2021年2月28日日曜日

2021年2月28日(詩編69)

詩編69
私は苦しみ、痛みの中にいます。
神よ、あなたの救いが
  私を高く上げてくださいますように。
私は歌をもって神の名を賛美し
感謝をもって、神を崇めます。
それは雄牛よりも
  角と割れたひづめのある牛よりもなお
  主の喜びとなるでしょう。
苦しむ人はこれを見て喜びます。
神を尋ね求める人よ
あなたがたの心に命が与えられますように。(30~33節)

苦しむ人の喜び、それは同じように苦しみ、痛みの中にある私が神を賛美すること。そのように言います。それは私たちにもよく分かることではないでしょうか。苦しくて苦しくて、もう顔を上げることができないようなとき、そんな私を励ますのは同じように苦しむ人の祈る姿です。痛みを知っている人が神を賛美していることです。私も同じように神を信じ、祈り、神を賛美することができるのだと気づかせてくれる存在です。私のための神の恵みの証人です。
この詩編は十字架にかけられた主イエスのお姿を思わせる言葉がたくさん出てきていました。例えば、「私はあなたのゆえにそしられ、顔は恥辱に覆われています」とあります。主イエスのお姿そのものです。もっと直接的には、「渇く私に酢を飲ませようとしました」とありますが、主イエスご自身、十字架の上で酢を突きつけられました。
つまり、私たちと同じ痛みをよく知りながら、それでも神を愛し、神を信じることをやめずに神に祈り続けた証人とは、他ならぬ主イエスご自身のことです。キリストこそ、祈り抜かれたお方です。
私たちは、今日もこのお方の祈りに支えられて一日を歩みます。主と共に歩み出した新しい日が、新しい一週間が、主イエス・キリストの祈りに支えられるものでありますように。キリストから響き出す賛美が、私たち自身の賛美となりますように。

2021年2月27日土曜日

2021年2月27日(詩編68)

詩編68
神に向かって歌え。
その名をほめ歌え。
雲を駆って進む方をたたえよ。
主の名によって、その前に喜び踊れ。
みなしごの父となり
やもめの裁き手となるのは
聖なる住まいにいます神。(5~6節)

この詩編は、例えば「神の山、バシャンの山、峰を連ねた山、バシャンの山」といった大自然や「エジプトから青銅の品々が到来し、クシュは神に向かって手を伸べる」というふうに外国も出てきます。とてもスケールが大きい詩編だと思います。冒頭に引用したところでも「雲を駆って」と言っています。
しかし、ただスケールが大きいというだけではありません。その大きな神さまは小さな者の声を聞いてくださる方でもあります。「みなしごの父となり、やもめの裁き手となるのは、聖なる住まいにいます神」なのです。そこにいる一人のみなしごややもめの悲しみに寄り添い、それを知って助け、彼女らのために正義に基づく裁きをするのは、神。この世界の王でいらっしゃる方は、私たちには計り知れないほど大きく、途方もない方です。しかし同時に、私たちの社会が気に掛けず、目をくれようともしない小さな者に寄り添い、その痛みに耳を傾けてくださる方です。

神よ、あなたは豊かに雨を降らせ
衰え果てたご自分の民を回復させ
あなたの群れはその地に住む。(10~11a節)

神さまは衰え果てた者のために雨を降らせてくださいます。ご自分の民を回復させるために。神が養い、憐れんでくださって、神の民はこの地に生きることができる。私たちはキリストを仰いで、今、生きています。

2021年2月26日金曜日

2021年2月26日(詩編66〜67)

詩編66~67
神よ、あなたは私たちを試み
火で銀を練るように私たちを練った。
あなたは私たちを網に追い込み
腰に重荷を付け
人が私たちの頭の上を乗り越えることを
  お許しになった。
私たちは火の中、水の中を通ったが
あなたは私たちを広々とした地に導き出された。(67:10~12)

いろいろな出来事やいろいろな人から圧迫されたとき、神さまは一体何をしておられるのか、と問わざるを得ない。この詩編でとても厳しいのは、「あなたは私たちを網に追い込み」と言っていることです。私をこのような苦境に立たせたのは、他ならぬ神様ご自身。厳しい現実です。しかし、神さまには何でもおできになるということを真剣に受け止めるならば、そう言わざるを得ない。これは、神を信じる多くの人が直面する問いであり、悩みなのではないでしょうか。
確かに、すべては神さまの御手の中にあるはずです。苦しい時間は永遠に続くような気がしてしまいます。しかし、神さまはご自分が愛する者を火で練って精錬し、銀の純度を増すようにして私たちを練り清めている。神さまはその先に私たちを導き出そうとしておられるのです。「あなたは私たちを広々とした地に導き出された」と言っているとおりです。
この「広々とした地」というのはよい言葉です。四面楚歌のような現実の中で、神は生きて働き、この圧迫をも神の御手の内に私たちを練り清めるために用いてくださる。その事実が、すでに広々とした地なのではないでしょうか。

神が私たちを憐れみ、祝福し
その顔を私たちに輝かせてくださいますように。
地があなたの道を知り
すべての国があなたの救いを知るために。(67:2~3)

神さまのへの私たちの救いの御業が、神さまの救いの御業を全地が知るための証しとなりますように。主イエス・キリストを私たちに下さり、私たちに憐れみを示してくださった神さまの愛が、私たちという存在を通してこの諸国民の知るところとなりますように。そのために、私たちが今日も用いられますように。

2021年2月25日木曜日

2021年2月25日(詩編65)

詩編65
我らの救いの神よ
あなたは義によって
恐るべき業によって答えます。
遠い海、地の果てに至るまですべてが信頼する方。
強い力によって山々を固く据え
大いなる力を身に帯び
大海のどよめき、波のどよめき
そして諸国の民の騒ぎを鎮める方。(6~8節)

神さまの御業を覚えると、気が遠くなります。「強い力によって山々を固く据え、大いなる力を身に帯び、大海のどよめき、波のどよめき(中略)を鎮める方」というのは、創造の出来事を想起しているに違いありません。そして、山々を据えた御業、海を鎮めた御業によって、諸国の民の騒ぎをも鎮めたお方です。想像のときの神の力強い御業は、今も生きて働いておられる方の御業に他ならない。そのように言うのです。
10節以降では、今このときもこの世界に生きて働いておられる御業を覚えています。「あなたは地を訪れてこれを潤し、大いに豊かにします。神の水路は水をたたえ、あなたは穀物を備えます。あなたがそのように整えたのです。畝を潤し、土をならし、豊かな雨を注いで柔らかにし、萌え出でたものを祝福してくださいます」(10~11節)。今、雨が降って大地を潤し、大地が土の実りを結ぶのも神の御業に他ならない。そのことに驚き、神さまの御業を覚えて恐れている。それがこの詩編の信仰です。
この詩編の中でもいちばん私の心に残ったのは、2節の言葉です。「あなたには沈黙も賛美。」言葉を失うほどの神さまの御業に圧倒されているのではないでしょうか。神さまがこの世界を造ってから今に至るまで、絶えず働き私たちの命をもつないでくださっている途方もない御業。ただ驚き、沈黙するしかない。しかし、その沈黙さえも賛美に他ならない。神さまの偉大さに触れると、人間は自分の小ささや過ちを自覚しないわけにはいかず、恐れるばかりです。「数々の過ちが私を責めたてます。」しかし、この詩編は確信をもって続けます。「私たちの背きを、あなたが覆ってくださいます」と。これもまた、驚くべき神さまの御業です。
言葉を失い、ただ沈黙して神にこころを注ぎ出す私たちを、神が今日も御心に留めていてくださいますように。お一人おひとりに神さまの祝福がありますように。

2021年2月24日水曜日

2021年2月24日(詩編64)

詩編64
だが神は彼らに矢を射かけ
不意に彼らは傷を負う。
彼らは自分の舌のゆえにつまずき
見る人は皆、頭を振るでしょう。(8~9節)

この詩編は悪をなす者のために苦しむ人の祈りです。特に、言葉に苦しめられています。
「彼らは舌を剣のように鋭くし
苦い言葉の矢をつがえています。
物陰から罪もない人に射かけようと構え
不意に射かけることに後ろめたさも感じていません。」
剣のような言葉、矢のように富んでくる苦い言葉に苦しんでいる。「罪もない人に射かけようと構え」と言っているのですから、自分としてはそのような心ない言葉を浴びせられるような心当たりは全くない、ということなのでしょう。
他人の言葉に傷ついたことがない人は一人もいないと思います。心ないことを言う人を前にして怒りがわいたり、本当に傷ついて泣くことさえできなかったり、そういう辛い経験は誰もがします。
ヨハネによる福音書の冒頭には「初めに言があった」とあります。ここでの「言」というのは一般的な意味での言語ということではなく、神と共に最初からあった神の知恵であり神の言を意味する。この世界はそういう言葉の語りかけによって造られました。神が語りかけた言葉がこの世界に秩序を与えた。そうであるからこそ、神がお造りになった世界の美しさを損なうような私たちの汚い言葉を神がお喜びになるとは考えられません。
「彼らは自分の舌のゆえにつまずき
見る人は皆、頭を振るでしょう。」
舌のせいで嘗めさせられた苦みは舌でやり返したくなります。しかし神はそれをよしとはなさらない。神ご自身が彼らに矢を射かけ、神が彼らをお取り扱いになる。舌のために彼らは躓くことになる。この詩編はそのように言います。
舌の失敗は尽きません。神さまに憐れみを求めるよりほかありません。今日一日、私たちの口から出てくる言葉が呪いの言葉ではなく、神を賛美するにふさわしい言葉でありますように。

2021年2月23日火曜日

2021年2月23日(詩編63)

詩編63
命のあるかぎり、あなたをたたえ
その名によって、手を高く上げよう。
極上の食物にあずかるように
私の魂は満ち足り
唇は喜び歌い、口は賛美の声を上げます。
私が床であなたを思い起こし
夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら
あなたは必ずわが助けとなってくださる。
あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。(5~8節)

この詩編は生活者の祈りの言葉だなと思います。私たちと同じようにおいしいものを食べれば嬉しいですし、疲れれば床に入って眠りますが、眠っていられない夜もある。そういう毎日の生活の中で神さまを賛美し、神さまを愛して生きる人の祈りの言葉です。
「極上の食物にあずかるように、私の魂は満ち足り、唇は喜び歌い、口は賛美の声を上げます。」とっても良い言葉です。そうやって神さまを喜び、賛美し続けていきたいと願います。満ち足りた魂で賛美を歌う。まるで極上の食べ物を頂いたときのような満ち足りた心で!神さまは心からの喜びを献げることを、嬉しく思ってくださる方です。
「私は床であなたを思い起こし、夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら、あなたは必ずわが助けとなってくださる。」夜、床に入ったときに神さまを思う。床に入っていられるときだけではありません。夜、育児や介護のために起きて世話をする。そういうときに下の世話をしながら神さまを呼ぶ。その祈りを神は聞いていてくださって、わが助けとなってくださる。
神さまを信じると生き方が変わる。箸の上げ下げのしかたも変わる。そう言っている人がいました。おいしいものを食べたときのような喜びで神を賛美し、夜寝るときにも夜中に起きるときにも神さまを呼び求める。私たちの生活の隅々までも神さまに献げ、神さまを私たちの生きている場にお迎えする。それが、私たちの祈りです。

2021年2月22日月曜日

2021年2月22日(詩編62)

詩編62
人間の子は息のようなもの。
人の子は欺き。
秤にかければ
共に息よりも軽い。
暴力に頼るな。
略奪に空しい望みを置くな。
富が増えても、心を奪われるな。
一つのことを神は語り
二つのことを私は聞いた。
力は神のもとにある、と。(10~12節)

私も、私を苦しめる者も、共に息よりも軽い。弱く、小さく、儚い存在に過ぎない。そのように言います。自分の力に頼って人を押しのけても、人の物を奪い取っても、空しい。富が増えてそれに心を奪われても、仕方がない。そのように言います。自分自身の心に語りかけているのかもしれません。自分を苦しめる者が生き生きと楽しんでいるように見えたり、ずるく、うまく立ち回っている者が笑っているのを見ながら、自分の心にそう語りかけているのかもしれません。
本当に価値のある生き方や私たちにとっての美しいあり方は一体どういう構えで生きることなのでしょうか。「私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ」と言っています。私たちの心を波立たせたり、神さまの語りかけを聞こえなくする声は内外に響きます。まずは自分自身の魂が静まって、神さまに向かって沈黙する。騒ぎ立つ心を静め、じっと神さまに聞き入ります。私の希望は神から来るからです

一つのことを神は語り
二つのことを私は聞いた。
力は神のもとにある、と。

神さまは、そのように語りかけておられます。「力は神のもとにある」。私たちの心を乱すことは、私たちの内にも外にも溢れています。他の人も振る舞いも、自分自身の心の迷いも、神さまの声を聞こえなくさせます。しかし、力は神のもとにある。力強い神の慈しみに信頼し、この弱く儚い私が神の慈しみによって生かされること。そこに、私たちの美しい生き方が始まるのではないでしょうか。私たちのために麗しい歩みを示してくださった主イエス・キリストが私たちの前におられます。

2021年2月21日日曜日

2021年2月21日(詩編60〜61)

詩編60~61
神よ、あなたが私たちを拒んだのではありませんか。
神よ、あなたは私たちの軍勢と共に
  出陣しようともなされない。
私たちを敵から助けだしてください。
人の与える救いは空しい。(60:12~13)

この詩編60は、読むのが辛い詩編です。冒頭でもこのように言います。
「神よ、あなたは私たちを拒み
  打ち倒し、怒っておられます。
私たちを回復させてください。」
神の怒りに打ちのめされ、しかし神に助けを求めて祈っている。そういう祈りの言葉です。読むのが辛い詩編。しかし、他方ではよく分かる詩編です。神に拒まれている、神は助けてくださらない。そう言わざるを得ないことは私たちにもあるのではないでしょうか。
この詩編はエドムとの戦争を背景にしているようです。ただ、この詩編の祈りの言葉は、苦しい現実を前にしながら、その問題を自分とエドムとの問題ではなく自分と神との問題として捉えています。私たちを拒んだのは神さまあなたです、と訴えています。私を助けてくださらないのは神さまあなたです。そのように言う。それは、「人の与える救いは空しい」と知っているからです。神に助けて頂かなくては救われようがないのです。

神よ、私の叫びをお聞きください。
私の祈りに心を向けてください。
心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。(61:2~3a)

続く詩編61も、やはり心挫けながら神に叫ぶ者の祈りの言葉です。私たちの感覚だと、心が挫けると祈る元気もわかないような気がしてしまいます。しかし、この詩編はそうは言いません。心が挫けるからこそ、他の何者でもなく神に訴えるのです。
心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。この「地の果てから」という言葉がとてもいいな、と思います。心が挫けて、神さまが遠い。実際に遠いかどうかと言うよりも、「遠い」と言わざるを得ないということなのだと思います。しかし神から隔絶されたような地の果てにいようとも、挫けた心を注ぎ出すようにして神に祈る。神はそのような祈りを必ず聞いてくださいます。私たちの祈りを神は聞いてくださっています。

2021年2月20日土曜日

2021年2月20日(詩編59)

詩編59
  彼らは夕べに戻って来て
  犬のようにほえ、町を巡り歩きます。
彼らは餌食を求めてさまよい
食べ飽きるまで眠ろうとしません。
しかし私はあなたの力をたたえ
朝にはあなたの慈しみを喜び歌います。
あなたはわが砦。
苦難の日の逃げ場になってくださいました。(15~17節)

1節の表題によると、この詩編は「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」の祈りとなっています。サウル王は自分よりも人気があったダビデに嫉妬し、また彼を恐れ、執拗に殺そうと狙っていました。サウルはダビデが奏でる琴が好きだったのですが、あるとき彼は嫉妬に駆られて琴弾くダビデを槍で突き刺そうと狙います。ダビデはその時は難を逃れて家に帰りましたがそれでは済みませんでした。「サウルはダビデの家に使者を遣わし、彼を見張らせ、朝になって殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに言った。『今夜中に避難して自分の命を守らなければ、明日には殺されます』」(サムエル記下19:11)。この詩編の表題に書かれているのは、このときのことです。
サウルがダビデを槍で殺そうとしたのも、部下に命令して家を包囲させたのも、夜の出来事でした。詩編でも「彼らは夕べに戻って来て、犬のようにほえ、町を巡り歩きます」と言われているとおり、暗くなっていく夜の闇の中で、自分を狙う敵が自分を取り囲んでいました。本当に不安で、心細くて、辛かったと思います。
しかし、ダビデは言うのです。「私はあなたの力をたたえ、朝にはあなたの慈しみを喜び歌います」と。必ず神が私を救ってくださる朝が来ると信じていました。この詩編の祈りで大切なことは、今はまだ朝になっていないということです。夜大変なことがあったけど朝には一命を取り留めた、だからよかった。そういう話ではありません。まだ夜です。今、まだ敵に囲まれています。その夜の闇の中で信じていました。神が私の砦となって私を支えてくださることを。
困難の時というのは、信仰の時です。その時こそが信じる時です。夜の闇の中で、キリストがもたらしてくださる朝の光を信じ、望みを抱く。それが私たちの信仰です。

2021年2月19日金曜日

2021年2月19日(詩編57〜58)

詩編57~58
神よ、私の心は確かです。
私の心は確かです。
私は歌い、ほめたたえよう。
目覚めよ、私の栄光よ。
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
私は暁を目覚めさせよう。(57:8~9)

詩編57は「私を憐れんでください」という言葉から始まっています。「私の魂はあなたのもとに逃れました」とも言います。災いの中で苦しむ人の祈りの言葉です。災い、苦しみ、嘆き、そういったものは私たちの心身を攻撃し、ときに、私たちは心が萎えてしまいます。再び立ち上がる力がなくなってしまいます。「私を踏みにじる者が嘲っています」とも言っていますが、周りの目や自分を苦しめる者の手しか見えなくなってしまいます。だからこそ、神さまのもとに逃れ、神さまの憐れみを求めているのです。
その人が言うのです。「私の心は確かです」と。そして、神を賛美する心に向かって、「目覚めよ」と呼びかけるのです。神を賛美することこそ、萎えた心と体とを目覚めさせることに他ならない。神を仰ぎ、神を賛美し、神を礼拝することこそ、私が目覚めてこのときを生きる秘訣だと言うのです。
苦しみの中でただただ理不尽さを嘆いたり、起こったり、苦しむだけで精一杯になってしまうのが私たちの現実です。しかし、そんなときこそ神さまを賛美しましょう。そこに新しい世界が広がっています。

人は言う。
「まことに正しき者には実りがある。
地には裁く神がおられる」と。(58:12)

詩編58は自分を苦しめる悪しき者へ神が報復してくださることを願い求めています。2節を見ると「神々よ、本当に義を語っているのか」と言っています。神々というのですから、この「悪しき者」というのは必ずしも誰かのどこかにいる人間ということではなく、人間の力を越えたような恐ろしき諸力のことなのかもしれません。そうであるとしても、神はどのような力よりも強い方。だからすべての悪しき者を神が裁いてくださいますように。そのように祈ります。
今日の詩編は、57も58も、どちらも神に注目しています。自分の身に降りかかる災いの現実やその理不尽さに注目するよりも、じっと神に目を向け、目をこらして、神が助けてくださることを信じ、待ち望んでいます。それが「信じる」ということだからです。

2021年2月18日木曜日

2021年2月18日(詩編56)

詩編56
あなたは私のさすらいの日々を
  数えてくださいました。
私の涙をあなたの革袋に蓄えてくださいました。
あなたの記録にはそうするように書かれていませんか。(9節)

神さまはあなたの涙をご自分の革袋に蓄えておられます。あなたの涙の一滴も忘れることなく、憶えていてくださいます。人知れず悲しむとき、他の人には理解してもらい得ない涙をも、神さまは憶えていてくださるのです。
その悲しみの日々を、この詩編では「私のさすらいの日々」と呼んでいます。この「さすいらい」という言葉には訳注が付いていて、別訳するなら「嘆き」という意味だ、と書かれています。さすらいの日々、それは嘆きの日々です。悲しみの中で一つの場所に身を定めることができず、さすらうしかないのです。私たちには仕事があるし、家庭があるし、自分が生きてきた地盤があります。そう簡単にさすらいの日々を送ることはできない。しかし、心が悲しみに打ちのめされて定まらないとき、私たちはさすらいの日々を送っている。それは孤独なことです。その涙を、神はご自分の革袋に蓄えていて、覚えておられるのです。

私があなたを呼び求める日
その時、敵は退きます。
私は、神がそばにおられることを知っています。(10節)
神に信頼し、恐れることはありません。
人間が私に何をなし得るでしょう。(12節)

神は、どのようなときにも共にいてくださいます。他人が私たちにとってどんなに脅威であったとしても、あるいは何も他人ばかりでなく病気でも、不条理な出来事でも、私たちが神を呼び求めるとき、神が私たちを守り、敵は退くことでしょう。私たちの身に降りかかる出来事を動かす力は私たちにはありませんが、私たちのために身をかがめたキリストが私と共にいて、この涙を集めに来てくださっていることを私たちは知っています。
神に信頼をし、歩む一日でありますように。心から祝福を祈っています。

2021年2月17日水曜日

2021年2月17日(詩編55)

詩編55
私は神に呼びかける。
主は私を救ってくださる。
夕べも朝も、そして昼も
  私は嘆き、呻きます。
神は私の声を聞いてくださる。
たとえ闘いを挑む者が多くても
私の魂を平和のうちに贖い出してくださる。(17~19節)

「私は神に呼びかける」と言います。夕べも昼も、そして昼も、嘆き、呻いています。その嘆きや呻きをすべて神さまに訴えます。それは、他にはどこにも訴えられるところがないからです。
今朝の詩編は昨日読んだ詩編とは正反対のような響きを持っています。今朝の詩編はこのように言います。

私を嘲るのは敵ではない。
そうであるなら耐えられる。
尊大に振る舞うのは私を憎む者ではない。
そうであれば彼から隠れられる。
だが、それはあなたなのだ。
私と同等の立場の者、友、心を許した人。
一緒に親しく交わり
神の家を群衆と共に歩いたではないか。(13~15節)

神さま以外に、この絶望を訴えられる相手がいません。友に裏切られ、嘲られているから。心を許し、共に神を信じ、一緒に生きてきたはずの人。友であったはずの人が自分から離れ、自分を侮辱する。その痛みを何と言葉にすればいいのでしょうか。
だから、この信仰者はひたすら神に祈ります。例え誰が自分を裏切り、捨てようとも、神はそうなさらないと信じているから。神は私の祈りを聞いてくださっていると信じているから。絶えず涙が流れる私が、その涙を流すままに神に訴えている。
祈りは、そのようにして神さまの前に心を注ぎ出すことです。めちゃくちゃのぐちゃぐちゃになってしまった私を、そのままに神さまに差し出すことです。神さまは、「私の魂を平和のうちに贖いだしてくださる」。例え今それを信じられなくても、その言葉は真実です。

2021年2月16日火曜日

2021年2月16日(詩編54 )

詩編54
見よ、神はわが助け。
わが主は私の魂を支える人々の中におられる。(6節)

私の魂を支えてくれる人たち、その中に私を助けてくださる神がおられる。本当にすばらしい言葉だと思います。ある牧師が言っていたのですが、一人ではできないことが二つある。一つは結婚すること、もう一つは神さまを信じること。そのように言っていました。結婚するのでも誰かと友達になるのでもお互いの背中を流し合うのでもよいかもしれませんが、相手がいないとできないこと、独りぼっちでは不可能なことがあります。神さまを信じることもその一つだ、と言うのです。
しかし聖書を読むことは一人でできるし、意味が分からなくてもよい解説本もあります。却って煩わしい人間関係に巻き込まれないで済むし、一人で神さまの前に立つということを考えると、教会などない方が本当だと言えば言えそうな気もします。
しかし、この詩編を読むとそういう考え方は間違いだと分かります。私たちは神の助けを、私の魂を支えてくれる人たちとの出会いを通して経験します。教会がキリストの手として私を支え、私のよろめく足を取って共に歩く足になり、私の魂を救ってくださる。
この十年ほど、絆という言葉がはやり、もはや消費され尽くした感があります。そこで言われていた絆という言葉は、絆が失われている現実を覆い隠すような美辞麗句だった気もします。実際のところ地域コミュニティは失われ、社会的な意見の相違や経済的な格差による分断は年を追うごとに激化しました。先般の米国大統領選挙でも「分断」ということが繰り返し指摘されていましたが、分断については米国よりも日本の方が先を行っていると思います。絆という言葉を消費しながら、何を間違えてしまったのでしょうか。
北九州でホームレス支援をしている奥田牧師は、絆という言葉には「傷」が含まれると言っています。絆を結ぶというのは相手の抱えている傷を一緒に負うことだ、と。相手の厄介事に一緒に傷つくことだと言うのです。それは美辞麗句では済まないことです。しかし、そうやって一緒に傷つく関わりの中で、私たちは神の助けを経験するのです。
私は小さな人間ですし、高潔でもないですから、つい相手にばかりその「傷」を求めてしまいます。私のためにどうして傷ついてくれないの、と。しかしキリストは、私にそういう要求はなさらずに私を引き受け、傷ついてくださいました。そして、私を囲む教会が、その傷を負ってくれた。そうやって、私は神の助けと救いを体験しました。

2021年2月15日月曜日

2021年2月15日(詩編53)

詩編53
愚か者は心の中で言う。
「神などいない」と。
彼らは堕落し
忌むべき不正をなす。
善を行う者はいない。(2節)

「神などいない」と言ってのけるのは愚か者のすることだ、と言います。ここでの「神などいない」と言う、というのは、狭義の意味でクリスチャンかどうかということに留まらないと思います。生き方が「神などいない」と言ってはいないかという問いであるのだと思います。
「神などいない」と言ってしまっている生き方。それは、神が忌む不正をなし、善を行おうとしないことです。神に背き、腐り果てることです。人々を食い物にし、悪事によって私腹を肥やすことです。
この数年間、グレタ・トゥンベリさんという若い女性が環境問題についての大人たちの偽善を暴きました。不都合な事実を指摘したために、ひどい非難と糾弾を受ける羽目になりました。私は、彼女の指摘は真摯に聞くべき言葉であると思っています。一つの言い方をすれば、これまでのように豊かになることを求めて環境の悪化に目をつぶることは、この先の世代からの収奪です。神さまがお造りになった世界を食い潰すことを神さまがお喜びになるはずはないし、現代の貧しい人や環境、この先の世代が生きるべき場所を奪い取って豊かさを追求することは、「パンを食らうように私の民を食い尽くし」という指摘そのものであると思います。それは、「神などいない」という生き方になってしまっている。問題の急所は、私たちの欲望の拡大と達成を善とする社会の在りよう、消費主義です。
しかし、聖書は「神などいない」と嘯く生き方は愚かだと言います。だから、悔い改めて神さまの御許に立ち帰りましょう。この詩編の最後は「神が民の繁栄を回復されるとき」となっています。神が主語です。神が回復してくださる。私たちが奪い合い、自分のものを増やし、豊かさを維持するために収奪することをやめ、神さまの前に貧しい者となることを、神さまは望んでおられるのではないでしょうか。神さまご自身が、ご自分の民を回復してくださることを信じましょう。

2021年2月14日日曜日

2021年2月14日(詩編52)

詩編52
力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。
神の慈しみは絶えることがない。(3節)

神の慈しみは絶えることがない!私たちも、この言葉に「アーメン」と応えたい。心からそう願います。
日本聖書協会共同訳の訳注を見ると、この「絶えることがない」という言葉は、直訳すると「一日中」という意味なのだそうです。この直訳もまた素敵な言葉です。「神の慈しみは一日中。」今日というこの新しい一日、そのどんなときにも神さまの慈しみが私から離れるときはひとときもない。一日中、いつでも、神の慈しみは私を支えてくださっている。そのように告白するのです。
今、自分の前には力ある者が立ちはだかっています。悪事を企み、それを恥じるどころか誇っている。「あなたの舌は破滅を思いたくらむ」と言っています。人の心を蝕むような悪口や陰口、怒りに任せた裁きの言葉に覆われているのでしょうか。「それは刃物のように鋭く、人を欺く」とも言います。その言葉の刃に、私自身、とても傷つけられている、ということなのでしょう。
この詩編作者は、「神はあなたを打ち倒し、永遠に滅ぼされる」と言っています。自分で復讐するのではなく、神さまの手にお委ねすると言っています。1節の表題を見るとダビデがサウル王に追われているときの詩編とされています。ダビデは自分の命を狙うサウル王に手をかけるチャンスが何度かありましたがそれをせず、神さまの手に委ねていました。確かに、ダビデの生きたとおりの詩編です。
「私は神の家に生い茂るオリーブの木のように、代々とこしえに神の慈しみに信頼します」と言います。私たちが信頼するのは自分の復讐心や正義感ではなく、神さまです。怒りに燃えるとき、やり返したくなるとき、一泡吹かせたくなるときにこそ、神の慈しみに依り頼みましょう。神さまのはからないの中で生かされていることに気づきましょう。一日中、神の慈しみがあなたから離れることはないのです。決して。
今日も恵み深い神の御名による祝福があなたにありますように。

2021年2月13日土曜日

2021年2月13日(詩編51)

詩編51
神よ、私を憐れんでください。
  あなたの慈しみによって。
深い憐れみによって
  私の背きの罪を拭ってください。
過ちをことごとく洗い去り
私を罪から清めてください。(3~4節)

この詩編は1節の表題で、ダビデがバト・シェバと密通し、預言者ナタンにその罪を指摘されたときのことだと書かれています。ダビデは庭で水浴びをしているバト・シェバを見初め、王としての地位を利用して関係を持ちます。バト・シェバはそのときのことで妊娠しました。ところがバト・シェバにはウリヤという夫がおり、発覚を恐れたダビデは隠蔽工作をしますがうまくいかず、結局ウリヤを故意に戦死させました。バト・シェバを手込めにし、人殺しまでしたのです。その後、預言者ナタンがダビデのもとにやって来て、彼の罪を厳しく非難しました。この詩編はそのときのダビデの祈りの言葉です。
私たちにはどうしても取り返しのつかない過ちを犯してしまうことがあります。ダビデがどんなに悔いても、ウリヤは戻って来ません。ダビデの家族も、この後崩壊していき、彼はその後自分の息子に命を狙われるようにさえなっていきます。ダビデの犯した罪はダビデ自身にも、周囲にも大きな傷を残しました。中でも、王の権威を持って関係を強いられ、夫まで殺されたバト・シェバはどうでしょうか。どんなにお詫びしても仕切れない罪。ダビデはすばらしい英雄であり王としても名君でしたが、本当に大きな過ちを犯してしまった人でもあります。聖書はその事実を隠しません。
神に憐れみを求めることしか、ダビデにはできませんでした。ダビデはこのようにも祈ります。「ヒソプで私の罪を取り去ってください、私は清くなるでしょう。私を洗ってください、私は雪よりも白くなるでしょう。」ダビデには、神さまに期待することしかできませんでした。この血に汚れた手、緋のような罪、それを清めることができるのは神さまだけだからです。
「赦してください」というダビデの祈りは、彼が犯してしまった過ちを考えるとムシがいい祈りでしょうか。そうかもしれません。しかし、私たちの罪は、ダビデに比べて軽く済んでいるのでしょうか。私たちはダビデのような愚かな過ちは犯していないのでしょうか。そういうことのできる人間は、いないのではないでしょうか。私たちは、ムシがよくも、ただただ神さまに「赦してください、憐れんでください」と祈るより他ないのです。

2021年2月12日金曜日

2021年2月12日(詩編50)

詩編50
私が雄牛の肉を食べ
雄山羊の地を飲むことがあろうか。
感謝を神へのいけにえとせよ。
いと高き方に誓いを果たせ。
苦難の日には、私に呼びかけよ。
私はあなたを助けだし
あなたは私を崇めるであろう。(13~15節)

私たちの神さまを礼拝するまことのいけにえは、神を賛美し、感謝を献げ、「助けてください」と呼びかけることです。神さまはどんなに高価なささげ物やすばらしい動物の犠牲よりも、私たちの感謝や祈りを喜んでくださる。それは、神さまの愛です。
私たちの人間関係を考えてみても、それはよく分かります。お金をかけるばかりで心のこもっていないプレゼントよりも、真心を示してもらうことを私たちは喜びます。かたちばかり整えた贈り物よりも、心を込めて準備してくれた時間に尊さを感じます。
悪しき者に対する神さまの言葉は、まさにそのことを言っているのだと思います。「何のために、あなたは私の掟を数え上げ、私の契約を口にするのか。あなたは私の諭しを憎み、私の言葉を蔑ろにする。盗人を見れば共に楽しみ、姦淫を行う者の仲間となる。口を悪事に引き渡し、舌は欺きを仕組んでいる」(16~19節)。お題目として神さまの命令を守っても、そこに込められた神の愛に気づかなければ、結局は生き方が神さまを裏切ることになってしまいます。
神さまは私たちを愛しているから、私たちも神さまを愛することを喜んでくださいます。神さまが私たちに求めておられるのは、愛することです。考えてみれば「苦難の日には、私に呼びかけよ」と神さまが言ってくださること、苦難の日に呼びかけることをいけにえや犠牲よりも喜んでくださること、それは驚くべき神さまの愛ではないでしょうか。私たちはその愛に応えて、神さまを信頼して呼びかけて良い。

「感謝をいけにえとする者は私を崇める。
道をただす人に私は神の救いを示そう」(23節)。

今日一日の私たちの歩みが神さまを崇めるものでありますように。神さまへの愛を示すものでありますように。神の愛に満ちた祝福があなたにありますように。

2021年2月11日木曜日

2021年2月11日(詩編49)

詩編49
しかし神は私の魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。
人に富が増し、その家に栄誉が加わるときも
あなたは恐れるな。
死に際して、携えて行けるものは何もなく
栄誉がその後を追って下ることもない。(16~18節)

この詩編には徹底したリアリズムがあると思います。例え人が富を手にしたとしても、その家名がどんなに誉れを受けようとも、死を前にしては無力です。富や名誉によっても自分を守ることのできないような理不尽な不幸もあります。更にこの詩編の祈りを祈っている作者自身も、神に従っているけど不幸な目に遭っています。「災いの日に、なぜ恐れることがあろうか。私を追う者の悪に取り囲まれるとも」(6節)というのは、逆説的に、今自分は災いに遭い、自分を追う者の悪に取り囲まれているということになります。
この世にはたくさんの不条理があります。神に従っていても背いていても不幸になります。ことに理不尽なのは、神に逆らう者が栄え、従う者が不幸であることです。確かにこの詩編作者は自分の周りを取り囲む悪い者たちの富や結局は彼らを守らないと言ってはいますが、現に目に見えるところでは、彼らはその富のために喜び楽しみ、方や自分は彼らのために不幸に追い落とされているということなのだろうと思います。本当に不条理です。そして、私たちにも私たちなりによく分かる言葉です。だからこそ、この言葉が輝きを増します。

しかし神は私の魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。(16節)

どんなに金持ちでも人からちやほやされていても、どうにもすることのできない問題である死。そこでこそ、神さまは私を救ってくださっている。それがこの詩編の確信です。
この世界は不条理です。悪い者が栄え、神に従う者はますます卑小にさせられます。しかし神さまは、死といういちばんの不条理から私たちを救うために、この世の不条理のすべてを引き受けたキリストを十字架にかけてしまわれたのです。陰府の底に沈む私たちの手を取るために、キリストは十字架の上で死なれたのです。

2021年2月10日水曜日

2021年2月10日(詩編47〜48)

詩編47~48
すべての民よ、手を打ち鳴らせ。
喜びの歌声で、神に歓呼の叫びを上げよ。(47:2)
神は喜びの叫びの中を上られる。
主が角笛の音の中を上られる。
ほめ歌え、神をほめ歌え。(47:6~7)

全地に君臨する偉大な王である神に向かう賛美の歌です。手を打ち鳴らし、神に向かって歓呼の声を上げようと呼びかけています。
今は緊急事態宣言下で、その前からではありますが、礼拝を短くし、讃美歌の曲数も歌う節数も短縮しています。皆でマスクを外して思いっきり讃美歌を歌える日がとても待ち遠しいです。まだしばらくはかかるでしょうが、その日はいつか来ると信じています。何よりも私たちの神に賛美を献げる心に変わりはありません。私たちは心から神を賛美し、歓呼の声を上げます。それが例え今小さな声にせざるを得ないとしても、私たちの神を賛美する思いは何一つ変わらることはないのです。
「まことに神は全地の王。ほめ歌え、優れた歌を」(8節)。キリストをほめたたえ、この方こそ全地の王と賛美すると、私たちはその賛美の歌から教えられて、キリストこそ王という信仰を新しくされます。そうすると、私を支配しているのはコロナでも世間の空気でも権力でもなくキリストであることに気づくことができます。賛美は私たちの貴い賜物です。

シオンの周りをひと巡りし
やぐらを数え
城壁に心を向け、城郭に分け入ってみよ
後の世に語り伝えるために。
この方こそ神、代々とこしえに我らの神。
神は、死を越えて、私たちを導かれる。(48:13~15)

後の世のことを語ります。次の世代に告げ知らせるべきは、我らの神こそ代々とこしえの神だということです。私たちはこの信仰を次の世に伝えるために、そのバトンを今受け継いでいます。この方は、死を越えて私たちを導いてくださる。
とても刹那的な世の中です。だからこそ、死を越えた価値を知っていること、次の世代に手渡すべき良き知らせを持っていることはますます尊いと私は信じています。神さまの御業を私たちが深く知り、私たちを祝福して止まない神さまを賛美する素晴らしさに生きる喜びを喜び続けるならば、必ず、これから私たちの教会に来る人々もここで神と出会うことができるはずです。

2021年2月9日火曜日

2021年2月9日(詩編46)

詩編46
「静まれ、私こそが神であると知れ。
国々に崇められ、全地において崇められる。」

私たちには心が騒ぎ立つことが度々起こります。穏やかでいられないとき、恐ろしくなってしまうとき、不安で仕方なくなってしまうことがあります。そんな私たちに、神さまがおっしゃいます。「静まれ、私こそが神であると知れ」と。
この詩編の冒頭を見るとこのようなことが書かれています。

神は我らの逃れ場、我らの力。
苦難の時の傍らの助け。
それゆえ私たちは恐れない
地が揺らぎ
山々が崩れ落ち、海の中に移るとも。
その水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶる様に山々が震えるとも。(3~5節)

例え地が揺らぐときにも、山々が海の中に移るときにも、神が私の逃れ場、私の力。そのように宣言します。主イエスさまのお言葉を思います。ガリラヤ湖で船の上にいた弟子たち。主イエスは舟の艫の方で枕をして寝ておられた。舟は激しい突風のために水浸しになっていました。弟子たちはイエスを起こし、私たちが溺れても構わないのですかと訴えます。するとイエスは風を叱って言われたのです。「黙れ、静まれ」と。(マルコ4:35~41)。本当は、寝ていたのは弟子たちの信仰です。イエスがそこにおられることを見失っていた。「黙れ、静まれ」という言葉は風や波を静める言葉でもありますが、騒ぎ立つ弟子たちの心を静める言葉でもあります。
私たちの乗る船を襲う波や風、あるいは絶対に変わることはないと思い込んでいた大地が揺らぎ、しかも主イエスは眠りこけていて祈っても答えが聞こえてこないというとき、神さまは私たちを見捨ててしまったのでしょうか?
神さまは「静まれ。私こそが神であると知れ」と言われます。私たちを襲う嵐よりも、揺らぐ大地よりも確かなのは、神さまであり、キリストです。このお方は眠っているのではないか、私の祈りなんて聞いていないのではないか、そのようなことは思い込みに過ぎません。勘違いです。目を覚ましましょう。キリストはこの舟におられます。「静まれ」と言ってくださるのです。私たちの今日一日の歩みにも、この御声が響いています。

2021年2月8日月曜日

2021年2月8日(詩編45f)

詩編45
私の心に沸き立つ美しい言葉
私の詩を王のために歌おう。
私の舌は巧みに物書く人の筆。
あなたは人の子の誰よりも美しく
その唇は優雅に語り出す。
それゆえ神はあなたととこしえに祝福された。(2~3節)

王のために献げられた美しい言葉、詩、賛歌。私たちはこの詩編を、私たちのまことの王であるキリストへの賛美の言葉として心を合わせます。私はこの「美しい言葉」という言葉がとても好いな、と思いました。私たちは美しい言葉を口にしているのでしょうか。私たちの口に上る言葉は麗しい言葉でしょうか。汚い言葉、本来なら人前でははばかるべき言葉を舌に載せてはいないだろうか。そのようなことを考え、わが身を振り返らないわけには生きません。神さま、私の言葉を美しい言葉にならせてくてださいと祈りつつ、この詩編の言葉に自分の口を合わせて、その美しい言葉をキリストに献げたいと願います。

あなたは義を愛し、悪を憎む。
それゆえ、神、あなたの神は
  あなたに喜びの油を注がれた
  あなたを仲間から選び出して。

「キリスト」という言葉は「油を注がれた者」という意味です。油を注がれるというのは、神さまに聖別されて特別な使命を頂くことを象徴します。ナザレのイエス。この方が神に喜びの油を注がれ、私たちの救い主として生き、そして死んでいかれた。
「あなたの仲間から選び出して」とも言っています。イエスは私たちの仲間になってくださいました。私たちと同じ悲しみを知り、私たちと同じ疲れを知り、私たちよりもなお深くそれらを味わい尽くしました。それだけではなく、義を愛し、悪を憎み、神さまの御前にまっすぐに生きぬいたのです。キリストのお姿の何と麗しいことでしょうか。
今日、私たちの心の内に、キリストを愛する愛がますます豊かにされますように。私たちの口に神が美しい言葉を授け、私たちがそれをキリストに献げることができますように。キリストに賛美を献げる私たちの一日でありますように。

2021年2月7日日曜日

2021年2月7日(詩編44)

詩編44
神よ、この耳で私たちは聞きました。
先祖が私たちに語り伝えたことを
先祖の時代、いにしえの日々に
  あなたのなされた業について。(2節)
彼らは自分の剣によって土地を得たのでも
自分の腕で勝利を得たのでもありません。
あなたの右の手、あなたの腕、
あなたの顔の光によるものでした。
あなたが彼らを望まれたのです。(4節)

旧約聖書のイスラエルの人々を「神の民」と呼ぶことがあります。神さまを信じる者たちが一つの民を形成する。単に一人で勝手に、個人的な心の問題として信じているということ以上の出来事です。民である以上、自分の世代だけの話ではなくなります。前の世代があり、後の世代がある。そこでは記憶が継承されます。民の歴史を自分自身の歴史として継承します。
「神よ、この耳で私たちは聞きました。先祖が私たちに語り伝えたことを」と言っていますが、まさにここで記憶の継承が起こっています。そこで継承されている記憶というのは、「あなたのなされた業について」です。神さまが私たちの民にどのように振る舞い、何をしてこられたのか。そのことを民の記憶として受け継ぎ、私もそれ受け取っている。
神さまは私たちの先祖に何をしてこられたのか。「彼らは自分の剣によって土地を得たのでも、自分の腕で勝利を得たのでもありません。」私たちの先祖は非力だった。無力だった。今私たちが行きいているこの地を自分の力で獲得したのではなかった。「あなたの右の手、あなたの腕、あなたの顔の光」がすべてを与えてくださった。だから、自分が受け継ぐ民の記憶、それは神さまの憐れみと恩寵の記憶です。
しかし、目の前の現実がその記憶と矛盾することは往々にして起こります。だからこそ、私たちは信じるのです。誰の目にも明らかなことなど、信じるという名には値しません。目の前の現実が民の記憶と矛盾する混沌であるからこそ、私たちは忍耐して待ち望むのです。
私たちは祈ります。「立ち上がり、私たちを助けてください。あなたの慈しみのゆえに私たちを贖ってください」と。私たちも記憶の民の一員として、神さまの慈しみを次の世代に語り伝えていくのです。

2021年2月6日土曜日

2021年2月6日(詩編42〜43)

詩編42~43
鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように
神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。
神に、生ける神に私の魂は渇く。
いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。
昼も夜も、私は涙を食物とする。
人は日夜私に言う。
「あなたの神はどこにいるのか」と。
私は祭りに集う人の群れと共に進み
喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。
それらを思い起こして、私の魂を注ぎ出す。(2~5節)

上に引用した詩編42の冒頭部分の最後のところ、5節ですが、ここを私は去年教会堂での礼拝を停止していた時期によく思い出しました。ここで言っている「祭り」は明らかに礼拝のことです。神の御前に喜びと感謝を献げる。しかも独りぼっちではなく、共に神を信じる仲間たちと。神の家へ上り、礼拝を献げた営み。しかしそれは「今」のことではなく記憶の中のことであり、今はそれを思い起こしながら自分の魂を注ぎだしているのです。詩編作者の深い悲しみを読み取ることができるし、今私たちにはその気持ちがよく分かります。
渇ききった魂。荒れ地のように渇き、ひび割れ、カサカサになっている魂が神をしたい求めている。鹿が谷底に僅かに流れる水をあえぎ求めるように。神さまの御前に出ていきたい、祈りをし、共に神を信じる者たちと一緒に神さまを仰ぎたい。しかし、昼も夜も、涙を食物とするような悲しみの日々の終わりが見えない。
神はどこにおられるのか。人に何かを言われずとも、私たち自身が何度も、繰り返し問い続けていることです。私がこんなに悲しんでいるとき、神さまは一体どこで何をしておられるのか。
私の義理の父はこの詩編の讃美歌がとても好きで、自分の葬式の時にはこれを歌ってほしいとよく言っています。「お前の神はどこにいる」というところが好きなのだそうです。世間の厳しい現実の中で神を信じて生きることは並大抵のことではなかったのだろうなと、私はその言葉を聞く度に思います。
私たちの救いは、この詩編が言うとおりに神さまの御顔を仰ぐことです。「私はなお、神をほめたたえる、『御顔こそ、わが救い』と」(43:5)。そして、神さまは私たちに顔を向けてくださっています。私たちが例え神さまの御顔を見失っていたとしても。私たちが悲しみのあまりに自分に拘泥しているときにも。それでも私に御顔を向けてくださっている憐れみ深い神こそが私の救い。この詩編と共に、私たちはそのように祈ります。

2021年2月5日金曜日

2021年2月5日(詩編41)

詩編41
幸いな者、弱い者を思いやる人は。
災いの日に、主はその人を救い出してくださる。
主が守り、生かし、彼はその地で幸いな人と呼ばれる。
その人を敵の思いのままにさせないでください。
主は彼が病の床にあっても支えてくださる。
その人が病気のとき
あなたはその床を新たに変えてくださる。(2~4節)

この詩編がとてもユニークだと思うのは、これが病んでいる人の祈りの言葉であることです。どこかの偉い先生が、弱い者、病の人を思いやる人は幸いだよと教えているのではありません。病のために弱っている人自身が、弱い者を思いやる人は幸いだ、と言っています。
病を煩うと、それまでは当たり前だったことが実は当たり前でなかったということに気づきます。特に人間関係が変わってしまうことは多い。自分のことを気に掛けてくれていると思っていた人が実はそうではなかったということも時にはあります。「見舞いに来ても、その者の心は空しいことを語り、悪事を集め、外に出ては言いふらす」(7節)。善意の顔をしてやってきても、結局は自分を噂の種としか思っていない。そういう下心が透けて見える。そのことにとても苦しみ、また悲しんでいる。さらに、このような言葉まである。「私が信頼していた友さえも、私のパンを食べながら、威張って私を足蹴にします」(10節)。
だからこそ「幸いな者、弱い者を思いやる人は」と言うのです。本当に実感のこもった言葉です。そして、思いやってくれる人のために祈ります。「その人を敵の思いのままにさせないでください」(3節)と。さらに、神さまの守りを語ります。「その人が病気のとき、あなたはその床を新たに変えてくださる」(4節)。
病は自分の心や体に食い込み、痛みを負わせます。しかしそれだけではなく、人間関係にも変化を及ぼし、そのことによって私たちは力づけられもするし、傷つけられもします。しかし根本的には、病は神さまとの関係が問われるときです。「しかし主よ、あなたは私を憐れみ、立ち上がらせてください」(11節)。病の中、しかし「あなたが私を喜びとされていることを」(12節)知るならば、どんな状況でも私たちが失うことのない慰めとなり、支えとなります。神さまの祝福が、今日もあなたにありますように。

2021年2月4日木曜日

2021年2月4日(詩編40)

詩編40
私は耐えて主に望みを置いた。
すると主は私に向かって身を乗り出し
私の叫びを聞いてくださった。
主は私を滅びの穴、泥沼から引き上げて
私の足を岩の上に立たせ歩みを確かなものとし
私の口に新しい歌を
我らの神への賛美を授けてくださった。(2~4節)

「私は耐えて主に望みを置いた。」そのように言います。普段の生活があまりに安心、安全、便利、快適を土台に造り上げられているからか、私は耐えるということがとても不得意です。「私は耐えて主に望みを置いた。」耐えること、待ち望むこと。苦しいことや悲しいことに見舞われているときに神さまを待つ忍耐を重ねる。正直に言って、私にとって簡単なことではありません。
ただし、この詩編は単に「耐えた」といっているわけではありません。闇雲な我慢はあまりにも辛いですし、長続きしません。しかし、そうではなく、「私は耐えて主に望みを置いた」と言っている。望みはある。主に、私の望みを置く。望みがあるから待ち望むし、望みがあるから耐えることができるのです。
何を望んでいるのか。主を待ち望んでいます。だから、とても興味深いことを言います。「すると主は私に向かって身を乗り出し、私の叫びを聞いてくださった。」主なる神様が私に向かって身を乗り出してくださっている。主に望みを置いて耐える者は、知るのです。神さまは私に向かって身を乗り出してくださっていることを。遠くの方でふんぞり返ったり、私のことなんて忘れているのではない。主は身を乗り出して、私の叫びを聞いてくださっている。私の祈りに耳を傾けてくださっている。
主は、私の口に新しい歌を授けてくださいます。新しい歌で私たちは神さまを賛美する。讃美歌を歌いつつ、私たちは主を待ち望んで、この苦難の時を耐えることができる。その意味では、すべては礼拝から始まります。礼拝で神を賛美し、祈り、聖書の御言葉に聞く。そこから始まる私たちの信仰生活は、主を待ち望む、希望に向かう営みなのです。

2021年2月3日水曜日

2021年2月3日(詩編39)

詩編39
主よ、知らせてください、私の終わりを。
私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。
私は知りたい、いかに私がはかないかを。
そうです
あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。
私の寿命など、あなたの前では無に等しい。
確かに立っているようでも
  人間は皆空しい。(5~6節)

この詩編は積みに苦しむ人の祈りの言葉です。特に、自分の口が犯した過ちです。口で罪を犯さないように、善いことも悪いことも何もしゃべらずに沈黙した。しかし、うまくいきませんでした。「私の苦痛は募り、私の内で心が熱くたぎった。私の呻きで火は燃え上がり、私の舌で私は語った」(3~4節) 。結局我慢しようにもすることができず、舌で語りだしたら罪を犯してしまった、ということなのだと思います。
新約聖書でも「舌は制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(ヤコブ3:8)と書かれています。本当によく分かる言葉です。これまでどれほどたくさんの過ちを、舌によって犯してきたことか……。舌を制御したいと何度願い、試みたか。しかし結局失敗に終わってしまう。舌は小さな器官ですが、不義の世界をなしています。
そのような罪に打ち震える者が祈るのです。「主よ、知らせてください、私の終わりを」と。私の人生は短く、儚く、私は本当に無に等しいものに過ぎない。だから、主よ、私の舌が犯してきた罪を見続けることなく私を助けてください、と祈ります。
自分の舌が重ねてきた過ちが本当に重くなるのは、死を迎えるときなのかもしれません。許しを請わなければならない人の何と多いことかと気づくと、絶望するしかありません。神の憐れみを乞うしかありません。「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。私はあなたに身を寄せる者、すべての先祖と同じ宿り人。私から目を離してください。そうすれば、私は安らぎます。私が去って、いなくなる前に。」私たちの罪が必然的に招き寄せた罰に苦しむとき、私たちは神さまに憐れみを求めるより他ないのです。
キリストが十字架にかかったのは、そういう私たちの具体的な罪のためです。舌が生み出す不義の世界は、私たちの存在に深く食い込む罪の実態を現す氷山の一角です。だから、削っても削っても、罪の現実は解決しない。そのような際限のない私たちの罪の現実をすべて赦し、私を新しくしてくださるのは、キリストだけです。「主よ、憐れんでください。」それが私たちの祈りです。

2021年2月2日火曜日

2021年2月2日(詩編38)

詩編38
私は自分の過ちを告げ
罪のためにおびえます。(19節)
主よ、私を見捨てないでください。
わが神よ、私から遠ざからないでください。
急いで私を助けてください。
わが神、わが救いよ。(22~23節)

詩編38は悔い改めの詩篇と呼ばれる七つの詩編のの一つに数えられています。自分の罪に苦しみ、神さまに救いを求める祈りの言葉が重ねられています。「あなたの憤りのために私の肉体に健やかなところはなく、私の罪のために、骨に安らぎはありません」罪は私たちの体や心に食い込み、私たちを蝕み、神の憤りを招いてきた事実は私たちにのしかかります。「私の過ちは頭を越えるほどにもなり、重い荷物のように重くのしかかります」。一体どうしたら、私たちは罪の重荷から自由になれるのでしょうか?
ホーソーンの『緋文字』という小説があります。ヘスターという女性と、彼女と密通した牧師ディムスデールの話です。ヘスターは姦通によって身ごもり、娘を出産します。その罰として姦婦を意味するAの緋文字を服につけさせられました。しかし、その相手が誰なのかは決して口にしなかった。ヘスターは罪を悔いながらも誇りを持って新しい人生を生きていこうとしますが、罪を秘匿しようとしたディムスデールは罪の重荷に耐えきれず、苦しみのために死んでしまったのです。
私たちの罪、過ちは過酷な重荷です。しかし、この詩編はその重荷を負いながら「主よ、私を見捨てないでください。わが神よ、私から遠ざからないでください」と祈ります。私たちを罪の重荷から救ってくださるのは、神さまだからです。神さまに罪を告白して祈り、救いを求める者を、神さまは救ってくださいます。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます」(一ヨハネ1:8~9)。
私たちを救うのは、ただイエス・キリストです。私たちを罪の重荷から自由にし、神さまの御前に、隣人の前に、私たちが生きることができる道を拓いてくださるのです。

2021年2月1日月曜日

2021年2月1日(詩編37)

詩編37
主の前に沈黙し、主を待ち望め。
成功の道を行く者
謀を遂げる者に怒りを燃やすな。
怒りを解き、憤りを捨てよ。
怒りを燃やすな。それはただ悪を行うに至る。
悪をなす者は絶たれ
主に望みを置く人こそが地を受け継ぐ。(7~9節)

この詩編には何度も「悪しき者」という言葉が繰り返されています。悪しき者が自分をひどく苦しめ、そのために今私は嘆き、心は動転している。悪しき者は破滅を語り、策略を練って私を苦しめる。そしてその悪さのために成功を収め、謀を巡らしてうまくやっている。私は神に向かい、悪を避け、善を行いたい。そして苦しんでいます。
しかし、この詩編は、私たちがそれでもなお神の前に静まり、神に祈り、神に助けを求めることの幸いを教えます。「成功の道を行く者、謀を遂げる者に怒りを燃やすな」と言います。もっと価値あることがある。だから悪しき者にこだわらずに、沈黙して主の前に進み出よ、と言うのです。
怒りを燃やすなというのは、悪しき者のことは神さまに任せてしまえということなのだろうと思います。私たちには自分の目から見たら歪んだ生き方をしている人や赦せない人、自分のことを傷つける人や一緒にいるのが辛い人もいるのではないかと思います。ひどく傷つけられることもある。でも、私たちはその人から自由になることができると聖書は言います。神さまに、その人の取り扱いはお任せするのです。
「主に望みを置く人こそが地を受け継ぐ」(11節)と言います。主イエスも、この詩編の言葉を繰り返し耳にし、暗唱しておられたに違いないと思います。主イエスご自身の説教の言葉にこの詩編も影響を及ぼしていたのではないかと思います。主は言われます。「へりくだった人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」へりくだったという言葉は、新共同訳では「柔和な」でした。私たちがへりくだり、柔和でいられるのは、主に望みを置くからです。主が私の人間関係の苦しみからも解放してくださる。主が救ってくださる。その事実から、私たちのへりくだりが、柔和が始まります。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...