2020年1月31日金曜日

2020年1月31日(マタイによる福音書24:1~28)

マタイによる福音書24:1~28;
「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちが、ひそかに御もとに来て言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたがた来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。」
ここから、世の終わりについて語る言葉が続きます。読むと恐ろしいような言葉が続きますし、書いてあることが少し抽象的なので、好きなように解釈してしまいがちです。実際、これまであらゆる我田引水な解釈が横行し、それこそ「私がメシアだ」と名乗る人が大勢出てきました。世にあるキリスト教系カルトの多くは、こういう聖書の言葉や、あるいはヨハネの黙示録などを好き勝手に読んできたところがあると思います。しかし、主イエスは、そういう偽メシアは必ず現れるが、慌てないように注意しなさい、と言われます。あるいは戦争や戦争の噂も必ず起こる。ほかの災難も必ず襲ってくる。しかし、それが世の終わりの徴ではない、と言われます。「世の終わり」というのは、私たちの手には余ります。神様がお決めになることですから、それがいつかと騙る者は偽り者ではないでしょうか。
ただ一つ明らかなことは、必ず苦しみの時が来る、ということです。何よりも、マタイは、今自分たちの目の前にある事件に巻き込まれながら、この主イエスの言葉を語り直していました。「預言者ダニエルの語った荒廃をもたらす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たらーー読者は悟れーー、その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」ここで「読者は悟れ」と言っているのは、主イエスご自身の言葉ではなく、それを引用するマタイの注釈です。この福音書を読んでいる人には主が何のことを言っているのか分かるだろう、と言います。マタイが福音書を書いた時代は、実際にローマ帝国に神殿が破壊され、ユダヤは再び崩壊していました。マタイは、実際に、そういう苦しみの時代に主イエスの言葉を語り伝えました。
そのような事件は、それ以来2000年間、絶えず繰り返されました。数え切れないほど無数の偽メシアが現れました。その間、歴史のキリスト者たちは、主イエスの言葉を思い起こしながら生きてきました。この苦しみの時代に、主イエスは私たちと必ず共に歩んでいてくださると信じて。今は「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」時代です。だからこそ、キリストを待ち望んで、私たちは今日という日を生きていきます。そうです。終わりの日というのは、キリストが私たちこの世界を滅ぼすためではなく、救うために来てくださる日です。この世界で苦しむすべての者への神の愛をキリストが完成してくださる。その日を待ち望み、私たちは今日の日を生きていきます。

2020年1月30日木曜日

2020年1月30日(マタイによる福音書23:23~39)

マタイによる福音書23:23~39;
昨日のところから、何度も主イエスは繰り返して「災いあれ」と言っておられます。この言葉は原文のギリシア語では「ウーアイ」という音です。訳すとすれば「災いあれ」とか「深い悲嘆」といった意味ですが、「ウーアイ」という音を聞いても分かるとおり、これはうめき声です。「ああ、律法学者やファリサイ派の人々よ!」主イエスは呻きながら呼びかけています。
なぜ、深い悲しみを持って呻き、呼びかけているのか。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前たちを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」主イエスの呻き、悲しみは、まさにめんどりが雛を自分の羽の下に集めてあらゆる災いから守るようなものです。「だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」キリストは何度も罪から立ち帰らせようとして私たちに呼びかけてきたが、私たちがそれを拒んできた。主はそう言われます。
神の裁きというと、天変地異とか病気とか、そういう何か超自然的な災いのようなものを考えてしまいます。しかし、神の裁きの中には私たちの欲望をそのまま放っておく、という裁きもあるのではないかと思います。止められることなく放っておかれては、満足することを知らない貪欲、下らないものを獲得しないといけないという焦燥感のような消費主義、自分よりも幸福なものを許すことのできない嫉妬のために、私たちは滅ぶしかありません。私たちが罪の中にいたままなのは、ウーアイと呻くべき不幸です。
しかし主イエスは、続けてこう言われます。「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うまで、今から後、決して私を見ることはない。」この「主の名によって来られる方に、祝福があるように」というのは、エルサレム入城の時の人々の歓呼です。私たちの救いは、主イエスをお迎えすることにあります。私たちが、私たちの欲望に溺れるのを放ってはおかずに、ウーアイと呻きながら私たちをご自分の羽の下に集めてくださいます。主イエスが十字架に向かって行かれたのは、そのためです。私たちは、私たちのために嘆き、呻く方のその苦しみによって救われました。ただただキリストを見上げます。

2020年1月29日水曜日

2020年1月29日(マタイによる福音書23:1~22)

マタイによる福音書23:1~22;
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座についている」と言って、話が始まっています。モーセの座というのは、旧約聖書に記された律法のことでしょう。彼らが教えていることは聖書に書かれた律法であって、言っていること自体が間違っているわけではない。「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで実行しないからである。」言っていることは正しいが、行いは間違っている。彼らは自分たちが教えている律法に実際には生きていないし、生きようともしていない。主イエスはそのように言われます。主イエスは、教える者たちの偽善を指摘し、糾弾しています。
いくつもの指摘が続いていますが、この言葉は端的に言い表されていると思います。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがは、改宗者を一人つくろうとして、海や陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分よりも倍も悪いゲヘナの子にしてしまう。」ある人が神様を信じ、信仰生活を始める。すると、新しい信仰の生活のモデルが必要です。偽善者たちは口ばかりで実際に律法に従って生きようとはしない。それが悪いモデルになって、信仰なんてどうせこの程度のものかと改宗者は見下げて結局ゲヘナの子になってしまう、と言っておられるのでしょう。
主イエスの指摘は、本当に厳しいです。私たちが何を言っているのかではなく、どう生きているのかを問題にしておられる。だから、ごまかしがききません。先日亡くなった、医師の中村哲先生のお別れの会のことが新聞に載っていました。お子さんがインタビューに答えて、父は言葉ではなく行動を信じるといつも言っていたという趣旨のことをおっしゃっていました。この一人の存在も、私たちに、主イエスと同じ問いを投げかけているのだと思います。
私たちは、キリストを信じてどのように生きているのでしょう。私たちが信じているのは、キリストが命を献げてくださったという高価な恵みによる救いです。私たちの変革を呼び覚まします。私たちは弱いですし、中村先生のような方に触れると、ああはできないと思ってしまいます。キリストが、この私の内に生きてくださって、この私の手や足をご自身の御業のために用いてくださいますようにと祈るよりほかありません。キリストは、求める者に必ず聖霊を与えると約束してくださいました。そのための祈りを献げて、今日一日を始めましょう。「造り主なる聖霊よ、私たちの心に訪れ、あなたの造られた魂を高き恵みによって満たしてください!」

2020年1月28日火曜日

2020年1月28日(マタイによる福音書22)

マタイに夜福音書22;
「祝宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい。」それで、その僕たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めたので、祝宴は客でいっぱいになった。王が入ってきて客を見回すと、そこに礼服を着ていない者が一人いた。王は、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と言った。(8~12節)
「祝宴」というのは、この王の息子である王子の結婚の宴会のことです。招いておいた客は誰も出席しませんでした。それで、王は「四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい」と僕たちに命じたのです。考えてみれば、異常な命令です。私たちの誰が自分や自分の子どもの結婚式の客が少なくなってしまうからといって、通りを歩いている知らない人を披露宴に招くでしょうか。
しかし明らかに、これは旧約以来の神と民との関係を示しています。預言者たちを無視し、あるいは酷い目に遭わせて殺してきた民の罪を指摘しています。だから四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい。そうやって、今や異邦人が天の国に招かれているのだ、と主イエスは言われます。
そこでの招きは「見かけた者は誰でも」という招きです。だから、僕が「見かけた人は善人も悪人も皆集め」ました。神様の招きは、善人か悪人かは関係がないのです。ただ一つ条件があります。礼服を着ることです。礼服を着てこなかった人にだけ、王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と問いました。どうしてなのでしょうか。礼服とは何のことなのでしょうか。ここでの「礼服」という言葉には、丁寧に「結婚の服」と「結婚」という言葉が添えられています。「宴会」という言葉にも、いちいち「結婚の宴」と「結婚」という言葉が添えられています。王が言っていることは、一般的なパーティーの礼儀の話ではなく、結婚には結婚にふさわしい装いがある、ということです。そしてこれは天の国の譬えなので、天の国は結婚の宴にふさわしい装いで臨むべきだ、と言っていることになります。
その天の国にふさわしい装いとは何かということが、15節以下で語られている。ここには主イエスの言葉尻を捕らえようとして、税金のことや復活のことについて、神様の思いを無視した表面的な言葉の奴隷になっている人が登場します。これらのことの中で大切な神様の思いというのは、37から39節で言われているとおり、神様を愛することと隣人を自分自身のように愛することです。愛の掟に、神様の御思いが込められている。これが、神様が私たちに求めておられる天の国の装いなのではないでしょうか。神を愛し、隣人を愛することです。しかしこの愛の衣装すらも、本当は私たちが自前で用意しているわけではなく、主イエス・キリストご自身が私たちのための愛の装いとなってくださる。私たちはキリストを着ます。私たちも、天の国の宴に招かれています。

2020年1月27日月曜日

2020年1月27日(マタイによる福音書21:23~46)

マタイによる福音書21:23~46;
主イエスのぶどう園と農夫のたとえ話。ある家の主人が造ったぶどう園には、搾り場も見張りのやぐらも備えられていました。ところが、収穫の時期に主人が僕を送っても、農夫たちはその僕たちを次々に袋叩きにし、石で打ち殺してしまいました。最後に主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、自分の息子を送ります。しかし、農夫たちは「これは跡取りだ。さあ、殺して、その財産を手に入れよう」と言って、息子を殺してしまった。そういう話です。
主イエスは、明らかにこれから自分が歩んでいかれる道をしっかりと見据えた上で、この譬えを話しておられます。旧約の時代から神に遣わされてきた預言者たち。彼らは多くが殺されたり、ひどい目に遭わされたりしてきました。そして、最後に遣わされた神の子、イエスは、誰よりも酷い目に遭わされ、殺されました。この世界というぶどう園の主人である神の子として、主イエスは殺されました。この世界の農夫である私たちの手にかかって。
主イエスが神殿で教えておられたとき、祭司長たちや民の長老たちは言いました。「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか。」主イエスはこの問いに直接には答えておられません。それでは、主イエスの権威とは一体どこから来たのでしょうか。
それが、最初に見たたとえ話なのだと思います。主イエスは、神の子としての権威を持って教えておられた。しかしその権威は、力を振るって人を脅したり、酷い目に遭わせたりする権威ではなく、却って脅され、酷い目に遭わされ、殺されるところで発揮された権威です。神の子としてのキリストの権威は、ほかのどこでもなく十字架の上で顕されました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」
私たちは、キリストという石を捨ててしまった。神を捨ててしまった。しかし、その石は、不思議なことに親石になりました。この石に組み合わされて、建物が建てられていく。「これは主がなさったことで、私たちの目には不思議なこと。」神様は、私たちが殺した神の子を私たちのための救いの親石にしてくださったのです。

2020年1月26日日曜日

2020年1月26日(マタイによる福音書21:1~22)

マタイによる福音書21:1~22;
エルサレムに入城した主イエスに、人々は「ダビデの子にホサナ」と叫び、喜んでお迎えしました。、まず、群衆です。「大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。』」ホサナというのは、「救ってください」という意味の言葉です。ダビデの子と呼びかけていますが、救い主メシアはダビデの家から生まれると預言されていましたので、イエスを神が遣わしてくださった救い主と信じ、「救ってください」と言っていることになります。
しかも、この時主イエスは子ろばに乗っておられた。マタイは、そのお姿は預言者の言葉が実現するためであったと言って、旧約聖書の言葉を引用しています。「見よ、あなたの王があなたのところに来る。へりくだって、ろばに乗り、・・・」。主イエスのエルサレム入城はへりくだった王としての入城です。このへりくだるろばに乗った王を救い主として迎え、救ってくださいと叫んだのです。
そして、もう一つの声が「ダビデの子にホサナ」と叫びました。それは子どもたちです。神殿の境内にいた子どもたちも、主イエスに向かって「ダビデの子にホサナ」と叫んでいました。その姿を見て祭司長や律法学者が腹を立てるほどに。
私は、主イエス様に向かって「救ってください」と叫ぶ声が、ただ大人たちだけではなく子どもの口にも上ったことに大きな魅力を感じます。主イエスは私たちを神の子として迎えるために来てくださった。すなわち、神の子にしてくださったということが、主が与えた私たちのための救いなのではないでしょうか。
息子が動物が大好きなので、ときどき動物を見に行きます。なかでもろばを見ると、ほかの動物とは違う感情が動きます。主イエス様をその背に乗せたろばは、何と幸せなことでしょうか。私たちを救ってくださる方、私たちを神の子としてくださるお方、主イエス・キリストをお乗せしたろば。さいわいな動物です。私たちも、私たちの上着を主の前に敷いて、主を礼拝したい。神の子どもたちとして!そのために、この主の日を献げて、御前に進み出たい。そう願います。

2020年1月25日土曜日

2020年1月25日(マタイによる福音書20)

マタイによる福音書20;
「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
主イエスがこのようにご自分の十字架と復活について弟子たちに予告したのは、もうこれで三度目です。それぞれの前後関係を振り返ってみると、三度とも同じモチーフが登場していることに気づきます。
今回の三度目では、主イエスが十字架と復活の話をしたすぐ後に、ヤコブとヨハネの母が息子たちを引き連れてイエスのもとにやって来て言います。「私の二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください」と。主イエスはこの願いについて、最後に「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり・・・」と指摘しています。偉くなりたい、という弟子たちの欲望の話です。主はこうも問いました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。私が飲もうとしている杯を飲むことができるか。」主イエスは十字架の話をしていますが、ヤコブとヨハネと母にはそのことが分かりませんでした。主イエスにとってご自分の右と左に座るとは、イエスと共に十字架につけられるということに他ならないのです。
二度目の十字架と復活の話の後には、弟子たちは「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と主イエスに尋ねています。ここでもやはり偉さの論争が起こっている。それに対して主イエスは「自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ」と答えます。そして、初めての十字架と復活の予告の時、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。主イエスはペトロに「あなたは私の邪魔をする者だ」言い、さらに弟子たちに「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われました。
こうして見ると、イエスの十字架と復活の予告には、それを打ち消す弟子たちの醜態がセットになっています。偉くなりたい弟子たちの願望と、イエスの十字架は、水と油のような関係です。そして、イエスの十字架を否定すると共に、自分が十字架を負うことも「とんでもないことです」とならざるを得ないのです。それが私たちの実態です。
そんな私たちは、ちょうど、道端に座っていた二人の盲人です。信仰の目が見えていません。しかし、主イエスは「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と訴える者たちを深く憐れみ、その目に触れて見えるようにしてくださいました。この「主よ、私たちを憐れんでください」は、古来悔い改めの祈りの言葉として教会で大切にされてきました。主の十字架を「とんでもない」と言い、自分の十字架を負って主に従おうとしない私たちを憐れみ、罪を赦し、この目が見えるようにしてくださるのは、ただキリストだけなのです。

2020年1月24日金曜日

2020年1月24日(マタイによる福音書19)

マタイによる福音書19;
主イエスを試そうとするファリサイ派の人からの問い、「どんな理由であれ、夫が妻を離縁することは許されているのでしょうか」に対し、主イエスは聖書に立ち戻って答えておられます。「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」と言って、「こういうわけで、人は父母と離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。・・・。」と創世記第2章の言葉を引用なさいます。しかし、ファリサイ派の人はイエスを試そうとして言いがかりをつけているだけなので、今度は彼らも聖書を引き合いに出して、「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離婚するように命じたのですか」と言いました。これは、そのことで悩んでいたとか傷ついていたとかそういう問いではなく、試すための問いであり、質問のための質問であったことは明らかです。彼らは聖書を読んで聖書から導いた言葉を語っているかのように装っていますが、客観的に見れば、その心が聖書から離れていたことは明白ではないでしょうか。
こういう聖書の読み方は、誰もがついついしてしまうことなのではないか、と思います。自分を正当化するため、他人を否定するため、安心材料にするため。そういうことのために、聖書を材料にしてしまう。そこにあるのは、ただただ「自分」だけであって、神様も隣人も消し去られているのではないかと思います。先の問いで考えれば、夫婦生活に実際に苦しんでいる隣人や、男や女に代表される異なる他者と共に生きるように私たちを作られた神様の御思いなどは、自分の言いたいことの材料にするための聖書には、消えてしまっているのではないでしょうか。
続く子どもへの主イエスの祝福と金持ちの人の出来事は、そのことを私たちに伝えているように思います。主イエスはご自分のもとに連れてこられた子どもたちを御覧になって「天の国はこのような者たちのものである」と言われました。それに続けて、すぐに、金持ちの人が登場します。彼は小さな頃から旧約の律法をキチンと守って生きてきました。完璧な生き方をしてきた。彼に対し、主イエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」と言われます。その人はそれを聞いて立ち去り、弟子たちは戸惑います。「それでは、誰が救われることができるだろう」と。主イエスはそれを聞いて言われます。「それは人にはできないが、神には何でもできる。」
子どもたちは無力です。今でもそうですが、この時代はさらにそうでしょう。人間の一人としてカウントされていませんでした。しかし、天の国はその無力な子どもたちのものです。金持ちのあの人は、財産というこの世での「祝福」を受け、律法もしっかり守って生きてきました。自分の力に頼ろうと思えば、いくらでも頼れました。だから、完璧になりたかった。主イエスは、自分の力ではなくて神の力に頼り切ってごらんと言われます。
自分の力が大きくなると(そういう自覚が強くなるほどに)、私たちの世界からは他人が消えます。自分のための隣人愛になってしまいます。しかし主イエスはそうではありませんでした。全財産どころかご自分の命まで私たちに下さいました。このお方に、私たちの言い分や願望の代弁者ではなく、神様の御言葉である聖書のメッセージがあますところなく現れているのです。

2020年1月23日木曜日

箴言14:26〜35「造り主を尊び、隣人と共に生きる」

「弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。」隣人、しかも弱く、乏しい隣人との関わり方が造り主なる神様との関わりに直結している。信仰は抽象的な世界の話ではない。神が造ったこの世界で、わたし自身も造られた者として、共に造られた隣人との共同生活において信じる、ということだ。造り主の働きをそこに見るというのは、すべては良きことだという信頼でもある。与えられたものを分け合う恵みである。

2020年1月23日(マタイによる福音書18)

マタイによる福音書18;
弟子たちから「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と問うてきた弟子たちに対して、主イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて言われます。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」
弟子たちが主イエスに問うた「偉い」というのは「大きい」ということです。「偉い」と理解すれば人から褒められたい、尊敬されたい、一目置かれたいということでしょうし、「大きい」と理解すれば力がある、好きなように振る舞える、支配できる、ということになると思います。どちらも表裏一体ですから、切り分ける必要はないのかもしれませんが。いずれにしても、弟子たちは天の国でそのような存在になりたくて、主イエスに尋ねました。「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか。」
主イエスの答えは意外です。一人の子どもを立たせて、心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。天の国でいちばん偉い人、大きい人は誰かときいたのに、この子どものようにならなければそもそも天の国には入れないと言われます。さらに、この子どものように、自分を低くするものが、天の国ではいちばん偉いと言うのです。弟子たちは自分を低くしたいのではなくて、偉くなりたかった。主イエスの答えは、私たちに価値の転換を迫ります。
そのさらに具体的な現れが、続く言葉です。「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れるものは、私を受け入れるのである。」このような子どもの一人とは、何を意味しているのか。この第18章を続けて読むと、明らかです。6節には「これらの小さな者の一人」とあり、10節にも「これらの小さな者」と言って、迷い出た一匹の羊の話をします。さらに、15節以下では、あなたに対して罪を犯したきょうだい。そして21節以下でも、同じく、自分に100デナリオン借りていて返してくれない仲間です。ここに出て来る子どもや小さな者、迷い出た羊、罪人、借財人は、同じことを指しているのでしょう。すなわち、自分に不義を働く受け入れがたい存在です。主イエスの名のためにそのような一人の人を受け入れる。それが、天の国で求められるへりくだりだと主イエスは言われます。
このへりくだりは、最後のたとえ話で言われているとおり、自分が一万タラントンという莫大な借りを神から赦して頂いたという事実からしか始まりません。私たちは、赦された罪人です。赦されたということが私たちのすべてです。だから、天の国での大きさは、神と隣人の前でのへりくだりによって測られます。

2020年1月22日水曜日

2020年1月22日(マタイによる福音書17)

マタイによる福音書17;
「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」
六日の後と始まっています。いつから六日後なのかというと、主イエスが始めて十字架と復活の予告をしてから六日目です。それを聞いたシモン・ペトロは、主を脇に連れ出して「主よ、とんでもないことです」と言って主イエスをいさめ始めた。そして主イエスに「サタン、引き下がれ」と大変厳しく叱られました。それから六日目の出来事です。
その日、主イエスは高い山に登られた。山の上というのは、マタイによる福音書では神との出会いの場所です。第5章では、主イエスが山の上で御言葉を語られました。キリストの弟子として生きる指針を示されました。復活の後、第28章では弟子たちが主イエスに指示された山に登り、そこでイエスに会って「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」という使命を与えられました。どちらも山の上の出来事です。今日の出来事も、山の上で起きたことでした。
主イエスのお姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。復活の時の栄光のお姿を思わせる描写です。そして栄光のお姿の主イエスは、モーセとエリヤと語り合っていた、といいます。モーセは律法の代表者です。エリヤは預言者の代表者です。この当時、「律法と預言者」と言えば、聖書のことを意味していました。聖書の語りかけが指し示すのは、キリストの復活のお姿です。このキリストを指し、雲の中から父なる神様のみ声が聞こえます。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」。私たちは、神様を知るために、復活のキリストのお言葉に耳を傾ければいい、そういうことではないでしょうか。
14節以下では弟子たちが悪霊に取りつかれた子どもを癒やせなかったという話になります。どうして癒やせなかったのでしょうかと問う弟子たちに、主イエスは「信仰が薄いからだ」と言われました。もしもからし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かせるはずだった、と。そして、それに続く22,23節は、主イエスが二度目の十字架と復活の予告をし、弟子たちが心を痛めたという話です。この流れで見てみると、ここで弟子たちに決定的に欠けていた信仰というのは、十字架と復活への信仰であることが分かります。キリストの十字架、そして復活によって救われたことを信じていれば、弟子たちにもあの子を助けることができたということでしょう。私たちキリスト教会が、この時代で語るべき言葉は、やはりキリストの復活のしらせに他ならないということを教えられます。復活のキリストを指して、神は「これに聞け」と言われました。このお方こそ、私たちの救いだからです。

2020年1月21日火曜日

2020年1月21日(マタイによる福音書16)

マタイによる福音書16;
「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」
フィリポ・カイサリアで、主イエスは弟子たちにそう尋ねられました。フィリポ・カイサリアは、「カイサリア」と呼ばれているとおり、ローマ皇帝の支配が色濃い町です。そこにはカエサルの像が据えられていたと言います。カエサルは、自らを神と称して臣民に拝ませていました。神である皇帝は「主」と、あるいは「救い主」呼ばれていました。そのような皇帝の支配の色濃い町で、主イエスは問いかけてきます。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」私たちは、何と答えるのでしょうか。
それに対し、シモン・ペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」私の神は皇帝ではなく、あるいはヘロデ王でも天皇でもありません。私の主、救い主は、この世の権力を持つ何者でもありません。イエスさま、あなたこそ私の主、私の救い主、あなたこそ生ける神の子です。ペトロと共に、私たちもそう答えます。
そこで大切なことは、私たちの救い主は無力にも十字架にかかり、そして三日目に復活する方である、ということです。ペトロはその一点で躓きました。十字架と復活こそ、私たちの躓きの石なのです。それは、十字架と復活が、この世が救いとして提示する魅力的なものとあまりにもかけ離れているからなのではないでしょうか。皇帝の救い、この世の力が見せる救い、富のもたらす救い、それらは皆私たちの願いが実現した先にある救いです。しかし主イエスが神の子として私たちに与えてくださる救いは、自ら無力になり、無残に殺され、私たちの罪を背負わされて罰を受けることによってもたらしてくださる救いです。ペトロでなくとも、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言わないわけにはいかない。
しかし、今朝の第16章は、その始まりからすでに、主イエスが私たちに見せてくださるしるしは復活のしるしだけと言っていました。「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」三日間魚の腹の中にいたヨナのしるし、それは三日目の復活を意味します。主イエスは、十字架と復活によってだけ、ご自分の救い主たることを私たちに示してくださる。
ですから、主イエスが私たちにくださるのは私たちの願望を超えた救いである、ということであるのだと思います。そして、そうであるからこそ、本当に救いなのではないでしょうか。十字架の上で神に見捨てられた死なれた方、その神に墓から引き上げられた方。このお方こそ、私たちのただひとりの救い主、神の子メシアに他なりません。

2020年1月20日月曜日

2020年1月20日(マタイによる福音書15)

マタイによる福音書15;
「こうして、あなたがたは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」主イエスは、そのように厳しく指摘します。実際、どういう神の言葉を無にしているのか。聖書には「父と母を敬え」と命じられています。しかし、「父または母に向かって、『私にお求めのものは、神への供え物なのです』と言う者は、父を敬わなくてもよい」と言っている、というのです。
この戒めに限らず、私たちは聖書を読むとしばしば自分勝手な「例外規定」を決めてしまいます。確かにこの言葉は大切だけれども、いつでもそれを完璧に守られるわけではない。こういう場合には仕方がない。あるいは、表面的にはこう書いてあるけど、本当はこういう意味なのだ、といって割引をしてしまう。主イエスが指摘した例では、本当に大切なことは神を礼拝することであって、そのためならば父母を敬えない場合もあり得る、という例外を造り出す。そうすると、結局、恣意的に例外を引っ張り出してきてもともとの言葉を無効化してしまいます。神様の御心を勝手に忖度して、結局自分のしたいことをする、したくないことはしない。そうすると、自分は変わらないで済んでしまいます。
ですので、私は、主イエスのこの言葉は厳しいと思いました。旧約聖書の言葉を引用しておられます。「この民は、唇で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。空しく私を崇め、人間の戒めを教えとして教えている。」私たちの心の中から溢れてくるものは、悪いものです。「口から出てくるものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒瀆は、心から出て来るからである。これが人を汚す。」
ですので、次に出て来るカナンの女の話は、大変示唆的です。カナンの女(つまり、異邦人の女です)が主イエスに懇願します。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」しかし主イエスはおっしゃいました。「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない。」それに対し、彼女はさらに言います。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」主イエスは聞いて「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言ってくださいました。
彼女は、主イエスの前に出ることのできない自分だとよく知っていました。自分は信じるにも祈るにもふさわしい人間ではない。神様に何かを願えるような私ではない。それでも、そんな汚れた私、心の中から出て来るのはろくでもないものでしかない私を、そのまま主イエスに差し出しました。娘のために。その願いを、主イエスは受け止めてくださいました。
私たちは、主イエスの前に、小犬のような存在なのではないでしょうか。堂々と胸を張って主の前に出られるようなものではない。聖書を読めば言い訳ばかりだったり、何か理屈をこねて神様に従おうともしない。しかし、そんな私を救いうる方がただひとりだけここにいてくださる。だから、一皮むけば汚れたものばかり溢れてくるのだとしても、その私を主にお委ねしましょう。祝福をいただくための熱心を、主イエスは喜んで受け入れてくださいます。--

2020年1月19日日曜日

ルカによる福音書第10章25から37節「ともだち」

 新約聖書に登場するたくさんの単語の中で、私の特に好きな言葉が今朝登場します。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」この「憐れむ」という言葉です。新約聖書が書かれたギリシア語ではスプランクニゾマイという言葉で、直訳すると「腸が動く」といった意味になります。このサマリア人が覚えた憐れみは、単に可哀想に思ったとか気の毒がったとか、そういうことではありません。自分の腸が動いて、痛んで、いてもたってもいられないほどに胸を焦がしたのです。
 新約聖書の中で「スプランクニゾマイ」というこの単語がどういうふうに使われているかを調べると、とても興味深い事が分かります。新約聖書では12回使われていますが、すべて福音書に登場します。イエスがなさった譬え話に登場すれば、神様に譬えられた人の思いとして使用されています。譬え以外では、イエスの思いとして、この単語は使われています。イエスや神が、傷ついた人や悲しむ人、失われた人を見て腸を痛め、憐れみに胸を焦がしている。そういう言葉です。
 今日の話はイエスの譬え話ですが、ここでの「憐れみ」はサマリア人の憐れみです。強盗に襲われて生き倒れている人を見て、腸が動いたのです。イエス・キリストは、このサマリア人のように私たちを憐れみます。私たちを見て、胸を焦がし、いてもたってもいられずに近寄ってきて介抱する。それがイエスの私たちへの態度です。
 この譬え話は、もともと、「隣人を自分のように愛しなさい」という聖書の言葉について、その隣人というのは一体誰のことか、私は誰を愛したらいいのか、という問いへのイエスからの答えとして語られたものです。私の隣人とは誰かと隣人の定義から出発するならば、愛すべき相手の線引きをすることになります。ところがこのサマリア人は、線を引くことなく、ただ憐れみに胸を焦がされて愛しました。行き倒れの人の隣人になりました。憐れみに突き動かされる人は、隣人を定義しません。ただ隣人になるだけです。
 主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われます。同じように私も痛んでいる人や悲しんでいる人の隣人になるには、わたし自身も隣人になってもらったという経験が必要なのではないでしょうか。なぜなら、私たちの愛は、小さくて限られたものに過ぎないからです。際限なく、誰をも愛し、すべての人の隣人になることは、理想ではあっても自分の力ではできません。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」という律法のとおりに生きようとしても、そうではない自分の現実をまざまざと見ざるを得ません。そんな私は、私を見て、憐れに思い、近寄ってきてくれるキリストの愛によらなければ、自分の力でこのような愛に生きることはできません。
 イエス・キリストは、私たちのところへ駈け寄ってきてくださいます。憐れんで、手を当ててくださいます。この愛に満ちた憐れみが、愛に生き得ない私を憐れみの人に変えるのです。

2020年1月19日(マタイによる福音書14)

マタイによる福音書14;
天の国の到来を告知し、しかし故郷で受けいられることのなかった主イエスとは、一体何者なのか?その問いに答えるのが、今朝の箇所であろうと思います。
最初に、ヘロデが登場しています。彼はイエスの噂を聞いて、イエスは洗礼者ヨハネに違いないと言います。おびえています。かつてヘロデはヨハネから罪を指摘されて、それを黙らせるために捕らえて縛り、牢に入れてしまった。すぐに処刑したかったのですが、ヨハネの民衆からの人気を気にして手を下せずにいました。ところがある日、娘のヘロディアからヨハネの首をはねてほしいと言われて、その通りにします。ですから、ヘロデはヨハネの名を恐れたのです。イエスの評判にヨハネの幻影を見て、怖がったのです。
「イエスはこれを聞くと、舟によってそこを去り、独り寂しい所に退かれた。」この「これを聞くと」というのは、ヘロデによるヨハネ処刑のことです。ヨハネが殺害される世界の中を、主イエスは歩んでおられ、独りになろうとしました。祈るためであったのではないかと思います。「しかし、群衆はそれを聞いて、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒やされた。」主は、ヘロデの支配する世界の中で、苦しみ、悲しむ大勢の人々を見て、深い憐れみに胸を焦がされたのです。この世界はヘロデが支配しているかのようですが、しかし、キリストの憐れみが現される世界でもあります。
そこで、主イエスはこの群衆のために、パン五つと魚二匹を持って彼らを養ってくださいました。彼らは食べて満腹し、「余ったパン切れを集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子どもを別にして、男が五千人ほどであった。」5000というのは、「民」を象徴する数だと言われています。12はイスラエルの十二部族。つまり、主イエスはパン五つと魚二匹をもって新しいイスラエル、新しい神の民を生み出しておられる。このヘロデの世界に、キリストの憐れみによる新しい民が生まれます。
キリストによって生み出された新しい民は、湖の上で逆風に悩まされる小さな舟のようなものです。ヘロデの世界を進むので、いつも逆風が吹き荒れています。しかし、その舟にはイエスが歩いて近づいてきてくださっています。ですから、私たちは恐れてはならない。主は舟に乗る弟子たちに向かって「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われます。この「私だ」という言い回しは特別で、神が神として出なければ口にすることのできない表現の仕方です。主イエスは私たちに言われます。「安心しなさい。私だ。お前の神である私だ。だから逆風を恐れるな。私がいる。安心しなさい」と。このお方こそ、私たちを救う神ご自身なのです。

2020年1月18日土曜日

2020年1月18日(マタイによる福音書13:31~58)

マタイによる福音書13:31~58;
「そこで、イエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人に似ている。』」
この章に登場する主イエスのたとえ話は、天の国のたとえ話です。主イエスがその到来を宣言した天の国はどういうものなのか、主イエスがここで私たちに聞かせてくださっています。その最後に、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と問われました。『分かりました』と答えたでしたちに主が言われたのが、冒頭の言葉です。天の国が分かったならば、自分の倉から古い物を取り出して新しい物に取り替えるだろう、と言われるのです。
これは44から50節の短い三つの譬えを受けた話であると思います。畑に隠された宝を見つけた人は、持ち物をすべて売り払ってその畑を買う。商人が高価な真珠を見つければ、持ち物を全部売り払ってそれを手に入れる。海に網を下ろしていろいろな魚が獲れたならば、良いものと悪いものを選別して、いらないものは捨ててしまう。どれも、天の国という良いものを前にすれば、古いもの、これまで持っていたもの、古い自分を捨てるのが当然ではないか、ということではないでしょうか。
この主イエスのたとえ話の一つの具体的な事件が、53から58節の、ナザレでの出来事でした。主イエスは故郷ナザレの人々に受け入れてもらえませんでした。「この人は、このような知恵と力をどこから得たのだろうか。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアと言い、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちも皆、私たちのところにいるではないか。」こうして、故郷の人々はイエスに躓いたのです。なぜなら、これまでの自分のイエスを見る枠組みでしかイエスを見ることができなかったからです。イエスにおいて始まっている天の国を受け入れなかったからです。畑に埋まった宝を見つけたのに、自分がこれまで持っていたものが惜しくて、その宝を見過ごしたのです。
私たちは、主イエスと出会って、これまで自分が培ってきたものや経験、こだわりを手放す準備があるのでしょうか。主が告げてくださった天の国は、宝です。かけがえのない真珠です。何よりもおいしい魚です。私たちを生かす幸いであり、神を信じる喜びです。主イエスは私たちの前で天の門を閉じてしまうためではなく、私たちをすっぽり全部、まるごと天の国に入れるために、私たちのところへ来てくださったのです。

2020年1月17日金曜日

2020年1月17日(マタイによる福音書13:1~30)

マタイによる福音書13:1~30;
「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆が御もとに集まってきたので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて多くのことを語られた。」
主イエスはたとえ話の名人、とよく言われます。確かにその通りです。たくさんのたとえ話をしてくださいました。この章にはイエス様が話してくださったいくつものたとえ話が記録されています。ただ、主イエスの譬えは、その目的をよく考えることが肝要であると思います。普通は何事かを言おうとするとき、言わんとすることを譬えによって話すならば、分かりやすくするために身近なものに置き換えて話します。主イエスの譬えは、確かに身近なもので話しておられます。今日の種まきの話も、主の話を聞いていた群衆の日常の風景であったことでしょう。しかし、この譬えを初めとして、主イエスの譬えは、題材は身近でも話としては分かりやすいわけではありません。(100匹の羊や放蕩息子の話に納得できない人は多い!思えば、奇妙な話です。)主は、分かりやすくするためというのではない目的を持って譬えで話しておられると考える方がよいのだと思います。
「あなたがたには天の国の秘儀を知ることが許されているが、あの人たちには許されていない」と、主は言われます。「持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。」まるで、分からなくするために譬えで話しているのだ、と言っておられるようです。
そう言いながら主がここで話されたのは、四つの種の話。種を蒔く人が蒔いた種が、道端、石だらけの土の少ないところ、茨の上、良い土地に落ちた、という話です。この話の意味は、主ご自身が解説してくださっています。「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。誰でも、御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれた者を奪い取る。・・・。」悪い者にすぐに御言葉の種を奪い取られてしまう人。御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、自分に根がないので、御言葉のための苦難や迫害ですぐに躓いてしまう人。世の思い煩いや富の誘惑に邪魔をされて、御言葉が実らない人。それに対して、良い土地に蒔かれた者とは、御言葉を聞いて悟る人のことだと言います。
最初の三つと最後の良い地の種の対比は、たとえ話を聞いて分かる人と、分からない人との対比そのものです。この場合の「分かる」というのは「知的な理解」という意味では分かりません。主イエスの譬えを聞いて、主イエスの言葉によって自分が変えられることを受け入れるという意味です。御言葉に変革されることを喜んで受け入れるならば、その実りは100倍、60倍、30倍になる。主が「譬え」をお用いになったのは、主がなさる私たちにとっては奇妙な天の国の話を、「分かる」ために主体的に聞いてほしい、という招きなのではないでしょうか。あの良い地に蒔かれた種のように、御言葉を受け入れ、御言葉に変革され、実りを結んでほしい、という主イエスの促しであるのだと思います。そのために、譬えは主体的に聞かなくては「分かる」ことがありません。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」というのは、主イエスの御言葉が作る新しくすばらしい現実(それは罪ある私たちには実にしばしば奇妙に見えます!)への招きです。

2020年1月16日木曜日

箴言14:15~25「識別」

「未熟な者は何事も信じ込む。熟慮ある人は行く道を見分けようとする。知恵ある人は畏れによって悪を避け、愚か者は高慢で自信を持つ。」箴言の言葉はどれも耳が痛いが、これもまた然り。信ずべきものとそうではないもの、行くべき道と踏み込むべきではない道。それらの識別が必要だ。その識別は、畏れを基準とする。畏れることを知らない高慢な自身は身を滅ぼす。これは当然神への畏れであろう。知恵は神が与えてくださるものだ。

2020年1月16日(マタイによる福音書12:22~50)

マタイによる福音書12:22~50;
イエスが悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人を癒やされた。するとそれを見ていたファリサイ派の人々は、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と難癖をつけます。この癒やしの奇跡を見て、人々がイエスのことを「まさか、この人がダビデの子ではあるまいか」と言ったので、それを否定した格好です。ダビデの子、つまり神が遣わしたメシアなどではなく悪霊の手先だ、と断じたのです。
思い返すと、9:27~34で、主イエスはまず二人の盲人を癒やし、その次に口の利けない人を癒やし、それを見ていたファリサイ派の人々から「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言われていました。全く同じモチーフが繰り返されています。この9:27~34と今日の10:22~32の間にあるのが、弟子の招集と派遣です。弟子たちは、キリストと悪霊との戦いが繰り広げられている世界へ遣わされた、ということではないかと思います。
そこでの戦いは、主ご自身も、弟子たちも、天の国の到来を宣べ伝え、そのしるしである癒やしの業を行い、それを見た人々から時に「悪霊の手先だ」と裁かれてしまいます。しかし、それでも主の御業は続きます。「神の国はあなた方のところに来た(28節)」からです。そのしるしとして、キリストは神の力で悪霊を追い出した。キリストは、戦っておられます。
悪霊との戦いについて、エフェソの信徒への手紙にはこのような言葉があります。「さて、あなたがたは、過ちと罪のために死んだ者であって、かつては罪の中で、この世の神ならぬ神に従って歩んでいました。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な子らに今も働く霊に従って歩んでいます。」「最後に、主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身につけなさい。私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです。」この手紙を書いたパウロは、主イエスと同じまなざしで世界を見つめていました。罪の力でこの世界を支配する悪霊のリアリティを見ていました。キリストは、私たちの目を見えなくし、口を閉ざしてしまう悪霊の力から解放するために、私たちをこの世界へと遣わされます。
そこで働く神の力を、悪霊の力(つまりこの世界の罪の力)だと見なして軽んじ、キリストの御支配を退けることは、「(聖)霊に対する冒瀆」であり、「聖霊に言い逆らう」ことだと言われます。神様ご自身の霊が私たちを悪と罪の支配から私たちを解放しようとしてくださっている。だからその神の支配(神の国)を受け入れてほしい、神の国はもう来ているのだから。主イエス・キリストはそのように宣言なさいます。

2020年1月15日水曜日

2020年1月15日(マタイによる福音書12:1~21)

マタイによる福音書12:1~21;
安息日を巡る出来事が二つ続いています。安息日の規定は私たちには少しわかりにくいところがあります。イスラエルに行ったことの人の話を聞くと、安息日になると、町中何もかもがお休みになるそうです。働いてはならない。一定の距離以上は歩けなくなるし、エレベーターのボタンも押してはいけないということで各階止まりになるとも聞きます。安息日の掟は、徹底しているようです。
それは、イスラエルの人々の聖書の民としてのアイデンティティの問題なのだと思います。自分たちは安息日の掟に従って時間を神に献げる。あるいは割礼というしるしを身に帯びている。その他の律法を守って生きている。どれもが神の民としての"しるし"であり、彼らのアイデンティティを支えるものです。
主イエスはそれを犯しました。安息日の掟を破った。最初は、弟子たちです。「その頃、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。」それが大問題になりました。麦泥棒、ということではありません。その場で積んで食べるのは許されています。しかし、麦を摘んで、それを揉んで殻を取り、口に運んで食べる。収穫と脱穀、調理ということでしょう。どれも安息日にしてはならない労働でした。もう一つは、安息日に片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言われ、その手を癒やしてやったのです。治療も、禁じられている。その上、この人をイエスのもとに連れてきてイエスを訴えようと画策した者たちに向かって、「安息日に善いことをするのは赦されている」と言い、彼らの偽善を指摘したのです。イエスの言動は、彼らの激昂を買いました。
主イエスは律法を犯しました。少なくとも、表面的には。しかし明らかに、本当に律法の心にしたがったのは主イエスの方です。主がなさった安息日にした善いことというのは、穴に落ちた羊を、安息日に引き上げやるようなことです。人の命を救うためのことです。主イエスは「公正を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折ることもなく、くすぶる灯心の火を消すこともない」と聖書に書かれているとおりに、傷ついた葦のような者や消えてしまいそうな灯心のような者を優しく包んでくださいました。それが、安息日の掟の本来の精神でした。
法の外に本来の正しさがあるということはままあるのではないでしょうか。映画「万引き家族」などが描いたのは、そういう姿であろうと思います。私たちがまるで法律の奴隷のような有り様になってしまわないために、私たちは主イエス・キリストが示してくださった神の限りない慈しみに、いつも帰りたいと願います。主は、傷ついた葦(それは生産性がない代物です)も、くすぶる灯心(暗くて見えないのでは、灯心の役に立ちません)も、捨ててしまうことのない方です。主イエスは、時には律法を犯してでも、律法という完成された体系の外に踏み出してでも、穴に落ちた羊を求めて、穴の底まで下ってくださるお方です。「異邦人は彼の名に望みをおく。」私たちの望みは、このお方にあります。

2020年1月14日火曜日

2020年1月14日(マタイによる福音書11)

マタイによる福音書11;
「イエスは十二人の弟子に命じ終えると、方々の町で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。」第10章で、主イエスは12人の弟子たちを選んで、汚れた霊に対するご自分の権能を授け、宣教のために派遣なさいました。それに際しての説教がこの章では続いていましたが、今朝の11:1に至って話を終えられた。「そしてイエスは彼らを遣わされた」と続けば自然ですが、ここではそうではありません。主イエスご自身が、方々の町で教えたり宣べ伝えたりするために、そこを立ち去って行かれます。弟子も遣わされたに違いありませんが、主イエス様はそこでじっと待っていたというのではなく、ご自身がさらに宣教の旅へと出て行かれるのです。そこで主がなさったのは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、規定の病を患っている人は清められ、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と言われているとおりのことだったのでしょう。主の業が、そのようにして進んでいます。
そんな主イエスに、洗礼者ヨハネが人を遣わして尋ねさせます。「来たるべき方は、あなたですか。それとも、他の方を待つべきでしょうか。」ヨハネは牢の中にいましたから、不安になったのだろうと思います。本当にこの方を信じ続けて好いのだろうか、と。それに対し、主イエスは「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言いました。私が出て行って宣教しているその姿をヨハネに伝えてほしい、私のしていることを聞くことで、ヨハネにも信じてもらいたい、と。
ヨハネ自身も、実際に彼がしたことに誰も耳を傾け、語る福音が届かないという経験をしてきた人でした。結局、人々はイエスのこともヨハネのことも信じようとはしない。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見よ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きが証明する。」人々はイエスがしておられることもヨハネがしていることも結局は見ていない、そこで働いておられる神様の御業を見ようとしないので、結局信じなかったのだ、と主は言われます。その不信仰への嘆きが、20から24節の厳しい言葉なのではないでしょうか。
だから、幼子のように、主イエスがしておられるそのことによって、主を信じてほしい。主イエスはそう言われます。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい」と私たちを招かれます。主イエス様が私たちの目を開き、この足を立たせ、私たちを清め、この耳を開き、死ぬべき私たちのための命の言葉を語り、福音を聞かせてくださっているからです。だから、主は私たちを休ませることがおできになる。あなたも与っている福音、あなたを休ませ、平安を与える福音を信じてほしい。主イエスは、私たちにそう語りかけておられるのではないでしょうか。「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私のには軽いからである。」これが、主イエス・キリストの、私たちのための招きの言葉です。

2020年1月13日月曜日

2020年1月13日(マタイによる福音書10:24~42)

マタイによる福音書10:24~42;
「家の主人がベルゼブルと言われるなら、その家族の者はなおさら悪く言われることだろう」と、主イエスは言われます。ベルゼブルは悪霊の頭の名前です。ここで主イエスが言う「家の主人」というのは、主ご自身のこと。主イエスは悪霊の頭だと言われていた。私の弟子であるあなたたちも、同じように呼ばれるだろうと言われます。
実際に、9:34で「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言われています。人々を癒やし、口の利けない人に取りついていた悪霊を追い出し、口を利けるようにしたイエスに向かって、人々は、それは悪霊の力を利用しているのだ、と言いました。主イエスにおいて働いている神の力を認めたくなかったのです。
そして第10章になって主イエスは弟子たちを遣わし、今度は弟子たちにご自分の業を担わせます。すると、今度はあなたたちも私と同じように「悪霊の頭の力を遣っている」と言われないわけにはいかないだろう、と主は言われる。この世界が私を拒んだように、あなたたちも拒まれることになる、ということです。
私は、人から嫌われるのがとても怖いです。しかしそうやって人目を気にしていると、肝心なことが言えなくなってしまいます。「だから、誰でも人々の前で私を認める者は、私も天の父の前で、その人を認める。しかし、人々の前で私を拒む者は、私の天の父もその人を拒む。」操守は言われます。キリストの福音は、それが語られれば、平和ではなく剣をもたらす言葉になります。キリストを証しするなら、必ず拒否される、ということを経験しなければなりません。誰かに嫌われないわけにはいかない。私にとってそれはとても怖いことです。人から嫌われるようでは、却って神様の邪魔になるのではないかという言い訳もしたくなります。しかし、主は、それでいいと言っておられるのだと思います。「弟子は師を超えるものではなく、僕は主人を超えるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」私たちは、キリストがそうなさったように、言葉においても行いにおいても、神の国の福音に生きればそれでいい。その結果は、キリストが引き受けてくださいます。ただ肝心なのは、「体を殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな」ということです。人ではなく、ただ神を恐れる。そうすれば、人への恐れから解放されます。「あなたがたは髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。」神が、この私の命を覚え、この小さな私を覚えていてくださる。だから、何も恐れることはない。主イエス・キリストの限りない慈しみの中に、この私も覚えられているから。

2020年1月12日日曜日

ヨハネによる福音書第2章13から22節「新しくなった祈りの家」

 「わたしの父の家」と、主イエスは神殿を呼びます。わたしの父の家。神殿は主イエスが「父」と呼ぶ神の家であるはずだ、と言われるのです。すでにヨハネによる福音書では、主イエスについて「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記していました。独り子である方が、神殿を「父の家」と呼び、その家への熱意をあらわにしておられます。怒っておられます。父の家、父なる神さまにお目にかかることのできるはずの家が、そうではなくなってしまっているという現実に。そしてそれを生み出す人間の営みに怒りを燃やしておられます。
 キリスト者の詩人の八木重吉の短い詩に「神様 あなたに会いたくなった」というものがあります。日付がないのでいつ詠んでものかは分かりません。結核の闘病中でしょうか。あるいはまだ若い23歳の頃、スペイン風邪のための数ヶ月の闘病が明けた頃にこのような詩も詠みました。「おんちち うえさま/おんちち うえさま/と とのうるなり」。重吉は、父なる神を呼び、このお方に会うことに焦がれて、30年の生涯を歩んだのだと思います。
 父に会いたい、神に会いたい。私たちもそう願って、礼拝への道を上ってきました。それなのに、肝心の父の家が父の家でなくなってしまっている。主は憤ります。主イエスはそこで牛や羊や鳩を売っていた者を追い出し、両替商の金を撒き散らしました。どちらも、当時礼拝のために必要と考えられていた商売です。特段に私腹を肥やしていた様子も見受けられません。一体何にそこまで怒りを覚えられたのか。私はこれを読んで、ユージン・ピーターソンという米国の神学者の書いた『牧会者の神学』という本を思い出しました。これもまた怒りの書です。教会の営みを宗教商売に貶めている牧師たちへの怒りです。牧師たちは自分たちの召されたポストを放棄して経営者に成り下がっていると告発します。本来彼らが神に召されたのは、祈り、聖書を読むこと、霊的指導であったはずなのに、それを辞めたのはいかなることかと叫んでいます。私は二人の告発が重なるような気がして、苦しい気持ちになりました。
 キリストはこのように父の家を思う熱意に生き、その熱意に食い尽くされて死にます。キリストが十字架にかけられたのはなぜなのか?その熱意が本物だったからです。神殿を、まことにその名にふさわしい父の家、祈りの家として再建しようと、主イエスは本気でした。だから怒りました。しかし、その熱意と本気は、しばしば惰性や安心感で生きている者には邪魔になります。いつもの営みをしていた方が楽です。決まった言葉で決まった宗教的振る舞いを繰り返す方が、する方も見る方も安全です。主イエスは危険です。私たちにいつもチャレンジしてきますから。本気で神の前に立たせようとなさいますから。そんな主イエスは、私たちのテリトリーの外、十字架へ追い出されました。しかし、主は言われます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」この神殿というのは、主のお体の神殿のこと。ご自身の復活のことを言われました。私たちが父と会える祈りの家を、主イエスは御自分の復活の体によって作ってくださいました。私たちを父に会わせるために。

2020年1月12日(マタイによる福音書10:1~23)

マタイによる福音書10:1~23;
昨日の最後のところで、主イエスは群衆の羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている様子を御覧になって、深く憐れまれました。弟子たちに言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」そういってから、「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」のです。それは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすためであった」。収穫のために働き手を送ってくださるように祈れとお命じになった方ご自身が、働き手を立たせてくださるのです。
こうして、12人を派遣なさいます。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死者を生き返らせ、規定の病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい」と、命じて。
その派遣される彼らの姿は、少しびっくりしてしまいます。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持っていってはならない。」これは、どう考えても旅支度とは言えません。同じ町内に出かける格好です。しかし、実際に弟子たちが遣わされるのは同じ町内とは限らない。「イスラエルの家の失われた羊のところ」ならば、どこへでも向かっていきます。その旅のために、お金や着替えを持っていくな、と主は言われます。なぜなら、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」からです。行った町で出会う人に養ってもらえ、と主は弟子たちにお命じになるのです。あまりに無防備です。養ってもらうというのは、弱い立場になることです。弟子たちの立場の弱さは、14節にも象徴的に表現されています。「あなたがたを受け入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいれば、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」受け入れてもらえなくても、石を投げるのでも砂をたたきつけるのでもない。ただそっと足の埃を払うだけ、それをしるしとするだけです。主は、天の国の到来という福音を託す弟子たちを、弱い者としてお遣わしになりました。
ですから、弟子は迫害にもさらされます。その迫害に力尽くで抵抗することは、期待されていません。ただ「蛇のように賢く、鳩のように無垢」に、十分に用心する。どういうことがあっても抵抗できる理論武装の準備も必要ありません。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。言うべきことは、その時に示される。というのは、語るのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊だからである。」主は、弟子を徹底して弱い者として、ただ神様にしかすがり得ない者として遣わされます。「人の子が来る」のをひたすら待ち望み、主に与えられた使命を、ただ主に頼ることによって進める。それが、キリストの弟子の歩む道です。

2020年1月11日土曜日

2020年1月11日(マタイによる福音書9:18〜38)

マタイによる福音書9:18~38;
主イエスのもとにある指導者がやって来て言います。「私の娘がたった今死にました。でも、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」、と。主イエスは彼についていきます。するとそこに12年間出血が止まらずに苦しんでいた女が近寄り、イエスの衣の裾に触れます。「この方の衣に触れさえすれば直して頂ける」と信じたからです。
その後、主イエスは指導者の家の娘のところへ行きます。主は「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言いますが、人々は嘲笑いました。しかし主は少女の手を取り、起き上がらせたのです。人々は信じませんでしたが、主は彼女を死から起こしてくださいました。
さらに、二人の盲人と出会います。彼らは「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫び、イエスは彼らに「私にできると信じるか」と問われました。「はい、主よ」と彼らは答え、主は彼らの目に触れて「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言い、その目は見えるようになりました。
そして、悪霊に取りつかれて口の利けない人を、人々はイエスの下へ連れてきた。主は悪霊を追い出し、この人はものを言い始めます。群衆は驚きますが、ファリサイ派の人々は「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言い、イエスを信じませんでした。
このように見ると、この一連の物語は、信仰をモチーフにしているように思います。前のとこまでで示されたイエスの権威を信じる信仰です。主イエスが告げる天の国は、主を信じる者のところにすでに始まっています。キリストが始めてくださっています。それを拒むことなく信じてほしいと、主は私たちを招いておられます。
しかし、ファリサイ派に代表されるように、なお私たちは不信仰に浸りきっているので、キリストの権威を悪霊の権威と見間違えてしまいます。心が頑なだからです。35節以下に登場している群衆は、不信仰の世界であえぎ、苦しんでいる人間の姿そのものなのではないでしょうか。主が彼らを見て「深く憐れまれた」と記されているとおり、私たちにはキリストの憐れみが必要です。私たちを不信仰から解き放ち、キリストとその御言葉を権威(私たちを天の国に招き入れる権威)を受け入れる信仰を、どうか私にもくださいと祈りつつ、今日の日を歩んでいきましょう。

2020年1月10日金曜日

2020年1月10日(マタイによる福音書9:1〜17)

マタイによる福音書9:1~17;
主イエスの権威を巡る一連の話の、ある言い方をすれば一つの頂点に達します。体が麻痺した人に、主イエスは言われます。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦された。」側にいた律法学者は「神を冒瀆している」と心の中で思いますが、主はそれは「悪いことを考えている」と言い、「人の子が地上で罪を許す権威を持っていることを知らせよう」とおっしゃいました。主イエス・キリストは、病を癒やす権威や悪霊に対する権威をお持ちの方ですが、それだけではなく神ご自身にしかない権威をお持ちの方です。罪を赦す権威を、主は持っておられるのです。だから、体の麻痺を癒やすことだっておできになる。「起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」これも権威ある言葉です。
この罪の赦しの権威が、主の権威の急所です。罪を赦すことのできる方として、主は御言葉を語られます。
この権威をもって、主はマタイに言われます。「私に従いなさい」と。マタイは徴税人でした。それで、徴税人や罪人を大勢招いて主と食卓を囲みました。それを見て、ファリサイ派の人々は言います。「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と難癖をつけます。つまり、主の罪の赦しの権威が理解できない、ということではないでしょうか。
主イエスは、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われます。病人会社を必要としているように、彼らは私を必要としている。徴税人や罪人が、罪の赦しの権威を持つ私を必要としている、と主は言われます。
さらに14節以下では断食の話になります。断食は、一つの言い方をすれば悔い改めのしるしであり、悔い改めて祈りに集中するということでしょう。罪の赦しを求める祈りです。主は、罪の赦しを求める祈りを、断食して嘆き悲しみながらするな、と言われます。あなたの罪を赦す権威を持ち、事実赦しの言葉を語る私がここにいるのだから、喜んで罪を悔い改めたら良い、今はそのようなときだ、と言われます。
主イエス・キリスト。この方が、私たちの花婿として来てくださいました。私たちは婚礼に臨む花嫁のように、喜んでこの方を迎え、この方が語りかけてくださる罪の赦しの宣言を喜んで聞き、主イエス・キリストを仰いで、この日を歩んでいきます。私たちの罪を赦してくださったキリストに、賛美。

2020年1月9日(マタイによる福音書8:18〜34)

マタイによる福音書8:18~34;
主イエスの権威を示すエピソードが、昨日に引き続きここに登場しています。主イエスと弟子たちの乗った舟が、湖上で激しい嵐に遭った。イエスは寝ておられましたが、弟子たちがイエスを起こし、イエスは嵐を鎮めてくださいました。
聖書では、海や湖はしばしば死や滅びの象徴として登場してきます。湖の上で嵐に遭っていた。しかし、主は寝ておられます。そこにいてくださるはずなのに、いるのかいないのかよく分からない、ただ寝ているだけ、いないのと同じ・・・といった状況です。マタイがこの出来事を福音書に書いたとき、私は、マタイや教会がさらされていた現実をもこの物語に描き混んでいるのではないかと思います。戦争や迫害という死が支配する世界の中、主に呼んでも主は応えてくださらない。死んでよみがえられたはずなのに、主はまだ寝ておられるのか?本当は死んだままなのではないか。彼らは疑ったのでしょう。主はそれを御覧になって、「信仰の薄い者たち」と言われます。本当に寝ていたのは主イエスではなく、弟子たちの信仰です。マタイは、死や迫害の嵐に苦しむ教会に、信仰を取り戻そうと呼びかけます。湖も、風も支配するキリストの権威を信じよう、と。
さらに舟が行き着いた向こう岸、ガダラ人の地方では、悪霊に取りつかれていた人を癒やしてくださいました。豚に乗り移った悪霊は湖になだれ込んで溺れてしまいます。時代の精神になってたくさんの人に取りつき、滅びへと突き進んでいく、そういう悪霊の姿を思わされます。これに対しても、キリストは権威をもって振る舞われます。
ところが、そんな主イエスをガダラ人は受け入れませんでした。悪れにに取りつかれていた人が癒やされた経緯を知ると、「町中の者がイエスに会いに来出てきた。そして、イエスに会うと、その地方から出ていってもらいたいと言った。」悪霊はキリストの権威に従いましたが、人々はそれを拒みました。
だから、キリストにも、キリストの弟子にも、枕するところさえなくなります。「イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』。」こうして、キリストの御言葉の権威、福音の言葉、私たちを死や悪霊から解放する言葉が語られるまさにその場所で、私たちの罪が明らかになるのです。しかしそこで明らかになった罪は、キリストの権威ある言葉によってすでに赦された罪に他ならないのです。

2020年1月9日木曜日

箴言14:1~14「今しか見ないでいるならば」

「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力。」まさに、と言わざるを得ないような言葉だ。飼い葉桶を清潔にすることを目標にするのか、豊作を得ることを目標にするのか。飼い葉桶を生活に保つというのは、短期的な仕事だ。毎日しなければならない。しかし豊作のためには一年を通した労苦が必要。今しか見ていないと、飼い葉桶のことしか目に入らない。先を見る目、「思慮深さ(8節)」が必要である。知恵に聞こう。

2020年1月8日水曜日

2020年1月8日(マタイによる福音書8:1〜17)

マタイによる福音書8:1~17;
主イエスは多くの病む人々を癒やしてくださいました。「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れてきた。イエスは言葉で悪霊どもを追い出し、病人を皆癒やされた。」そして、そういう主イエスのお姿を、福音書を書いたマタイは旧約聖書の預言者の言葉の成就であると言います。「彼は私たちの弱さを負い、病を担った。」主は、私たちの弱さを負ってくださいました。主は、私たちの病を担ってくださいました。これほどの慰めはない。これほどありがたいことは、他にありません。
今朝の箇所には、いくつかの病の癒やしが連続して語られています。最初は山上の説教の直後に規定の病に苦しむ人を癒やされました。「規定の病」というのは新共同訳聖書では「重い皮膚病」と翻訳されていた病気です。聖書協会共同訳は、律法が規定する病という意味で規定の病と訳語を改めました。原語には「重い」という意味も、直接的に「皮膚病」という意味もないからです。同じ言葉で家屋の壁に生じるカビを意味することもあるのです。問題は、この病が律法が規定する祭儀のタブーに触れる、ということでした。そのために、この病は激しく差別されていました。ところが、主イエスはそのタブーに対して権威を発揮し、差別を打ち砕きます。「私は望む。清くなれ」と主が言われると、この人の病は清められました。
もう一つは、百人隊長の息子の癒やしです。ここでははっきりとイエスの言葉の権威が主題となります。百人隊長は言います。「ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。私も権威の下にある人間ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。」主の言葉は、病に対して権威を持ちます。そして、この人は百人隊長なのですから、異邦人であろうと思います。ユダヤ人か異邦人か、という境界線をも越境する権威を持ちます。
律法のタブーや祭儀のタブーを乗り越える権威。病を癒やす御言葉の権威。異邦人をも救いに招く権威。悪霊に取りつかれた人を癒やす権威。すべて、イエス・キリストの御言葉の権威です。キリストの御言葉の権威は、私たちを癒やし、私たちの病を負い、私たちに命を回復するために発揮されているのです。今朝も、私たちは主イエス・キリストの権威ある御言葉に聞きました。キリストのお言葉に従うために、私たちは新しい一日を始めていきます。

2020年1月7日火曜日

2020年1月7日(マタイによる福音書7)

マタイによる福音書7;
「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」
主イエスは、私たちが主の御言葉を聞き、そしてそれに従うことを求めておられます。聞くだけではなく、従うことを。
ボンヘッファーという牧師は、私たちがキリストの恵みを「安価な恵み」にしてしまっていないか、と問います。「安価な恵みとは、見切り品としての恵みのことであり、投げ売りされた赦し・慰め・聖礼典のことである。それはまた、教会の無尽蔵の宝庫のようなものであって、そこから恵みが浅薄な人々の手によって無思慮に、また見境もなく注ぎ堕されるのである。・・・この安価な恵みを肯定するものは、自分の罪の赦しをすでに手に入れている。・・・このような教会の中にこの世が見出すものは、教会の罪の安価な隠蔽であるが、教会はその罪を悔いることはないし、またそれから自由になるという願いは毛頭ない。それゆえに、安価な恵みは、生きた神の言葉の否認であり、神の言葉の受肉の否認である。」安価な恵みは、依然として旧態にとどまることができるものだ、とボンヘッファーは指摘します。依然として罪のもとにとどまることができるような恵み。それは教会にとっては揺るすべからざる宿敵だ、と訴えます。
それに対して「高価な恵み」というものがある。ボンヘッファーは言います。「高価な恵みーーそれは繰り替え探ね求められるべき福音であり、祈り求められるべき賜物であり、叩かれるべき戸である。それは服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである。・・・それは、罪を罰するがゆえに高価であり、罪人を義とするがゆえに恵みである。・・・高価な恵みが恵みであるのは、何よりも先ず、神がみ子をわれわれの生命のために高価なものとして惜しみ給うことなく、われわれのために犠牲にし給うたからである。高価な恵みは神の受肉である。」高価な恵みは、私たちをキリストに対する服従へといざないます。私たちはキリストの言葉を聞き、それに服従して、新しくされることを拒みません。
キリストに服従する者は岩の上に家を建てた人に似ています。建てるのは大変です。しかし、その家はどんな嵐にもなぎ倒されることがない。どんな大雨もその家を破壊してしまうことはない。キリストの御言葉が、土台を支えているからです。

2020年1月6日月曜日

2020年1月6日(マタイによる福音書6:19〜34)

マタイによる福音書6:19~34;
以前、日本中会でキリスト者の歌手の久米小百合さんを招いて、コンサートをして頂いたことがありました。久米さんは、以前、久保田早紀という芸名で異邦人という曲をヒットさせたことがある方です。キリスト者になって、今は音楽を通して伝道をしておられます。時々、いろいろな形で久保田早紀としての彼女を探してきて、仕事の依頼をしてくる方がおられるそうです。異邦人を歌ってほしいとか、過去に一世を風靡した芸能人としてテレビに出てほしいとか。しかし、久保田早紀という仕事はもうするつもりがない、と久米さんはおっしゃっていました。「二人の主人に仕えることはできない」から、と。
「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神とと水戸に仕えることはできない。」主イエスはそう言われます。
そして、この言葉を挟むようにして、前の段落では「宝は、天に積みなさい」と言われます。「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」もしも地上に宝を積むと、目が悪くなり、全身が暗くなってしまう。だから、「地上に宝を積んではならない」。神と富とに仕えることはできないからです。
そして、25節以下の後半の段落では、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな」と言われます。食べること飲むこと、着ること。それらはすべてお金によって保証する生活の確かさです。もちろん、霞を食って生きるとか、裸で過ごすとか、そんな愚かな話ではありません。生活の次元で神を信頼する、という話です。「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。」
神と富とに兼ね仕えて、信仰の領域と生活の領域を両立させるのではない。神に仕えるとき、神が生かしてくださっていることを知ることになる、と主イエスは言われるのです。「だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の労苦は、その日だけで十分である。」私たちは主にあって、今日生きるべき労苦に生きます。今日生きるべき命を、神が与えてくださっているからです。

2020年1月5日日曜日

ヨハネによる福音書第2章1から12節「栄光の食卓」

 カナの婚礼。愛すべき、美しい物語です。しかし同時に、戸惑いを呼び起こします。それは、主イエスの母マリアへの対応です。そもそも何があったのか。ガリラヤのカナで婚礼がありました。ナザレからもそう遠くない場所のようです。イエスもその婚礼に招かれていました。母マリアもいました。親類の婚礼だったのかもしれません。ところが宴会の途中でぶどう酒が尽きてしまいました。母はイエスにそのことを伝えます。ところが、イエスは言われるのです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と。母とも呼ばずに「婦人よ」と言い、更には「わたしとどんなかかわりがあるのです」とまで言います。イエスは親類の婚礼だからとか、地元のよしみでとか、母の頼みだからということで、奇跡を起こそうとはなさいませんでした。地縁血縁を理由に助けてくれない。だから私たちからしたら冷たく感じるのです。
 正月は一年の中でも地縁血縁を強く意識するときです。多くの人が親族の集まりをし、あるいは神社に初詣に行くという人も多いでしょう。私も親族の集まりをしました。それに対して主イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と言って、私たちの常識的な価値観からしたらつまずいてしまうようなことを言われるのです。
 ただ、主イエスはそう言って拒んでおられるようですが、マリアは召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。もしも役に立ちそうなことを言ったらというのではなく、どんなことであろうと何かを言ったらそれにしたがってほしいと命じた。イエスの言葉に条件をつけずに、イエスを信じました。そして実際に召し使いは言われた通りに大量の水を運びます。果たして、召し使いらが汲んできた水はぶどう酒に変わりました。主はそのようにして最初のしるしを行い、栄光を表された。それを見て、「弟子たちはイエスを信じた」のです。ここでの急所は「信じる」ということです。母マリアはイエスを信じ、召し使いは言われたとおりに従い、弟子たちはしるしをみてイエスを信じた。イエスは私たちを信じることへと招いておられます。
 『カラマーゾフの兄弟』で「ガリラヤのカナ」という章があります。長老ゾシマが死に、人びとの期待に反してあっという間に腐臭が漂い始め、アリョーシャはたいへんなショックを受けます。やがて彼は遺体を収めた庵室で聖書の朗読を聞く。カナの婚礼の場面です。アリョーシャはそれを聞きながら、この婚礼にゾシマもいたという幻を見ました。彼は喜びに溢れ、大地に接吻し、神と人との赦しを求めた。そういう場面で出てきます。私たちはどんなに信仰深くても、死ねば朽ちる卑しい存在です。そして、混乱するし、絶望するし、自分を見失います。自分を正当化し、他人を傷つけもするし、混乱を招く。私たちには嘆くべき現実があります。この現実は、神の赦しがなければどうにもなりません。
 主は「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。この「時」というのは十字架の時のことです。やがて来るその時、イエスは私たちを罪の現実から救い、主と共にぶどう酒を頂く宴席に招いてくださいます。実は私たちが主を信じるその信仰すら、主ご自身がくださったものなのです。

2020年1月5日(マタイによる福音書6:1〜18)

マタイによる福音書6:1~18;
見てもらおうとして、人の前で善行をすること。人から褒めてもらうために、目立つように施しをすること。人に見てもらうために、街道や大通りで祈ること。人に見えるように、暗い顔をして断食すること。それらは、すべて、その報いを受けてしまっている。そもそも人からの報いを得るためにしていることにすぎない。神は隠れたことを見ておられる方名のだから、むしろ自分のよい業を人目から隠せ、と主は言われます。
これに対して、「異邦人のようにくどくどと述べて」祈るというのは、少し違うようです。ここでは人に褒められたいとか、神は隠れたことを見ておられるとか、そういうことは話題になっていません。異邦人がくどくどと述べて祈るのは、人から褒められるため、すごいお祈りだねと言ってもらうためではない。「言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている」からだ、と言います。つまり、神様についての根本的な思い違いがあるのだ、と主は言われるのです。
主は言われます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と。祈っている相手が天の父であると知っていれば、祈り方が変わるはずだと主は言われます。「異邦人」というのは外国人ということよりも、むしろ、神様を知らないという意味です。神を知らないというのは知識として知らないということではなく、神の父としての慈しみを知らないということです。だから、祈るときは異邦人として祈るのではなく、父に愛されている息子・娘として祈る。それが、主イエス・キリストの父なる神に献げる祈りとしてふさわしい祈りなのです。
思えば、人に見てもらいたい、褒めてもらいたい。そういう邪念は、神の父としての慈しみへの信頼が欠けたところで生まれるものなのかもしれません。父として信頼しているならば、この方からの報いがあればそれでいい、それが何よりだと言えるのではないでしょうか。
主イエス・キリストが教えてくださった祈りは、この信頼に満ちた祈りです。「天におられる私たちの父よ」と祈りはじめます。主イエスが「父」と呼んだお方を私たちも「父」と呼んで祈ることができる。この祈りは、信仰の秘儀そのものです。

2020年1月4日土曜日

2020年1月4日(マタイによる福音書5:21〜48)

マタイによる福音書5:21~48;
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。きょうだいに『馬鹿』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、ゲヘナの火に投げ込まれる。」
この言葉から始まって、性についても、結婚生活についても、偽りの誓い、復讐、敵、どれも、私たちの存在の根本的なところに罪を見ているように思います。上記の「馬鹿」とか「愚か者」とか兄弟に言うなというところは、相手が誰であれ、身に覚えがない人はいないのではないでしょうか。しかも、腹を立てるというのは人間の内面の働きです。声を荒らげて「馬鹿」とか「愚か者」と言わなくても、私たちは心の中できょうだいを罵っているのではないか。主は、そこを問われます。口に出さずとも、私たちはきょうだいを「馬鹿」と罵って腹を立て、心の中で愚か者と悪態をついて裁いていないか、と。
主イエスは、私たちの存在の根本的な、一番深いところに巣くっている罪、悪魔的な力に支配された私たちの罪に目を留めています。しかし、同時に主イエスは私たちに、あなたたちはこう生きられるはずだという展望をも込めて、私たちにこの山上の説教の言葉を語りかけたのではないでしょうか。「だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」と励まします。完全な者、それはこの世界にただ一つ完全な、キリストによって示された神の愛にすがりつくということではないでしょうか。私たちは、人間存在として、根本的なところに癒やしがたい罪を抱えています。そうであるからこそ、キリストは私たちを泥沼のような罪から救いだしてくださいました。だから、赦された者として、私たちはキリストの後についていく。きょうだいとの新しい関わりの中へと出ていきます。

2020年1月3日金曜日

2020年1月3日(マタイによる福音書5:1〜20)

マタイによる福音書5:1~20;
「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」主イエスは、ご自分の弟子たちにそのように言われます。塩は塩味をつける唯一無二の存在です。人の前に輝く光は人々を照らします。そのように、主イエスの弟子は地の塩であり、世の光だと主は言われます。どのように塩であり光だと言っておられるのかといえば、主は「あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになる」のだと言われます。私たちはそう言われると怯んでしまいます。自分の立派な行いが地の塩、世の光としての役割を果たすなんて言われてしまうと、私はそういう者ではありませんと言いたくなるし、言わなければならないと思ってしまいます。
さらに、主イエスは17から20節の段落で、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言い、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とまで言われるのです。にわかには「アーメン」と言えない言葉です。
これらの言葉は、山上の説教で語られたものです。そして、山上の説教の冒頭は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちの者である」と言って始まっています。私は、ここが鍵なのではないかと思います。
「心の貧しい人々」と主イエスは言われました。ここで主が言われる貧しさとは、極度の貧しさ、自分の力で生きていくことができないほどの貧しさのことです。今道友信というカトリックの信仰に生きた哲学者は、現代ではふさわしい表現ではないとされるかもしれないと注釈しつつ、この言葉はその心が乞食である者は幸いだという意味だということを言いました。物乞いをしなければ生きられないほどの貧しさの中にあるならば(今道先生は戦中・戦後にそういう貧しさを実際に経験されたのでしょう)、選り好みせず、生きるために何でも感謝してもらいます。私たちは、神様の前に、そういう貧しさを知っているのでしょうか。いつの間にか満ち足りた気になり、神様に求める必要などないと思い込んではないでしょうか。そうやって神様に恵んで頂かなければ生きられないという自覚なしに自分の義を立てる、立派な行いに生きると考え始めると、どうしようもなくなります。神様の憐れみと恵み抜きに自分を考え始めると、行き止まりにしか行きようがありません。
ところが私たちは、今現に、ただ神の憐れみと恵みによってのみ生かされています。そうやってただ神の憐れみと恵みによって、神の乞食として生かされている私がなお生きている。だから、主にあって悲しみに生きる恵みを知り、へりくだる者の幸いをしり、義に飢え渇き、憐れみに生き、心清く、平和を造る者として、主にあわれた者であるからこそ義のために迫害される。それが私たちの新しい喜ぶべき生です。すべては、キリストの憐れみと恵みによって。私たちにあるのは、ただキリストの憐れみと恵みだけです。私たちの空の手を、主に向かって差し出しましょう。

2020年1月2日木曜日

2020年1月2日(マタイによる福音書4)

マタイによる福音書4;
洗礼を受けた主イエスは荒れ野へ行き、そこで試みを受けます。その後、洗礼者ヨハネが捕らえられた聞き、ガリラヤに退いていかれます。「そしてナザレを去って、ゼブルンとナフタリとの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった、とマタイは私たちに伝えています。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦人のガリラヤ、闇の中に住む民は、大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々に、光が昇った。」
主イエスはガリラヤに住まわれた。それによって、その地の人々は光を見た。主イエスが来てくださったから、主がここにいてくださるから、ここが死の地、死の陰であっても、光が差しています。
そのガリラヤで、主は何をなさったのでしょうか。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされた。」主イエスは私たちの間を歩いて、福音によって私たちを癒やしてくださいます。「そこで、イエスの評判がシリア中に広まり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒やされた。」
主イエスの伝道と癒やしの業は、この地に生きる一人ひとりの人に寄り添うものであったのだということを思わされます。具体的なカファルナウムという町に住み、そこを中心として多くの人がイエスのもとに集まってきて、主イエスは一人ひとりを癒やしてくださいました。これは、あの荒れ野で受けた悪魔の誘惑の言葉と逆を行ったあり方ではないでしょうか。悪魔はもしも自分を拝めば国々の栄華のすべてを与えようと言います。主イエスは「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言ってこれを退けられました。国々の栄華を手に入れれば、圧倒的な経済力と効率のよい宣教を展開することもできるでしょう。しかし主はそれをよしとはなさらなかった。力をもって効率的に進めるのではなく、ただ主なる神だけをあがめ、一人と出会い、一人に手を置くことを選ばれました。
私たちは、主イエスが進んで行かれるところへ出て行き、主イエスがこのように愛される人を主のように愛します。誰もが、主イエス・キリストの光を求めているからです。

2020年1月1日水曜日

箴言13:1~25「勧めを受け入れる柔らかな耳を」


「高慢にふるまえば争いになるばかりだ。勧めを受け入れる人は知恵を得る。」この二つの文章は明らかに対句になっており、意味としては逆の事柄を対照させている。従って、ここでの「高慢な振る舞い」の逆が、「勧めを受け入れる」ということになる。勧めを受け入れる耳を持たないならば、高慢にならざるを得ない。そのような振る舞いは争いを招く。勧めを受け入れるのは、へりくだりだ。自分を小さくするところに、知恵が生まれる。

2020年1月1日(マタイによる福音書3)

マタイによる福音書3;
「これは私の愛する子、私の心に適う者」。これは、主イエスが洗礼をお受けになったときに天から聞こえた声です。父なる神様が、主イエスを指しておっしゃった言葉、父なる神様による主イエスの紹介の言葉です。
主イエスは、神の御心に適う方。どういう意味で神の御心に適うのか。洗礼を受けることによってです。神様は、主イエスが洗礼者ヨハネの手から洗礼をお受けになることをよしとされたのです。
ヨハネが授けていた洗礼は、どういうものだったのでしょうか。ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けていました。そこに来た人々に、彼は言います。「毒蛇の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」ヨハネは、「悔い改めよ」と迫ります。我々はアブラハムの子だというのは、神様に選ばれたもの、約束の民、その特権に与っているということです。どうしてそれで神の怒りを免れることができるのか、悔い改め、そしてそれにふさわしい実りを生活の中に結ばせよ、とヨハネは言います。そして、その悔い改めのしるしが、洗礼でした。
主イエスがお受けになった洗礼は、悔い改めのしるしです。毒蛇の子が、神の怒りを前にして受けるべき洗礼です。そんな洗礼を、罪を犯したことのない方、神の子でいらっしゃる方がお受けになりました。だから、主イエスが洗礼を受けさせてほしいと言ったとき、ヨハネはそれを思いとどまらせようとします。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか」と言って。
主イエス・キリストは、滅ぼされるべき罪人が受ける洗礼をお受けになりました。毒蛇の子の悔い改めのしるしである洗礼をお受けになりました。主イエスは、一度も罪を犯したことがありません。しかし、その罪を犯したことのない方が誰よりも深く悔い改められたのです。ですから、主の洗礼、それは聖書の秘儀です。「彼は暴虐をなさず、口には偽りがなかったのに、その墓は悪人どもと共にされ、富める者と共に葬られた。主は彼を打ち砕くことを望まれ、病にかからせた」(イザヤ書53:9~10)。誰よりも深く悔い改めた方が、私たちの受けるべき裁きを、すべて受けてくださいました。
私たちの新しい一年は、キリストの洗礼によって始まりました。何という恵み、何という喜びでしょう。

2020年9月21日(テサロニケの信徒への手紙二3)

テサロニケの信徒への手紙二3 「どうか、平和の主ご自身が、いついかなるときにも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。主があなたがた一同と共におられますように。 私パウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印で、私はこのように書きます。私たちの主イエス・キリ...