように。
しかし、これはもちろんユダヤ教の人ためだけの言葉ではありません。私たちキリスト者にとっても、とても大切な御言葉です。その証拠に、主イエスはこの言葉を律法の一番大切な言葉だとおっしゃいました。「私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」神様を愛することこそ、神様から私たちへの何よりも求めです。
冒頭の言葉に続けて、このようにあります。「今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。家に座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも唱えなさい(5~7節)」。今、礼拝の中で子どもたちの暗証聖句をしています。子どもだけではなく、私たち大人にとっても大事なことなのだと、この御言葉を読んで思いました。御言葉を繰り返し唱える。記憶する。それはちょうどスポーツの練習をするようなものです。繰り返し、繰り返しトレーニングしなければできません。道を歩いていても、座っているときも唱える。そうやって私たちの心に刻まれた御言葉は、どんな泥棒にだって奪うことはできない。覚えるのは、大変です。子どものようにはなかなかいきません。しかし、たった一言の御言葉がどんなにすばらしい恵みをもたらすことか!それは、この歴史を生きたたくさんの信仰者たちが証明してくれることです。

詩編第145編「主の恵みと憐れみを覚えて」


「主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」主なる神様の、この憐れみと忍耐、慈しみを知る者として、私も声を合わせて賛美しよう。私も神をあがめ、限りなく賛美しよう。主イエス・キリストを下さった父なる神様に。この私の死と滅びのために、父は憐れみをもって御子を下さった。その事実が、私を賛美に駆り立てるのだ。

2019年3月27日水曜日

2019年3月27日(申命記4)

今日の通読箇所:マルコによる福音書7:1~23、申命記4、詩編103

申命記4;
これから約束の地に入っていく神の民のためのモーセの説教です。「もしあなたが子や孫をもうけ、その地で年を取り、堕落してあらゆる形の彫像を造り、あなたの神、主の目に悪とされることを行い、主を怒らせるならば・・・あなたがたはヨルダン川を渡っていって所有する地から取り去られ、たちまち滅び去る。・・・主は、あなたがたをもろもろの民の中に散らされる。しかし、主が追いやる先の国々で僅かなものは残される。あなたがたはそこで、人の手で造られた神々に仕えなければならない。それは木と石でできていて、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない(25~28節抜粋)」。
神ならぬものを神とする者への神の裁きは、その人がますます人の手で造った神ならぬものを神としてしまうことだと言うのです。偶像の問題の急所、目に見える神々の本当の問題は、それが人間の願望の投影に過ぎない、と言うことです。ですから神ならぬものを神としてしまうというのは、人間がその欲望の奴隷になってしまうと言ってもよいのではないかと思います。私たちが自分の欲望の奴隷になること、それが神の裁きだというのです。恐ろしい裁きです。
しかし、説教は続きます。「しかし、その場所から、あなたの神、主を探し求め、心を尽くし、魂を尽くして主を求めるならば、あなたは主を見出すことができる。これらすべてのことがあなたに臨んであなたは苦悩に満ちるが、終わりの日には、あなたは、あなたの神、主のもとに立ち返り、、その声に耳を傾けるだろう。あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも、あなたを滅ぼすことも、先祖に誓われた契約を忘れることもないからである(29~31節)」。
私たちを、つきない私たちの欲望から自由にしてくださるのは、ただただ神様の憐れみだけです。神を呼び求める私たちの呻きを、主は耳を傾けて危機、主イエスの故に約束してくださった救いを、私たちのために必ず実現してくださるのです。

2019年3月26日火曜日

2019年3月26日(申命記2〜3)

今日の通読箇所:マルコによる福音書6:30~56、申命記2~3、詩編102

申命記2~3;
荒れ野での四十年の旅の途上で、神様が与えてくださった地と与えてはくださらなかった地がありました。例えばエサウの子孫の領土について、「彼らと戦ってはならない。私は、彼らの土地を、足の裏で踏むほどにもあなたがたに与えることはない(2:5)」と言われています。しかし、例えばアモリ人の地については「占領を開始せよ(2:24)」と言います。誰に対してどのように振る舞うのか、どこの土地を占領するのか、そういうことを一つひとつ、神様の言葉に耳を傾けて判断をした旅路でした。
そして、いよいよこれからヨルダン川を渡って「主が与える土地を所有するように(3:20)」なるときが来たのです。その時を迎えるモーセの祈りが、今朝の聖書の御言葉の中に残されています。「どうか私を渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの美しい地、美しい山、レバノン山を見せてください。」しかし主は、その願いを聞き入れてはくださいませんでした。「もう十分だ。このことを二度と語ってはならない。ピスガの頂に登り、西に、北に、南に、東に目を向けなさい。あなたは、ヨルダン川を渡ることができない以上、自分の目に焼き付けておきなさい。ヨシュアに命じ、彼を強め、励ましなさい。彼こそが、この民の先に立って渡って行き、あなたの目にしている地をこの民に受け継がせるのである(26~28節)」。これから、神の言葉に従ってそのたびを続ける民は、ヨシュアに託されます。モーセは遙かにその地を臨むことを許されただけで、実際にそこに入ることは適いませんでした。神の民の歩みは、世代を超えて、続いていきます。人間は有限です。終わりが来る。しかし、次の世代に残るものがある。それは、神ご自身の約束と、神の言葉に従う信仰です。私たちも今そのバトンを託されています。

2019年3月25日月曜日

2019年3月25日(申命記1)

今日の通読箇所:マルコによる福音書6:1~29、申命記1、詩編100~101

申命記1;
申命記は、ヨルダン川を渡る前、モーセがイスラエルの人々に対して語った説教です。「モーセはヨルダン川の向こうにあるモアブの地で、この律法を説き明かし始めた(5節)」。その説教の言葉である申命記は、新しい時代に向かう者たちに語られた言葉でした。約束の地という神が与えてくださったすばらしいたまものを頂くにあたって、神に愛され、神を信じることで一つとされた民が注意を払うべき事を、ここで語り聞かせたのです。
私が注目したのは、次の言葉です。「おののいてはならない。恐れてはならない。あなたがたの神、主があなたがたの前を歩まれる。その方が、エジプトであなたがたの目の前で行ったように、この場所に来るまで、あなたがたが歩んでだすべての道のりを、人がその子を背負うように、あなたの神、主があなたを背負ってくださったのを、あなたは見た。しかし、あなたがたは、あなたがたの神、主を信じなかった。あなたがたに先立って、道を歩まれる方は、あなたがたのために宿営の場所を偵察し、夜は日、昼は雲によって、進むべき道を示されたのだ(29~33節)」。
私たちのこれまでの道は、これだとモーセは言います。主なる神様は、私たちを背負ってきてくださった。それなのに、私たちは恐れおののいき、この方を信頼してその導きに従うことを拒んでしまった。それでもなお、神様は、私たちを今日ここにまで運んできてくださった。
それは、私たちが毎週日曜日に、礼拝の時に罪を悔い改めて思い起こすことではないでしょうか。神様はいつも真実に私を背負っていてくださるのに、私はこの方を信頼し抜くことがなかった。それでもなお、今、神様の御前に私は立たせて頂いている。それが、礼拝のたびに私たちが確認する原点です。今日も、私たちはこの原点から出発します。

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27) 心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2) 主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえか...