2019年9月30日月曜日

2019年9月30日(イザヤ書65〜66)

今日の通読箇所:テモテへの手紙二4、イザヤ書65~66

イザヤ書65~66;
私を求めなかった者に私は尋ね出され、私を探さなかった者に見出された。私の名を求めなかった国民に「私はここにいる。私はここにいる」と言った。(65:1)
神様は私たちにご自分を示してくださいます。「私はここにいる」と言って、神様は私たちと出会ってくださいます。神様の私たちへの振る舞いは、因果の関係から言ったら、全く破れていると思います。私たちが神様を求めたからご自分を示されるのではなく、私たちは神様を求めることも、探すこともなかったのに、神様は「私はここにいる。私はここにいる」と言って出会ってくださいました。その神と私たちとの出会いの究極的なかたちが、主イエス・キリストに他なりません。
キリストが私たちのところに来られたのは、私たちを新しくするためです。「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。先にあったことが思い出されることはなく、心に上ることもない。しかし、私が創造するものを代々とこしえに楽しみ、喜べ(65:17~18)」。この新しい天と新しい地のヴィジョンは、ヨハネの黙示録にまで引き継がれます。神様が、すべてを究極的に新しく、また完成させてくださるときが来る。救いの完成の日です。キリストが、そのために、定められた日にもう一度私たちのところへ来てくださいます。私たちの「今日」という日は、再び来てくださるキリストを待つ一日です。
だから、主の御前に、へりくだって今日という一日を歩みたいと願います。「私が目を注ぐのは、苦しむ人、霊の打ち砕かれた人、私の言葉におののく人(66:2)」。主の言葉を聞き、主に従い、主を畏れて礼拝するために、私たちはこの新しい一日の命を与えられました。
「主はこう言われる。見よ、私は彼女に与える。平和を、大河のように。国々の繁栄を、大河の流れのように。あなたは乳を飲み、脇に抱かれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように、私はあなたがたを慰める(66:11~13)」。この救いの日、恵みの日が、必ず来ます。キリストがすべてを新しくし、私たちを全き慰めと安息に入れてくださる日が。その日を目指して、私たちは今日という一日の営みへと、ここから送り出されていきます。

2019年9月29日日曜日

コリントの信徒への手紙一第15章50から58節「死は勝利にのみ込まれた」


 とても長かった第15章、そして一年以上かけて読んできたこの手紙の、今日はまさにクライマックスの部分です。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」勝利と言っているのは、勿論、この章でずっと話題になってきたとおり、死に対する勝利です。死に勝利して、我らは生きる!それが、この手紙の結論なのです。
 私たちの生きるこの世界の現実は、まるで死に支配されてしまっているかのようです。戦争の噂が絶えることはありません。かつての軍拡競争の時代に戻ってしまったのでしょうか。日本では、隣の国との緊張を責任在る立場の者たちが煽っています。日本中会の神学社会委員会が、東京大空襲の資料館への平和スタディツアーを計画しているようです。20年前、母教会の高座教会にいたときに、東京大空襲に遭った教会員のCさんの証言を聞きました。戦争は、爆弾を落とされる民衆の目から見たら悲惨以外の何ものでもありません。そこら中に死体が転がっている。文字通りに死に覆われています。そんな世界の中で、私たちの生も死も、あまりに小さくて無力です。しかしその無力な者に、神は、勝利を賜るのだ、とパウロは力強く宣言します。
 当時、Cさんは教会学校で毎月一度子どもたちに聖書のお話をしてくださっていました。力強い説教でした。教会学校で奉仕していた私はCさんとはそういう意味で親しい方だったので、このような経験をしてこられたことにたいへん驚きました。そして、約一年前に亡くなった私たちの教会の仲間であるTさんも、戦禍を生き抜いた方です。そのTさんは、一緒にお祈りをすると、よく「勝利」という言葉を口にしておられました。キリストの勝利、キリストにある我らの勝利。神が、私たちに勝利を与えてくださった。死への勝利を!TさんもCさんも、そして私たちも、確かにこの世界を覆う死にさらされているし、この肉体はやがて死んで朽ちてしまうことでしょう。しかし、私たちはキリストにあって、死に支配されないのです。
 戦争がもたらす死は、私たち人間の罪が生み出す死です。いや、そもそも私たちは、自分たちの罪の中で死にます。「死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ローマ5:12)」。そのために私たちは苦しんでいる。神に造られた世界が虚無に服して、滅びに隷属し、呻いている。創世記を読んでみると、この世界は神の祝福の中に造られ、しかし人が神を捨ててその命の祝福を踏みにじりました。土から造られた人間の弱い肉体。しかし神さまのお造りになった世界の中で、祝福の内に生きていました。神を捨てた人間は、自分の肉体の弱さを隠すためにいちじくの葉で腰を覆った。なんとも惨めです。そんな人間が初めて着た衣服は、神が与えてくださった皮の衣でした。死から身を守るために、神は死ぬべきものに死なないものを着せてくださいます。キリストの命でこの体を覆ってくださいます。雨の日にカッパを着せるように、私たちを包んでくださいます。
 「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」私たちはこの勝利の歌を共に歌う。神の愛は死に決して負けず、死は私たちを神の愛から引き離すことができないと確信しています。死に対する勝利のラッパの音が、響いています。

2019年9月29日(イザヤ書63〜64)

今日の通読箇所:テモテへの手紙二3、イザヤ書63~64

イザヤ書63~64;
あなたは私たちの父です。アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくとも、主よ、あなたは私たちの父です。「私たちの贖い主」がいにしえからあなたの名です。(63:16)
「私たちの贖い主」という言葉は、親族としての義務を果たすべき者、という意味のある言葉です。昔のユダヤでは、家族に男子がいなくなって家名が絶えてしまいそうになったとき、親族のある人が親族としての義務として、家名を存続させる役割を果たしました。その人を「贖い主」と呼びました。その言葉がここに使われています。神様が私たちの贖い主だというのは、神様が私たちの家族として振る舞ってくださった、ということです。神は私たちの父として、私たちをご自分の家族になってくださいました。
しかし、私たちと神様との関係は、こうでした。「彼らが苦しむときはいつでも、主も苦しまれた。御前に仕える御使いによって彼らを救い、その愛と憐れみによって彼らを贖い、昔からずっと彼らを負い、担ってくださった。しかし、彼らは逆らい、主の聖なる霊を悲しませた。それで、主は彼らの敵となり、彼らと戦われた(63:9~10)」。神様は私たちの家族として振る舞っていてくださるのに、私たちは神に逆らい、神の聖なる霊を悲しませた。この「悲しませた」という一言に、私たちと神様との関係が凝縮されて言い表されているように思いました。
神様は、この悲しみをご自身に引き受けてくださいました。まさに家族として、悲しみながら私たちを招いてくださいました。私たちは、神の招きに応えて祈ります。「どうか主よ、激しくお怒りにならないでくさい(64:8)」。主の御前に、頭を垂れて祈りつつ、主の日の礼拝へと向かっていきましょう。

2019年9月28日土曜日

2019年9月28日(イザヤ書60〜62)

今日の通読箇所:テモテへの手紙二2、イザヤ書60~62

イザヤ書60~62;
主イエス・キリストが安息日に会堂に入り、そこで聖書を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(ルカ4:21)」と宣言されたことがあります。その時に主イエスが朗読されたのが、今朝の御言葉です。
「主なる神の霊が私に臨んだ。主が私に油を注がれたからである。苦しむ人に良い知らせを伝えるため、主が私を遣わされた。心の打ち砕かれた人を包み、捕らわれ人に自由を、つながれている人に解放を告げるために。主の恵みの年と、私たちの神の解放の人を告げ、すべての嘆く人を慰めるために(61:1~2)」。
主が宣言する恵みの年は、人間が、神に造られた者としての人間らしさを取り戻す日です。神がその独り子を与えてご自分のものとしてくださったものとして、その尊厳の回復が告げられる日です。
「起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇ったのだから(60:1)」と言います。私は、最初この言葉を耳にして、怯んでしまいました。光を放てと言われても・・・。しかし、この光は、私たち自身が発光体になることではありません。「あなたにとって太陽が再び昼の光となることはなく、月が夜の明かりとなってあなたを照らすこともない。あなたにとって、主がとこしえの光となり、あなたの神があなたの誉れとなる。あなたの太陽は再び沈むことがなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたにとって、とこしえの光となり、あなたの嘆きの日々は終わる(60:19~20)」。神様ご自身が、私たちの光となってくださいます。私たちに恵みの年を告げ、神の救いを宣言したお方が、私たちの救いそのものになってくださる。このキリストの光に、私たちは照らされている。今日は、神の恵みの日です。今日は、救いの日です。神の光、キリストという明かりに、私たちは今照らされています。

2019年9月27日金曜日

2019年9月27日(イザヤ書57〜59)

今日の通読箇所:テモテへの手紙二1、イザヤ書57~59

イザヤ書57~59;
高みにおられ、崇められ、永遠におられる、その名が聖である方がこう言われる。私は高く、聖なる所に住み、打ち砕かれた人、低められた人と共にいて、低められた人の霊を生き返らせ、打ち砕かれた人の心を生き返らせる。(57:15)
神様が私たちに求めておられる正義は、打ち砕かれた人、低められた人が生きることのできる正義です。正義の名の下に弱い者が虐げられるのではなく、弱っている人が息を吸えるようになることをこそ、神様は私たちに求めておられます。
国際的な環境問題への取り組みについて、国連本部でスウェーデンの16歳の女性がした演説が話題になりました。次世代は、現時点に発言する声をほとんど持たないという意味で、社会の一つの弱者です。私たち現役世代は、声なき次世代にどういう世界を残すのか、問われているのではないしょうか。このままで行くと、弱っている者がますます虐げられる社会が将来さらに強まってしまうことは、必定です。
しかし、弱者のために声を上げたり行動をしたりするのは、簡単なことではありません。神様はそんな私たちに言われる。「誰におびえ、誰を恐れて、あなたは欺くのか。あなたは私を思い出しもせず、心にかけることもなかった。私が長らく沈黙してきたので、私を畏れないのか(57:11)」。神様が誰の側に立っておられるのか、私たちはよく見極めて、ほかの何者をも恐れることなく行動することが大切なのでしょう。
「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえていないのでもない。ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたとを隔て、あなたがたの罪が御顔を描くし、聞こえないようにしている(59:1)」。私たちを神様から引き離す私たち自身の罪、自分のために不正義を容認し、正義を行うことに怯んで妥協したり、自分よりも弱い者の上に平気で乗っかってしまったり、・・・数えたら、きりがないほどです。私たちの罪が神様の御顔を隠してしまう。キリストは、その罪を引き受けて、私たちを神様の御前に連れ戻してくださったのです。

2019年9月26日木曜日

2019年9月26日(イザヤ書55〜56)

今日の通読箇所:テモテへの手紙一5、イザヤ書55~56

イザヤ書55~56;
私の思いは、あなたがたの思いとは異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なるーー主の仰せ。天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道より高く、私の思いはあなたがたの思いより高い。(55:8~9)
神様は、私たちよりも遙かに高い思いを持っておられます。どういうふうに、それは私たちの重いとことなっていて、どういうふうに、それは私たちの思いよりも高いのでしょうか。
1,2節にこのように書いてあります。「さあ、渇いている者は皆、水のもとに来るがよい。金のない者も来るがよい。買って、食べよ。来て、金を払わず、代価も払わずに、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは糧にもならないもののために金を支払い、腹を満たさないもののために労するのか。私に聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたの魂は豊かさを楽しむだろう。」
「買って、食べよ」と言うのに、他方では「金のない者も来るがよい」と言います。「金を払わず、代価も払わずに、ぶどう酒と乳を買え」と言います。これは、全く私たちの社会生活上の常識に当てはまりません。金のない者に、金を払わずに買えというのは、冷たい火だとか熱い氷と同じような形容矛盾です。買うというのは代価を払って手に入れることです。もちろんこれは私たちと神様との関係の話です。私たちは、神様が下さる良いものを相応の代価を支払うことなく頂いています。神様が下さる良いものを、全部、ただで頂いています。ところが私たちが自分の力で手に入れたと思っているもの、ちゃんと自分が応分の負担をして、後ろめたくなく正当に手に入れたと考えているものは、神様からご覧になったら却って「糧にもならないもの」であり、「腹を満たさないもの」に過ぎないのかもしれません。
一年くらい前に、ある政治家が、特定の人たちを指して「生産性がない」として、公的支援をするべきではないと述べたことがありました。あのときは随分批判されていましたが、実は社会の本音をあまりにあからさまに言いすぎた、ということだったのかもしれません。私たちの社会は相応の代価を支払ったり、社会のための生産性を担保できない者に、価を払わずに食べるがよい、と言うことができないでいます。そういうときに自分の正義に酔っている姿は、もしかしたら、糧にならない者のために労しているということなのかもしれません。神様は「公正を守り、正義を行え(56:1)」と言われます。神様の公正や正義は、私たちの思いとは異なり、まったくの恵みのプレゼントとして与えられる贈り物に他なりません。

箴言8:1~11「聞け、知恵の呼び声を」


「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか。高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち」。道の角ででも、知恵が呼びかけているという。「浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。」そのような声を、私は聞いているのだろうか。しっかりと耳を傾ければ、このような知恵への招きが聞こえているはずだ、ということであろう。新聞からでも、神を畏れる者には熟慮する知恵の声が聞こえるはずなのだろう。

2019年9月25日水曜日

2019年9月24日(イザヤ書53〜54)

今日の通読箇所:テモテへの手紙一5、イザヤ書53~54

イザヤ書53~54;
あなたの贖い主はイスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。捨てられ、心を痛めた妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。若い時の妻を見捨てることなどできようかーーあなたの神は言われる。ほんの僅かな間、私はあなたを捨てたが、深い憐れみをもって、あなたを連れ戻す。(54:5~7)
神は私たちを、ご自分の若いときの妻であるかのように求め、私たちの罪のために例え僅かの間捨てたとしても、それが最後の判断ではなく、私たちを見捨てず、求め、必ず憐れんで救いだしてくださいます。だから、今私たちが苦しみの中にいたとしても、それは神の裁きによる苦しみではないのです。私たちは神の罰を受けて苦しんでいるのでも、神に呪われて痛んでいるのでもありません。なぜなら、神の罰も呪いも、全部を、ほかの方が引き受けてくださったからです。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され、私たちも彼を尊ばなかった。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて、、苦しめられたのだと。彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。(53:3~5)
私たちの誰一人として考えもしなかった救いが、ここにあります。私たちのために病を引き受け、罪の結果をご自分のものとしてくださり、私たちに軽蔑されることによって私たちを救ってくださった。それが、神の救いの御業です。
私たちの病も苦しみも、それは神の罰ではない。呪いではない。却って、その痛み、苦しむものに、キリストは最もそば近く寄り添ってくださる。「彼は自分の魂の苦しみの後、光を見、それを知って満足する(11節)」。私たちは、キリストの苦しみの実りです。「多くの人の罪を担い、背く者のために取り成しをしたのはこの人であった(12節)」。この方が、私たちのために、父の右におられて私たちを執り成してくださっているのです。今日も!

2019年9月24日火曜日

2019年9月24日(イザヤ書51〜52)

今日の通読箇所:テモテへの手紙一4、イザヤ書51~52

イザヤ書51~52;
私が、この私が、あなたがたを慰める者。あなたは何者か。死ぬべき人、草のごとく造られた人の子を恐れるとは。あなたは、自分を造り、天を広げ、地の基を据えられた主を忘れ、日夜、絶え間なく、虐げる者の憤りを恐れている。まるで彼が滅ぼすことに決まっているかのようだ。しかし、虐げる者の怒りはどこにあるのか。(51:12~13)
主なる神様が私たちを慰め、救ってくださるからには、私たちはほかの何者をも恐れてはなりません。それは全く不合理であり、間違ったことです。私たちが目に見える者をどんなに恐れたところで、それもまた神に造られたものに過ぎないからです。人も、制度も、病も、死も、すべては神の手の中にあります。だから、この主なる神様の救いの知らせは、神に造られたすべての人のもとに届けられなければならないのです。
「なんと美しいことか、山々の上で良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ、シオンに『あなたの神は王となった』と言う者の足は(52:7)」。あなたの神は王となった!私たちに告げられた、良い知らせです。王として、私たちの神は私たちに平和を告げてくださいます。21世紀になった今でも、この世界ではなんと平和が損なわれていることでしょう!なんと憎しみが支配してしまっていることでしょう!隣人を貶める言葉が氾濫し、自分たちの罪に目をつぶっています。しかし、神が、神の平和を宣言しておられます。
神が与えてくださる平和は、力によって成し遂げられるのではありません。反対する者を制圧し、自分と違う立場の者を言い負かして得られる平和ではありません。だから、この知らせは「多くの国民を驚かせる(15節)」ものです。なぜなら、この平和をもたらす救い主は「その姿は損なわれ、人のようではなく、姿形は人の子らとは違っていた(14節)」からです。軽蔑と蔑みの的になっておられる方が、私たちのまことの救い主なのです。
だから、神の民は捕囚の地から出て、約束の地、神の国へと旅をしていきます。かつてエジプトから出たように。かつてバビロンから出たように。私たちキリスト者は旅する神の民です。「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ。汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ。主の祭具を担う者たちよ。急いで出なくてもよい。逃げるようにして行かなくてもよい。主があなたの前を行き、イスラエルの神がしんがりとなるからだ(11~12節)」。私たちの前を守り、後ろを守っていてくださる方がおられる。そうして、私たちは神の平和を目指す旅をするのです。

2019年9月23日月曜日

2019年9月23日(イザヤ書49〜50)

今日の通読箇所:テモテへの手紙一3、イザヤ書49~50

イザヤ書49~50;
天よ、喜び歌え。地よ、喜べ。山々よ、歓声を上げよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者を憐れまれるからだ。しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てられた。わが主は私を忘れられた」と。女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない。(49:13~15)
主イエスは、私たちに主の祈りを教えてくださいました。「天にまします我らの父よ」と祈ることを教えてくださいました。ご自分の「父よ」という祈りの言葉を、私たちの口にも授けてくださったのです。
しかし、場合によっては「父よ」という祈りは、うれしい言葉ではなくなってしまいます。私たちの肉の父との関係によっては、父よと祈ってよいということが苦しいことにもなり得ます。今朝の母としての神の愛も、うれしい言葉である面と同時に場合によっては苦しい言葉でありうるのではないでしょうか。
神様は言われます。「たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない」。女が自分の乳飲み子を忘れること、自分の胎内の子を憐れまないことなど考えられない。父が自分の子どもを損なうことなど、あってはならない。しかし、そのあってはならないこと、考えられないことが実際にあるのが、私たちの現実です。しかし、「たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない」。神様の愛は、父の愛よりも、母の愛よりも深く、確かであり、変わることがない。
もしかしたら、私たちは、自分の知っている親子関係から類推して神様のことを考えるから、「主は私を見捨てられた」とつぶやいてしまうのではないでしょうか。実際の神様は、絶対にそのようなことをなさいません。私たちとは違うから。
だから、私たちは、自分自身が経験している親子の関係から神様のことを考えるのではなく、神様との関係から自分の親子関係を捉え直すという恵みにも招かれています。私たちの父に、あるいは母に、私たちは私たちのまことの父であり母である方の大いなる愛に促されて向かうこともまたできる。その日が、必ずやって来ます。

2019年9月22日日曜日

コリントの信徒への手紙一第15章42から49節「神は体をも救ってくださる」


 先日、何を思ったのか突然息子が「魂ってナニ?」と尋ねてきました。子どもに答えるのは難しいなと思いながら何かを言ったのですが、あまりよく答えられませんでした。しかしよく考えてみると、相手が子どもだから難しいというよりも、自分の理解が曖昧だったのだと思います。今朝の聖書の御言葉で、44節に「自然の命の体」という言葉があります。直訳すれば「魂の体」と翻訳することもできる単語が使われています。聖書に登場する「魂」という単語には、もともと、喉とか息といった意味があります。この場合の喉は、恐らく乾いてカサカサになった喉です。息は消えゆく儚さを感じさせます。聖書の言葉で「魂」と言ったとき、それは脆くて儚い、弱い人間存在という意味であるのだと思います。私たち人間は、弱い存在です。肉体を持つ限り、必ず老いるし、死は確実に近づいて来ます。それなのに、それでもなお生きる意味は一体どこにあるのでしょうか。
 詩編第103編には深い人間理解があると思います。特に1416節。「主は私たちをどのように造るべきか知っておられた。私たちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。人の生涯は草のよう。…。」ここには人間がいかに弱くて脆い者として造られたのかが書かれています。それならば、私を造ったという神に向かって、「そんなものになら造るな」と言いたくなるほどのことではないでしょうか。しかし、この詩編の最初と最後には同じ言葉が登場する。「わたしの魂よ、主をたたえよ。」やはり、ここでも「魂」です。カサカサになった喉のように傷つきやすく、今にも壊れてしまいそうな、弱い私。その私が、しかし主なる神さまをたたえている。それは、810節などを見ると、神さまが憐れみ深く、恵みに富み、慈しみを示してくださるからだと言います。神は弱い私たちを、その弱さのために憎んだり、呪ったり、罰したりするのではない。憐れみ、恵み、慈しんでおられる。死ぬべきわたしを、救ってくださる。だから、神を信じて生きるというのは、希望のあることです。
 ティーリケという牧師が、今から450年程前に、アメリカ社会について、死を覆い隠してしまっている、と批判している文章を読みました。死も老化も見ないようにしていることに、今の社会の問題があるというのです。現代の日本社会も、同じ問題を抱えていると思います。病院から、死が見事に隠されています。老化には積極的意味がなく、アンチエイジングが正義になっています。私が洗礼を受けたのは高校生の時でしたが、その時に指導してくださった生島牧師は、私は神を信じて死ぬのが怖くなくなったとおっしゃっていました。高校生の私には衝撃的な言葉で、今でもよく覚えています。御自分の死をごまかすのではなく、じっと見つめながら、死を超える希望を信じているのです。「最後のアダムは命を与える霊となった」と書いてあります。この最後のアダムというのは、キリストのことです。キリストが十字架にかけられて殺され、その三日後に復活したことを意味する言葉です。キリストの復活が、弱い魂である私たちに命を与えてくださった。この事実が、神を信じる者の希望の源泉です。キリストは死者の中から復活した。私たちはこの命の似姿になる。
 私たちは弱くて脆い、限りある肉体をもって生きています。この体が種のように蒔かれ、やがて輝かしい体となって復活する。聖書はそう約束します。この約束があなたに向けられているのです。

2019年12月7日(ホセア書13〜14)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録7、ホセア書13~14 ホセア書13~14; イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ。あなたは自分の罪につまずいた。あなたがたは言葉を用意し、主に立ち帰って、言え。「どうぞ罪をすべて赦し、良いものを受け取ってください。私たちは唇の実を献げます...