2018年11月29日木曜日

詩編第128編「主は、私たちの毎日の生活を」


「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りを主イエスが教えてくださった。私たちの毎日の食事に代表される生活のすべては、主イエスにとってどうでもいいものではない。信仰生活は具体的な毎日の暮らしだ。「あなたの手が労して得たもの」や「妻」、「食卓を囲む子ら」、これらもすべて神は覚えていてくださる。このような毎日のささやかな暮らしへの祝福を私たちも祈って良い。卑近な祈りという必要はない。生活の中で信じよう。

2018年11月25日日曜日

コリントの信徒への手紙一5:9-13「この世で生きる教会」

 教会の暦では、今日は一年の最後の日曜日です。この主日を「王であるキリスト」と呼んでいます。キリストは王です。今日は信徒クロス礼拝で、渋沢教会の方が来てくださっています。私たちがさがみ野教会や渋沢教会であっても同じキリストの教会と言えるのはなぜか?それは同じ方を王として受け入れているからです。普段顔と顔とを合わせなくても、キリストを王とする神の国に生きている信仰の同胞だからです。教会は、大使館のようなものです。大使館は本国にはありません。日本大使館は日本の中にはない。当然です。他の国にあって本国を代表します。教会はこの世に生きて、この世の中で神の国を代表します。私たちはこの社会で生きる在留外国人です。異なる文化を持ちますが、現地の社会の中に足をつけて生きています。「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出ていかねばならないでしょう」とパウロは言います。教会はこの世界の中で生きます。しかし、教会には教会のはっきりとしたアイデンティティがある。大使館ですので、本国があります。私たちの王様がいます。そのアイデンティティはこの世から立ち去ることで保たれるのではありません。
 では、どのようにしてなのか?「わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。」教会の外に対しては果てしなく開かれて、どのような人をも受け入れる。しかし、内に対しては、神の国を本国とする者として生きる。そういうことだと思います。
 第二次世界大戦の時、ドイツで信仰に踏みとどまったキリスト教会がバルメン宣言という文書を告白しました。このような文があります。「教会は、罪の世のただ中にあって……証ししなければならない。教会とは、恵みを受けた罪人の教会であり、ただキリストのものであることを頼みとし、そして、キリストが再び現れてくださることを心待ちしつつ、キリストの慰めによって、キリストの指示によってのみ生きており、またそのように生きたいと願っているものであることを」。パウロは「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」という聖書の言葉を引用しました。これは、過ちを犯した者は放逐しろということではありません。コリント教会には、性的な過ちを犯した人が実際にいました。罪を罪として共に悔い改め、キリストの赦しの中へ帰ろうとその人の隣で語りかけてほしいというパウロ牧師の切実な願いが込められています。
 ルターが牧会上の失敗をしたシュパラティン牧師に手紙を送りました。シュパラティンはひどい罪責感のために押しつぶされてしまっていました。ルターは彼のしたことははっきり罪だったと言いながら、しかし、心を込めて呼びかけます。「私たち、頑迷固陋な罪人の群れである教会に帰って来てください」と。キリストの前にある罪人。それがこの世に生きる教会の教会たる姿です。

2018年11月22日木曜日

詩編第127編「家族を愛する者のための詩編」


「朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」ドキッとする詩編だ。眠らないことは、既に罪なのではないか。主に委ねることができないという意味に於いて。無論、この詩編の時代と現代は社会構造が異なる。しかし、根本においては主が建ててくださるからこそ家を建てる者の労苦にも意味がある。家族を守ることも主の御手の中で意味を持つ。

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27) 心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2) 主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえか...