2019年6月30日日曜日

コリントの信徒への手紙一12:31b〜13:13「信仰、希望、愛」


 先日、ある人の葬式に出席しました。その方は生前、綿密に自分の葬式の計画を立てていました。自分の葬式は教会で、礼拝として行ってほしい、と。私たちの葬式は、礼拝です。日曜日にしているように祈り、神を賛美し、聖書を読み、キリストの福音が説教がされます。私たちは死ぬ時にも希望がある。今回の葬式では出席者が皆でハレルヤ・コーラスを歌いました。ヘンデルのメサイアの中で、この曲はイエス・キリストの復活を祝う歌です。キリストの復活こそ、私たちの希望の源。滅びることのない福音です。その意味で、キリスト者の葬式にふさわしい歌なのだと感じ入りました。
 「愛は決して滅びない」と言っています。愛は死を超える意味を持つ、ということでしょう。死も、私を神の愛から引き離すことはできない。ただ、コリント一第13章の語る「愛」は、もちろん神が私たちを愛してくださっているということでしょうが、わたしたち自身の愛のことでもあろうと思います。あなたもこのような愛に生きていると聖書は言う。しかし、私の愛は決して滅びないだなんて言うことができるのでしょうか?ここに「決して」という言葉がありますが、あるときペトロはこのように言いました。「たとえ、みんながあなたにつまずいでも、わたしは決してつまずきません(マタイ26:33)」。主イエスが十字架にかけられる前の晩のこと。この数時間後に何が起こったのか、私たちは知っています。ペトロの「決してつまずかない」は結局つまずき、倒れてしまいました。私たちは誰もが決して滅びない愛に憧れます。だから不滅の愛は古今東西さまざまな文学の主題にもなってきました。コリント一第13章も、うっかりするとこの言葉が持つ美しさにだけ心を捕らわれて、ただきれいな愛をほめたたえるだけで通り過ぎてしまうかもしれない。しかし、このパウロの言葉はただ美しいだけでなく、痛い言葉です。私の愛の実態がどんなに愛にかけ離れているのかを見せつけます。愛から遠いというのは、ただ自己卑下するだけでは済みません。愛にかけ離れている。それが私の罪だからです。私たちはそこから救って頂かないと、もうどうしょうもないのです。
 8節には、預言や異言、知識というものが登場しています。これらはどれも当時の礼拝と関わりがあったのだろうと思います。預言は、今で言えば説教のことです。異言は人には分からない、特殊な言葉による祈りです。知識というのは神に関する特別な知識です。いわば私たちの信仰の営みの中でも特に大事なものです。しかし、それらはいずれ廃れると言います。なぜなら、それらは一部分のものだから。私たちの信仰生活の営みの素晴らしさが私たちを救うのではないのです。むしろ、私たちの振る舞いは幼子のようなものにすぎない。不完全で小さく、大人として振る舞えない幼子です。だから神の御心のすべてを知ることはできない。今は鏡に映ったものをおぼろに見ているだけです。金属製の鏡は像がクリアではなかったのでしょう。今は不完全でしかない。しかし、私たちはやがて知るようになる。私が神から知られているように、私も知ることになる。聖書では、しばしば「知る」と「愛する」は同じ意味で使われます。私は神の愛の広さ、長さ、高さ、深さを知らないが、やがて知るようになる。私が生きる愛は、私の内から沸き上がってくるのではなく、神が生かしてくださる賜物なのです。だから、私も愛に生きられると望みをもって信じることができるのです。

2019年6月30日(列王記下3〜4)

今日の通読箇所:使徒言行録19:21~41、列王記下3~4、ヨブ記42

列王記下3~4;
エリシャの預言者としての活動について記録しています。当時、イスラエルの王はヨラムという男でした。彼はアハズヤの弟、つまりアハブとイゼベルの息子でした。彼も主に背いていましたが、父母ほどではなかったようです。ヨラムの治世にモアブと戦いました。ヨラムはユダの王ヨシャファトとエドムの王に救援を求め、三国連合でモアブと戦った。ところが途中で水が尽き、どうすることもできなくなってしまった。信仰者であったヨシャファトの提案によって、エリシャの所へ行って助けを求めます。
ヨラムとエリシャは、これまでのアハブとエリヤを考えれば分かるとおり、敵対していました。「私はあなたと何の関わりがあるのですか。あなたの父の預言者や、あなたの母の預言者のところへ行ってください(3:13)」。しかし、ヨラムが絶望しているのを見て、エリシャは彼のためではなくヨシャファトの顔を立てるために、彼らのために預言をしました。エリシャの言葉によって、彼らはこの戦いをしのぐことができました。
他にも、たくさんの奇跡をエリシャは行った。その記録が第4章に記されています。貧しい預言者仲間の妻であるやもめを助けました。小瓶に入っている油を増やした。シュケムに住んでいた裕福な女とその夫との間にエリシャの言葉のとおりに男の子が生まれました。しかしその子は数年後に突然死んでしまった。エリシャはその子を生き返らせるという奇跡を起こしました。さらに、預言者の仲間たちと一緒に食べた鍋の煮物に入っている毒草の毒を取り除きました。そして、パンを増やして、皆が食べきれないほどになりました。
これらの奇跡は、エリシャがエリヤを見送ったときの願いに基づいています。あのとき、彼は願いました。「どうかあなたの霊の二倍の分け前をくださいますように(2:9)」と。エリシャの預言活動の中で行った数々の奇跡は、神が与えてくださった霊の賜物だということなのだと思います。これらの徴(しるし)は、神の言葉の力の象徴です。働き手がエリヤからエリシャに代わっても、神が御言葉を語り、出来事をつくっていくという神様の御業は変わりません。私たちも、聖書を通しておなじみ言葉の出来事に与っているのです。

2019年6月29日土曜日

2019年6月29日(列王記下1〜2)

今日の通読箇所:使徒言行録19:1~20、列王記下1~2、ヨブ記41

列王記下1~2;
イゼベルと共にイスラエルを徹底的に主なる神様から引き離したアハブは死に、その息子であるアハズヤが代わって王となりました。彼も、「主の目に悪とされることを行い、父の道と母の道、およびイスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの道を歩んだ(列王記上22:53)」。あるとき、彼は怪我をした。あろうことか彼は使いの者に命じます。「エクロンの神バアル・ゼブブのもとに行って、私のけがが治るかどうか伺ってきなさい(1:2)」。何と言うことでしょう。彼は主なる神ではなく、全く別の神に自分の怪我のことでのお伺いを立てたのです。
エリヤは言います。「エクロンの神バアル・ゼブブのもとに伺いを立てに行くというのは、イスラエルには神がいないためなのか(3節)」。エリヤは、アハズヤが神を蔑ろにし、神を信じることも祈ることもしないことに罪を見て、厳しく指摘しました。
恐らく、アハブやアハズヤを、世界史の歴史研究の視点で評価したら、全然違う評価になるのだと思います。今回のことも外国とのお付き合いだったり、異文化交流という視点で見れば、外交政策としては賢いやり方だったのかもしれません。私たちは、時にそうやって自分なりの基準を導入して、こちらが賢いやり方、周囲とうまくやっていくための上手なやり方と理由付けをして正当化します。しかし、実はそれが神を蔑ろにしてはいないか、と聖書は問うているのかもしれません。バアル・ゼブブと恐らく同じものが新約聖書にも登場します。新約聖書ではベルゼブルという発音で表記されている、悪霊の頭の名前です。私たちが自分の考える賢さや上手な生き方にこだわるとき、実は悪霊の虜になっているのかもしれません。私たちは、自分をうまく生きられるかどうかで評価するのか、神の前に誠実であるかという点で見るのか、それが問われているように思います。
第2章はエリヤが天に上げられる場面が描かれていました。私には、個人的にある思い入れがある箇所で、いろいろなことを黙想します。メールが長くなりすぎないように、一言だけ。エリヤの働きは次のエリシャに引き継がれました。神様はエリヤにはエリシャを与えてくださっていました。そして、エリシャにもエリヤを与えてくださっていました。エリシャにとってこの別れは辛いものでしたが、その別れにしっかり目を向けることで、エリヤの働きをしっかりと受け継ぐことができました。神の言葉に仕える働きです。
洗礼を受けるとき、私たちはキリストを着ます(ローマ13:14)。エリシャがエリヤの外套を着たように。私たちが洗礼を受けたとき、エリシャと同じように、すでに主のために仕えるキリスト者の群れに聖別して加えられ、その働きを引き継いでいるのです。

2019年6月28日金曜日

2019年6月28日(列王記上21〜22)

今日の通読箇所:使徒言行録18、列王記上21~22、ヨブ記40

列王記上21~22;
アハブ王はナボトという人のぶどう畑が気に入り、譲ってくれるように交渉しました。相当の代価を銀で払うか、もっとよいぶどう畑と交換するか。ところがナボトは言います。「先祖から受け継いだ地をあなたに譲ることなど、主は決してお許しになりません(21:3)」。これは、ナボトの言うとおりです。律法の中で「イスラエルの人々に属する相続地が、ある部族から他の部族に移ることはない。イスラエルの人々はそれぞれ、父祖の部族の相続地を固く守っていかなければならないからである(民数記36:7)」と定められています。アハブもイスラエル人である以上、そのことは知っていたはずです。しかし人のものを自分のものにしたいという貪りの心が、ナボトへの羨みの末に、王を怒らせました。彼はナボトの「言ったことに機嫌を損ね、激しく怒って王宮に戻った」。それを見たイゼベルは一計を案じてナボトを殺し、ぶどう畑をアハブのものにしてしまいました。
さらに、アハブの外交政策についても記録されています。当時、南王国ユダはヨシャファトという信仰深い王が治めていましたが、アハブ王とは友好的に関係を結んでいました。南北で連合して、本来は北方にあるイスラエルの領土であり、今はアラムに占領されているラモト・ギレアドという町を奪い返す作戦を始めました。ヨシャファトはあくまでも主の御心に従おうとし、「どうかまず主の言葉を伺ってみてください(22:5)」と言います。ところがアハブの前に来た預言者たちは皆自分の命を守る損得勘定のために王に忖度し、王のご機嫌取りのポジショントークしかしません。「必ず勝てます」とごまをすり、誰ひとり厳しいことは言わない。古今東西、権力の末期的な症状です。その中でただ一人、ミカヤという預言者だけが王に厳しい言葉をかけました。実はあの預言者たちの甘言は偽りを言う霊の言葉だと厳しく糾弾したのです。結局、アハブ王は奸計を図ってヨシャファトを自分の身代わりに使用としたにもかかわらず、この戦いで戦死しました。預言者ミカヤ、あるいはエリヤを通して神が言われたとおりに。
今日はアハブの最後の二つのエピソードでしたが、彼はとことん自分自身を神のようにして振る舞った人物であったと思います。自分の貪りに正直であり、すぐに怒り、厳しい言葉には耳を貸さない。自分にうれしいことを言ってくれる人だけで周りを固める。こうしてみると、なんともこの王は自分自身の姿のように思えてなりません。もしかしたら、私たちの罪の姿は、小さくてせこい「王様」に勝手になってしまっていることであるのかもしれません。端から見ると滑稽です。しかしその滑稽なことに気づき、へりくだって、神に作られたものとしての分をわきまえるには、私たちのまことの王をお迎えするしか、ないのではないでしょうか。私たちの王である方は、へりくだって、十字架に掛けられるまで身をかがめ、茨をその冠として頭に戴いた方なのです。

2019年6月27日木曜日

2019年6月27日(列王記上19〜20)

今日の通読箇所:使徒言行録17:16~34、列王記上19~20、ヨブ記39

列王記上19~20;
450人ものバアルの預言者との対決に勝ったエリヤですが、そのニュースは王妃イゼベルを激しく怒らせます。彼女はエリヤを必ず殺すと誓います。「それを聞いたエリヤは恐れを抱き、命を守ろうと直ちに逃れて、ユダのベエル・シェバに行き着いた(19:3)」。しかし、もう彼には生きる気力が残っていませんでした。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。私は先祖にまさってなどいないのですから(4節)」。深い絶望の中で、もう自分の命を取ってくださるように、神に祈ったのです。
そんなエリヤのために、神様は御使いを遣わして「起きて食べなさい」と、食べるものを与えてその道を守り、40日40夜彼は歩き続け、ついに「神の山ホレブに着いた(8節)」のです。ホレブ、それはかつてモーセが燃える柴を見た場所です。神が彼に語りかけ、奴隷として追い使われていたヘブライ人のところへと遣わした場所です。やがてモーセと共にここまで来た神の民は、この神の山ホレブで十戒を神から頂きました。つまり、ここはエリヤたち神を信じる者の、信仰者としての原点のような場所です。神が私たちをご自分の民としてくださったという恵みの事実によってだけ成り立っている場所なのです。神は、疲れ切ったエリヤを、そういう場所へ連れて来てくださったのです。
私たちが深く絶望し、命のために恐怖におののき、あるいは気力が失われてしまうとき、神は私たちをご自分の前へと導いてくださいます。他のどこかではない。私たちの生きるべき命の源は、
神の御許、つまり神を礼拝するところにあるからです。
そこで神はエリヤの前に激しい風と地震と火をもって臨まれます。ところが、そのどのなかででも神はエリヤと出会われなかった。神は、エリヤに「かすかにささやく声(12節)」で語りかけました。この声の中で、神は「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか(13節)」と言ってエリヤに出会ってくださったのです。私たちは神を礼拝し、神は私たちに静かでかすかな声で語りかけておられる。その声に聞くとき、私たちはもう一度たつことができる。なぜなら、神はこの語りかけの中で、彼が独りぼっちではないことに気づかせてくださったからです。彼は孤軍奮闘していると思い込んでいましたが、実際には7000人、バアルにひざまずかなかったものが残っていました。そして、エリシャという彼の弟子として共に歩む人も与えられた。神様はエリヤのことを本当によくご存じで、彼が一番必要としていた助けを与えてくださった。
神様は、私たちにも語りかけておられます。神様の御前で、私たちが生きる者となるための御言葉を。

2019年6月26日水曜日

2019年6月26日(列王記上17〜18)

今日の通読箇所:使徒言行録17:1~15、列王記上17~18、ヨブ記38

列王記上17~18;
イスラエルの王アハブは「彼以前の誰よりも主の目に悪とされることを行(16:30)」いました。特に彼の妻イゼベルは、彼女の故国シドンから異教の神であるバアルをイスラエルにもたらし、アハブも、国の人々もこれにひれ伏して礼拝をしました。もう、主なる神様に従うものは誰も残っていない。これは、そういう時代の出来事です。
エリヤという預言者がたった一人だけ残っていました。「主の預言者としては、ただ私だけが一人残った(18:22)」。たった一人だけというのは、想像以上に辛いことです。アハブは信仰者としては最悪でしたが、政治家としては有能な人物であったようです。そんな時代に。一人で空気を読むこともなく主なる神に仕え、預言者として立つのが、エリヤという人です。
しかし、神様はエリヤを独りぼっちにはなさいませんでした。たびたび、エリヤに協力者を与えてくださいます。最初は、カラスでした。ケリト渓谷に身を隠した彼の所へ、カラスが朝にはパンと魚を、夕方にもパンと肉を運んできてくれた。次に、シドンのサレプタのやもめとその息子。この親子はエリヤになけなしの粉で作ったパンを与えてくれて、神はその信仰に応えて壺の粉がつきることはなかった。そして、アハブの宮廷長オバドヤは、実は大勢の主の預言者がアハブに殺されたとき、そのうちの100人をかくまっていたのです。神様はエリヤを独りぼっちにはなさらなかった。
しかし、今エリヤはたった独りで450人のバアルの預言者、400人のアシェラの預言者の前に立ちます。彼らと、対決をします。祭壇の上に置いた雄牛がある。それぞれの預言者の祈りに火をもって応える神こそまことの神。そう言って、まずはバアルの預言者たちが大声を張り上げ、剣や槍で自分の身を傷つけながら祈祷しました。ところが、バアルはその祈りに応えない。いや、応えられなかったというべきでしょう。そこでエリヤが主なる神に静かに祈ります。「お答えください、主よ、お答えください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に戻したのがあなたであることを知るでしょう(18:37)」。これに対し、主は天から火を下らせ、生け贄も薪も、すべてを火が嘗めつくしました。こうして彼はバアルの預言者に勝利を治めることができました。
神様にあって、彼は強く、また雄々しく立つことができたのです。少しずつ、イスラエルの人々が主こそ神であると信じ、神に立ち帰ることができるように。

2019年6月25日火曜日

2019年6月25日(列王記上15〜16)

今日の通読箇所:使徒言行録16:16~40、列王記上15~16、ヨブ記37

列王記上15~16;
北王国、南王国、それぞれに何人もの王の名前が登場します。評価は様々です。南王国は、レハブアムの息子のアビヤム、そしてその息子のアサという二人が登場します。二人の評価は正反対。「アビヤムは、かつて父が犯したすべての罪を犯し続け、その心は、父祖ダビデの心と異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった(15:3)」と言われています。ところがアサは「父祖ダビデと同じく、主の目に適う正しいことを行い、・・・(11節)」と評価されています。
北王国の特徴は、短期間にめまぐるしく王朝が変わっていく点です。ヤロブアムの息子ナダブの治世にクーデターが起き、バシャという人の王朝が始まる。バシャの息子ティルツァの時代にまたクーデターが起き、・・・と、いろいろな王家に移り変わっていきます。しかし、一貫して、彼らは「主の目に悪とされることを行ってヤロブアムの道を歩み、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を犯し続けた(15:34)」という点で共通しています。
ダビデの道、つまり主に従う道。そして、ヤロブアムの道、つまり主の目に悪とされる道。どう違うのでしょうか?第9章で、主なる神様がソロモンに現れ、このように言われました。「あなたがもし、父ダビデが歩んだように、誠実な心で正しく私の前を歩み、命じられたことをすべて行い、掟と法を守るなら、私はイスラエルのあなたの王座をとこしえに確かなものとする」。あるいは、11:38では、ヤロブアムにも同様のことを言っておられます。
ダビデの道、それは、主の御言葉に従って生きる道です。他の神々を取り除き、一心に神に誠実を献げて生きる道です。王たちの治世は、その一点で評価されています。政治家として有能かどうかということに聖書は関心を持っていません。この人は神に従っているか、そうではないのか。ただ神のみを愛しているのか、他のものを神として祭り上げているのか。聖書が私たちに向ける目は、ただその一点だけです。
16:34以下のエリコの壁の一件は、神の言葉の力を私たちに思い出させます。歴史を作る力を持つ神の言葉を信じ、これに従って生きるのか。その一点での決断を、私たちは今求められているのではないでしょうか。

2019年6月24日月曜日

2019年6月24日(列王記上13〜14)

今日の通読箇所:使徒言行録16:1~15、列王記上13~14、ヨブ記36

列王記上13~14;
分裂した北王国の名前はイスラエル、南王国の名前はユダと言います。ソロモンの配信の結果として、神が王国を裂き、10の部族をヤロブアムに与えました。これが北王国。しかしダビデのゆえに神はその家を憐れみ、ユダともう一つの部族だけが残ったのが、南王国です。
ところが、ヤロブアムもまた、神に対して忠実な人物ではありませんでした。神は預言者を遣わして、彼を断罪します。王は預言者を畏れて接遇しようとしましたが、彼は神から当地では食事もしてはならないし、水も飲んではならないと命じられていると言って、そのまま帰ってしまいました。ところが、その地方にある年老いた預言者がいた。彼はヤロブアムの所へ来た預言者と会いたくなって彼と会い、嘘をついて、自分の家へ招いて食事をさせます。なんと、騙された預言者は、食事もするな水も飲むなと言う神の言葉に背いたとして、ライオンに食い殺されてしまいました。
あまりにも不可解な話です。裁くのなら嘘をついた老預言者にするべきではないか、と私は思いました。しかし、少し視点を変えてこの話を読んでみると、見えてくるものがあります。それは、主の言葉です。最初に登場した預言者と老預言者。二人の人間関係として考えると理不尽な話ですが、神の言葉が実現するという点から見ると、まさに、最初に神があの預言者に命じたとおりになっています。そして、彼がヤロブアムの所で預言した言葉、「見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤと言う。彼は、お前の上で香をたく高きところの祭司たちを、お前の上で屠り、人の骨をお前の上で焼く(13:2)」という言葉は、何百年という時代を経て、やがて実現していきます。御言葉が、歴史の中で実現していく。それは、一貫している。あまりに一貫しているので、時に人の目には理不尽にさえ映るのです。
それは第14章のヤロブアムの家の出来事でも、同じです。神様の御言葉は、歴史の中で出来事を起こしていく。どんなに王たちが神を無視して自分の立場のために好き勝手に振る舞っても、人の目に見えないところで歴史を作るのは、神の言葉。それは、いつでも変わることがないのです。

2019年6月23日日曜日

2019年6月23日(列王記上11〜12)

今日の通読箇所:使徒言行録15:22~41、列王記上11~12、ヨブ記35

列王記上11~12;
悲しいことです。「ソロモンは、主の目に悪とされることを行い、父ダビデと異なり、主に従い通すことはなかった(11:6)」。彼の心は年老いたときに主から離れ、他の神々を礼拝するようになってしまったのです。
何が彼をそうさせたのか。彼には700人の王妃と300人の側女がいました。「ソロモン王はファラオの娘をはじめとして、モアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した(11:1)」。かつて、出エジプト記34:12で、神様は彼らと決して契約を結び、その中に入ってはならないと命じておられました。しかし、おそらくは外交政略の一環であったのでしょうが、ソロモンは彼らと契約を結んで政略結婚を繰り返し、彼女たちが輸入してきた外国の神々の前にひれ伏すようになったのです。「彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主に対して誠実ではなかった(4節)」。
ソロモンは外交上の理由、安全保障上の理由があって、周辺諸国と婚姻関係を結んだのかもしれません。それにしても桁外れに多い妻や側女の人数を考えると、そこに彼の弱さがあったと言うことなのかもしれません。いずれにしても、「安全保障」と恐らく彼が考えてしたであろう振る舞いが、結局は王国を滅ぼすことになってしまったのです。主がソロモンに言われます。「あなたはこのようなことをして、私が命じた契約と掟を守らなかった。それゆえ私は、必ずあなたの王国を引き裂き、あなたの家臣に分け与える(11節)」。こうして、ソロモンの家臣の一人であったヤロブアムという一人の優秀な男が神に選ばれ、ヤロブアムは分裂した北王国の最初の王になるのでした。
ところが、ヤロブアムも神に対して誠実ではなかった。王国が分裂したと言っても、結局皆礼拝をするためにエルサレムの神殿に行ってしまいます。「今のままでは、私の王国はダビデの家に戻ってしまう(12:26)」と心配になったヤロブアムは、自分の手で二体の金の子牛を造り、人々にそれを拝むように言いつけました。かつてのアロンの失敗と同じように、自分たちが安心で便利に礼拝できるお手軽な神をこしらえた。結局それが、北王国にとってはずっと残り続ける罠になったのです。
ソロモンも、ヤロブアムも、そしてソロモンの息子で分裂した南王国の王となったレハブアムも、自らの行いがまき散らした種を刈り取るようになります。罪に罪を重ねるような歴史です。その根は、神に従おうとしないで自分の目に適う安心を求める、私たち人間の浅ましさなのではないでしょうか。私たちの罪の姿は、神様の御前で浅ましいものです。浅ましい私を、それでも見捨てないでいてくださる神様の憐れみの深さに、心が震えます。

2019年6月22日土曜日

2019年6月22日(列王記上9〜10)

今日の通読箇所:使徒言行録15:1~21、列王記上9~10、ヨブ記34

列王記上9~10;
シェバの女王が主の名によるソロモンの名声を聞き、やって来ました。難問をもってソロモンを試すために。この「難問」はいわゆる謎かけです。士師記14:12のように、一見すると何の関係のないものを結びつける謎を解くことで知恵を証明する。ソロモンはもちろん、シェバの女王も大変頭の切れる人物であったのでしょう。しかし「ソロモンは問いかけのすべてに答えた。王に分からないこと、答えられないことは何一つなかった。シェバの女王は、ソロモンの深い知恵と、彼が建てた宮殿に目を見張った(10:3~4)」。
彼女は食卓の料理や家臣の居住まい、給仕の振る舞いとその服装、献酌官、それに王が主の神殿で献げる焼き尽くすいけにえを目にして、息も止まるほどであった、と言います。これらはすべて第3章で神が与えると約束してくださったもの、ということなのだと思います。神が王としてお立てになったソロモンは神に与えられた知恵をもって国を治め、神に与えられた富を持ち、それに彼女は驚いた。
また、シェバというのは、アラビア半島の南端のあたりにある国です。旧約聖書の世界観では、地の果てと言っていい場所です。世界の果てにまで主にあるソロモンの名声は轟き、実際にそれを見聞きしてかの国の女王も息を止まるほどに驚いた。ソロモン王政の絶頂期と言うことができます。
そして、それは、何度でも繰り返して注目すべきことですが、すべて神が与えてくださったものです。今朝は第9章で、主なる神様が再びソロモンに現れて、ご自分の慈しみを示してくださいました。ソロモンは、与えられた恵みに応えて、主に向かって一心に仕え、神の言葉に従って生きるべきです。「あなたがもし、父ダビデが歩んだように、誠実な心で正しく私の前を歩み、命じられたことをすべて行い、掟と法を守るなら、私はイスラエルのあなたの王座をとこしえに確かなものとする(9:4~5)」。私たちのどんな絶頂期も、あるいはその逆に何をやってもうまくいかないときでさえも、それは神がお与えになった「時」であるに違いありません。私たちはどのような「時」にも神に仕えて生きるし、それが私たちの何よりたしかな幸いであると私は信じています。

2019年6月21日金曜日

2019年6月21日(列王記上8)

今日の通読箇所:使徒言行録14、列王記上8、ヨブ記33

列王記上8;
ソロモンによる神殿奉献の祈りです。ソロモンは「あなたのために荘厳な神殿、とこしえのあなたの住まい」として、主の神殿を建築しました。神殿は神の家、神がその名を留めてくださる場所です。しかし、この天地を造った神様をしまい込んでしまえる場所など、この世界の中にはありません。「神は果たして地上に住まわれるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです(27節)」。
それでは、一体何のために神殿を建てるのか。神殿で神を礼拝するとき、信仰者は一体何をしているのか。「わが神、主よ。あなたの僕の祈りとその願いを顧みてください。今日、あなたの僕の祈りとその願いを顧みてください。今日、あなたの僕が御前に献げる嘆きと祈りを聞き入れてください(28節)」。神殿とそこで献げられる礼拝は、ただ神がこの祈りに耳を傾けてくださることを願い、それを信じて献げられるものです。神のために献げた神殿に向かう祈りを、どうか、天と地を造りすべてのものを超える神が耳を傾けて聞いてくださいますように。それが、神殿という存在なのです。
ここで捧げる祈りは、ソロモンの祈りを聞くと、ほとんどが罪の悔い改めの祈りです。「あなたの僕と、あなたの民イスラエルが、この所に向かって献げる願いを聞き入れてください。あなたの住まいである天からそれを聞いてください。聞いて、お赦しください(30節)」。そして、31節、33節、35節、37節などで、罪の赦しを求めています。罪を犯した者が神に立ち帰って悔い改めの祈りをするなら、この神殿に向かって祈るならば、どうかその祈りを聞いて彼らを憐れみ、赦してください。ソロモンはそう願います。
教会は、今私たちに与えられている神殿です。ソロモンの神殿は、建造物でした。私たちの神殿は教会です。ただし、教会は「教会堂」という建物のことではありません。神に呼び集められ、礼拝を献げる私たちの集まりです。私たちの神殿、それはキリストの体である私たち一人ひとりです。キリストのゆえに私たちが集まり、罪を悔やんで悲しみ、十字架の主の赦しを求めて祈るとき、神は必ずその祈りを聞いてくださることでしょう。今朝も、私たちは教会の一員であることを心にいたしつつ、悔い改めの祈りをもって一日を始めていきたいと願います。

2019年6月20日木曜日

2019年6月20日(列王記上7)

今日の通読箇所:使徒言行録13:31~52、列王記上7、ヨブ記32

列王記上7;
ソロモンは王宮も建築しました。神殿は7年でしたが、王宮は13年かけて造った。その年数を比較すると、結局王宮の方が手をかけているように見えます。しかし、聖書の書き方は、サイズが大きくて年月もかかった王宮建築については僅かにしか書かれておらず、記述のメインは明らかに神殿建築です。彼が神殿を建てたのは、「主は約束されたとおり、ソロモンに知恵を授けられ(5:26)」たというその知恵を用いてのことです。そして建てられたときの「私はイスラエルの人々のうちに住み、わが民イスラエルを見捨てたりはしない(6:13)」という主の約束。少なくともこの時期、彼は御言葉の中に生きていたのです。
さて、王宮の話を簡単に済ませて、すぐに神殿の話に戻ります。ティルス人のヒラムという人が細工師として呼ばれました。ティルスの王と同じ名前ですが、別人と思われます。彼は母はナフタリ族の人でしたが、父はティルス人でした。つまり、友好国とはいえ父はイスラエル人ではなかったのです。その人が神殿で使う祭具を造ったというのは、示唆に富んだ事実です。
確かに、イスラエル人、ユダヤ人の子孫であることは、大きなことです。「ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それは、あらゆる点でたくさんあります(ローマ3:1,2)」。神様は、具体的な一つの民を選んで、実際の歴史の中でご自分のものとなさいました。しかし、ある特定の血統になければ排除される、という信仰を私たちは生きていません。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく・・・(ローマ2:28)」。神の約束に生きるものは、誰であっても神の民です。ティルスの人も、礼拝のための大切な奉仕をします。私たちも、同じように神様の御前、礼拝へと招かれています。
ですから、どのような民族なのかとかいかなる血統に生まれたのかということにこだわりすぎることは、私たちの信仰とは相容れません。確かに私たちはある歴史を背負った具体的な国民の一人ですが、その私を神が召して、天の国の国民にしてくださいました。それは、私たちが礼拝に仕えるためです。神の御前で仕えるためです。神は、私たちをすばらしく広い場所へと招いてくださっています。

箴言3:21~26「力と慎重さ」


「わが子よ、力と慎重さを保って、見失うことのないようにせよ。」力と慎重さ。これら二つを併せ持つことは難しい。力があれば判断に謝ってしまうし、慎重であろうとするあまりに機を逃してしまう。見失わずに生きるためには両方とも必要なのだろう。どうしたら良いのか。「主があなたの傍らにいまし、足が罠にかからないように守ってくださる。」この事実に繰り返し立ち帰るしかない。そうすれば、雄々しく、そしてまっすぐに歩める。

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27) 心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2) 主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえか...