2019年12月31日火曜日

2019年12月31日(マラキ書3)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録22、マラキ書3

マラキ書3;
「その日が来る」という「その日」を前に、私たちは生きています。主の日に向かって生きるのか、あるいはそれを無視して今だけしか見ないで生きるのか。前者のような生き方を、神学の言葉では「終末論的」と言います。終わりの日、主の日に向かって生きる生き方です。
「終末」というと、何かおどろおどろしいようなイメージがあるかも知れません。しかしそれは誤解です。私たちのところへ来てくださる神の前に生きること、それが聖書の言う終末論的な生き方です。
私たちには、次から次へと迫ってくる「今」の「現実」があります。現実の厳しさは私たちを近視眼的にします。目の前しか見えない。今日をなんとか乗り切ることだけで精一杯です。
「あばたたがたは言っている。『神に仕えることは空しい。その務めを守っても、また、万軍の主の前を嘆きつつ歩いても、何の益があろうか。今こそ、我々は傲慢な者を幸せな者と呼ぼう。彼らは悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れている』」(14~15節)。今まさに来たらんとしている神の前に生きるのでなければ、私たちは刹那的にならざるを得ません。当然です。しかし、神の前に生きるならば、別の価値を知っている、ということになります。
具体的には、ここでは、献げ物のことについて言っています。「十分の一の献げ物をすべて貯蔵庫に運び入れ、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよーー万軍の主の仰せ。必ず、私はあなたがたのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」(10節)。神様からの報いを信じなければ、献げ物なんて意味がありません。神を信じ、キリストを待ち望み、神の前に生きる者を、神は覚え、限りない祝福を下さいます。それは、確実なことです「しかし、わが名を畏れるあなたがたには、義の太陽が昇る。その翼には癒やしがある。あなたがたは牛舎の子牛のように、躍り出て跳ね回る」(20節)。神の前に、私たちは喜んで賛美と、礼拝を献げます。
だから、私たちは今日もイエス・キリストを待ち望みます。「大いなる恐るべき主の日が来る前に、私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子らに、子らの心を父に向けさせる。私が来て、この地を打ち、滅ぼし尽くすことがないように」(23~24節)。私たちは、心をキリストに向け、主の日を待ち望みます。「御国を来たらせたまえ」と日ごとに祈ります。「これらのことを証しする方が言われる。『然り、私はすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来たりませ」(ヨハネの黙示録22:20)。
主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように!

2019年12月30日月曜日

2019年12月30日(マラキ書1〜2)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録21、マラキ書1~2

マラキ書1~2;
私はあなたがたを愛してきたーー主は言われる。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして愛してくださったのか」と。エサウはヤコブの兄ではなかったかーー主の仰せ。しかし、私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ。(1:2~3)
これは、ヤコブの子孫であるイスラエルの人々に向けられた言葉です。ヤコブは、そもそも弟でした。エサウこそ、本来的には神の祝福を受け、神の民となるべき理由を持っている者でした。それなのに、神様の不思議な選びによって、人間的な理由を何一つ持たないヤコブが神の民の祖となりました。人間としての理由を超えた、神の選びです。
神様の愛は、道理を超えます。人間としての「当然」を乗り越えます。道理に従って、当然の理に従って愛すべきものを選ぶのであれば、ヤコブも、私たちも、選ばれることはありませんでした。それが、私たちの原点です。
ところが、とんでもないことが起きていると預言者マラキは告発します。「子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるのか。私が主人であるなら、私に対する畏れはどこにあるのかーー万軍の主はあなたがたに言われる」(1:6)。神様が「当然の理」を超えて私を愛し、憐れみ、ご自分のものとしてくださったことを骨身にしみてわきまえていれば起こりえないことが起きている。当然愛すべき方、当然敬うべき方を尊敬することも、畏れることもない。神をなめきっているのはなぜか、と問うのです。
マラキの指摘は、礼拝の文脈での不遜への告発になっています。祭壇に献げるパン、最善ではないささげ物、いたずらに灯される祭壇の火。人間同士、目上の人にはしないようなことを神様相手には平気でしている。自分にとって必要のない欠陥のある動物を、神へのささげ物としている。「私があなた方の手からそれを受け取るだろうか」(13節)と主は言われます。
さらに、話は結婚生活にも及びます。「主はもはや、供え物に見向きもされず、あなたがたの手から喜んで受け取ることはない。あなたがたは、『なぜなのか』と言う。それは、主があなたがたとあなたの若いときの妻との間の証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である」(2:13~14)。結婚生活も、神の御前で営まれているものだ、と言います。神との関係、神を礼拝することと、結婚相手である伴侶との関係とは、別々のものではない。神の前で、私たちの家庭生活も営まれていく。神の前で、私たちは、神を侮り、なめきって、自分の貪欲に従ってはいないか、と主は私たちに問うておられます。

2019年12月29日日曜日

ヨハネによる福音書第1章43から51節「Come and See!」


 ナタナエル。この人が、今朝の聖書の御言葉では主役を演じています。彼はとても求道心が強い人であったと思います。そんな彼の思いを、主イエスが見いだしてくださいました。主イエスはナタナエルを見つめて言われます。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」まことのイスラエル人。ナショナリティの話をしているわけではありません。イスラエルという言葉はこの福音書では独特の意味を持ちます。ここでは、まことの神の民の一員だといった意味合いです。この人は神を求める神の民の一員だ。更に、主イエスは彼がいちじくの木の下にいるのを見たのだ、とも言います。当時いちじくの木の下というのは、ラビに教えを請うたり、祈ったりする場所であったようです。今で言ったら、礼拝に来ているのを見ていたよ、家庭集会に来ているのを見ていたよ、といったようなことでしょうか。神を求めたり、悲しみや苦しみからの解放を求めたり、そうやって救いを求めるあなたを私は知っている、と主はナタナエルに言ってくださったのです。
 ナタナエルは主イエスを知って、すぐにすんなりと信じられたわけではありませんでした。友人のフィリポが一足早くイエスに出会った。彼は、聖書が約束している方に出会った、それはナザレのイエスだとナタナエルに話します。ついさっきであったあのイエスこそ、私たちの罪を取り除く神の小羊だと告げた。しかし、ナタナエルはフィリポの話しについて行けませんでした。第一、メシアが現れるとしたら、ナザレからなんて考えられない。ナザレなんて、旧約聖書には一度も登場したことがないのです。ナタナエルは熱心に求道し、聖書の勉強もしていたのでしょう。わたしが求め、信じ、神に願い続けてきた救い主はナザレから来るはずがない。イエスなんて信じることはできない。ナタナエルはそう思い込んでいました。
 私はこの話を読んで、マルティン・ブーバーの『我と汝』という本を思い出していました。私たちの世界は二つの根源語で表される。「我と汝」、そして「我とそれ」。「我とそれ」というのは、自分にとって相手は対象であり、目的である。食べるために、作物を作る。その作物との関係です。我−それの関わりでは、相手は自分が処理することのできる対象物になります。しかし、「我と汝」の関係はそうではなく、汝は対象ではなく、生きた人格関係であり、出会う相手です。そして、「我とそれ」の私と「我と汝」の私は、同じ私でも相手とので相方によって違う私になる。
 ナタナエルは、救い主はこうであるはずだという思い込みがあって、主イエスと出会い損ねそうになります。しかし、フィリポが言うのです。「来て、見なさい」と。イエスがあなたと出会おうとしているから、来てごらん、見てごらん、と招きます。私たちにも、神さまに対するいろいろなニーズや、願いがある。主イエスはそういうものをじっと見つめて、私たちの求道心を受けとめてくださいます。しかし、私たちにとっては、そこにうずくまっているだけでは救いにならないのではないでしょうか。私たちの願いを超えた救いがなければ、私たちは自分のニーズという呪縛から救われない。
 主はナタナエルに、私があなたを知っていたこと以上に偉大なことを見ると言われます。主イエスの上に天が開けるのを見ることになる。十字架の主によって、私の願いを超えた救いと出会うのです。

2019年12月29日(ゼカリヤ書12〜14)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書1:1~18、ゼカリヤ書12~14

ゼカリヤ書12~14;
「それはただ一日であり、主に知られている。昼もなければ、夜もない。夕暮れ時になっても、光がある。その日になると、エルサレムから命の水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏も冬も流れ続ける。主はすべての地の王となられる。その日には、主はただひとり、その名もただ一つとなる」(14:7~9)。
その日は、裁きの日であり、救いの日でもあります。すべての肉なるものへの神の裁きの日であり、主が地の王として、光と命の水をもって救ってくださる日でもあります。私たちの罪が裁かれることがなければ、私たちは救われようがありません。しかし主が私たちの罪を許してくださるのでなければ、なおのこと私たちは救われることがないのです。
この預言者は、この世界の様相をつぶさに見、それに絶望していたのだと思います。神に逆らい、弱い者を虐げ、隣人を足蹴にする私たちの罪が、まるで病気のように私たちを蝕んでいる。それなのに、それがあたかも正しく、居心地の良い場所であるかのように、私たちは安穏としている。そのような私たちに、この預言者は絶望していたのではないかと思います。
しかし、彼は絶望はしても諦めてはいませんでした。夕暮れ時になってもなお光があると言うことができました。私たちをこの絶望的な罪から救ってくださるお方を信じていたからです。
「私はダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが刺し貫いた者のことで私を見て、独り子の死を嘆くように嘆き、初子の死を悼むように痛む」(12:10)。この預言者は、何を思ってこのようなことを語ったのでしょうか。私たちには、主イエス・キリストを預言した言葉以外には聞こえてこないような言葉です。このお方を刺し貫いたことで、私たちの罪が決定的な姿をとりました。そのことに気づくとき、私たちは涙を流さないわけにはいかない。しかし、本当にその死を、ご自身の独り子の死を嘆いておられるのは、神様ご自身です。このお方によらなければ、私たちは救われようがありません。
私たちを絶望するしかない罪、ただひたすら涙するしかない罪から救ってくださるのは、キリストの真実だけです。この方が、私たちの救い主、私たちの信じる神ご自身なのです。

2019年12月28日土曜日

2019年12月28日(ゼカリヤ書9〜11)

今日の通読箇所:マタイによる福音書、ゼカリヤ書9~11

ゼカリヤ書9~11;
今日与えられているゼカリヤ書の御言葉には、主イエスのお姿を彷彿とさせる言葉がたくさんあります。
まず何よりも、これです。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗ってくる、雌ろばの子、子ろばに乗って」(9:9)。主イエスがエルサレムに入城したときのご様子を、福音書はこの御言葉をもって鮮やかに描いています。この人は、一体どうやってこのような救い主のお姿を預言することができたのでしょう。主は、へりくだって、子ろばに乗って、私たちのところへ来てくださいます。飼い葉桶にお生まれになったのと同じように。
さらに、この言葉には10節が続いています。「私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、この方は諸国民に平和を告げる。その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで至る」。主イエス様の御支配、神の国は、戦車によらず、軍馬によらず、子ろばに乗った方が告げる平和によって成り立ちます。

「私は彼らに言った。『もし、あなたがよいと思うなら、私に賃金を支払え。そううでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは私の賃金として銀三十シェケルを支払った。主は私に言われた。『私が彼らによって値踏みされた尊い値を、陶工に投げ与えよ。』そこで私は、銀三十シェケルを取り、それを主の神殿の陶工に投げ与えた」(11:12~13)。
イスカリオテのユダは、銀30枚で主イエスを売りました。彼は主イエスが死刑の判決を受けたことを知ると後悔し、その金を替えそうとしましたが断られ、神殿に投げ込みました。祭司長たちはその金で陶工の畑を買いました。ユダも、祭司長たちも、主イエスの命を銀30枚と値踏みしたのです。
たったの30枚というふうにも思いますが、しかし、意味のある金額なのだと思います。出エジプト記21:32に、牛が奴隷を突いて殺した場合の牛の持ち主の賠償額として、銀30シェケルと定められています。主イエスは、全く自分に過失のないことで殺され、その値は奴隷としての値でした。もちろん祭司長もユダもそんなことを考えていたわけではないでしょうが、しかし、神のなさることの不思議であると思います。私たちのために飼い葉桶に生まれてこられた方は、私たちのために、銀30枚の値段をつけられることを甘んじて受け、僕(しもべ)として殺されました。

最後に愚かな牧者の話が出てきます。「彼は失われた者を訪ねず、迷ってものを捜し求めず、傷ついているものを癒やさず、飢えているものを養わず、肥えたものの肉を食べ、そのひづめを裂く」(11:16)。まるっきり、主イエスのお姿と正反対です。しかし、これが私たち人間の姿です。主イエス様に救って頂かなくては、私たちは救われようがないのです。

2019年12月27日金曜日

2019年12月27日(ゼカリヤ書7〜8)

今日の通読箇所:マタイによる福音書1、ゼカリヤ書7~8

ゼカリヤ書7~8;
イスラエルの人々がバビロンに捕囚されて70年、その間、彼らはどんな思いで過ごしてきたのでしょうか。自分たちが神を蔑ろに、無視して、好きなように欲望の赴くままに作ってきた社会が崩壊し、そのことをまざまざと見せつけられ、この辛い時間を過ごしていました。世代が交代しようとも捕囚の現実は変わることなかった。それが思わぬ形で捕囚から解放され、少しずつ帰還が始まっていった。この預言はそういう時代の言葉です。
預言者ゼカリヤは主に問います。「『私は、長年行ってきたように、第五の月に断食をして、泣き悲しむべきでしょうか。』すると、万軍の主の言葉が私に臨んだ。『この地のすべての民と祭司たちに言いなさい。「あなたがたは第五の月にも第七の月にも断食して嘆いてきた。こうして七十年になるが、あなたがたは本当に私のために断食したのか。あなたがたが食べたり飲んだりするときは、ただ自分のために食べたり飲んだりしているだけではないのか」』」(7:3~6)。断食は、ここでは悔い改めのしるしです。神の前に悔い改めの祈りを献げる。この捕囚の現実を引き起こした自分たちの罪を神の前に告白する。ところが、そうやって断食しても、結局は自己満足にすぎず、神に献げるものになっていないと指摘されています。
それは、「真実に裁きを行い、互いに慈しみ、憐れみ合え。寡婦、孤児、寄留者、貧しい者を虐げてはならない。互いに悪を心にたくらんではならない」(9~10節)と言われているとおり、形ばかりの断食をしても、生き方がそれを裏切っているということに他ならないのだと思います。
そうであるからこそ、神ご自身が救ってくださるのです。「私はシオンのために大いなる妬みを起こし、大いなる憤りをもってシオンを妬む」(8:2)。主の熱い思いが神の民を救ってくださいます。断食も変わります。「万軍の主はこう言われる。第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって歓喜と喜びとなり、恵み溢れる定めの祭となる。真実と平和を愛せよ」(19節)。断食が歓喜と喜びの祭の日となると言います。暗い顔で、いかにも苦行をしていますという顔で断食するのではなく、主に献げる祭と祝いの日に変わると言います。
主の前に喜び祝う者は、生き方も変わります。「あなたがたのなすべきことはこれである。互いに真実を語り、あなたがたの門で真実と平和の裁きを行え。互いに心の中で悪をたくらんではならない。偽りの誓いを求めてはならない。これらすべてを私は憎むからだーー主の仰せ」(16,17節)。共に、隣人として生きることができる。それが主が私たちに下さる幸いです。主の前に喜び、共に生きること。主は私たちのためにそのような国を来たらせてくださいます。

2019年12月26日木曜日

箴言12:13~28「唇の結ぶ実」


「悪人は唇の罪の罠にかかる。神に従う人は苦難から逃れ出る。口の言葉が結ぶ実によって、人は良いものに飽き足りる。人の手は働きに応じて報いられる。」唇の罠の何と巧妙で、賢いことか。その罠から一体誰が逃れだれるだろう。自分の言葉が結ぶ実が、どうして甘いと言えるのだろうか。いや、言葉だけではない。心に思うことが既に悪いのだ。神に従いたいと願いながら、唇と思いで裏切る自分が見える。主よ、憐れんでください。

2019年12月26日(ゼカリヤ書4〜6)

今日の通読箇所:ルカによる福音書2:41~52、ゼカリヤ書4~6

ゼカリヤ書4~6;
神が預言者ゼカリヤに見せた幻の話が続きます。ここで彼が見たのは、このような幻でした。「すべてが金でできている燭台が見えます。その上部には丸い鉢があり、その上に七枚の灯皿があり、その上部にある灯皿には七本の管がありました。その傍らに二本のオリーブの木があり、一本は丸い鉢の右に、もう一本はその左にあります」(4:2~3)。
この燭台には七枚の灯皿があり、上部の灯皿には七本の管があるとあります。どういう形状だったのか、少しわかりにくいです。7つの灯皿それぞれに七本の管が付いていたと言うことであれば、合計49の灯皿があったということでしょうか。それぞれに火がともされていたのであれば、随分と明るかったのではないかと思われます。
さらにこの燭台の両脇には、左右それぞれにオリーブの木があります。この木は、恐らく神殿再建事業の中心的人物であったゼルバベルとヨシュアを象徴している。今、彼らを中心に帰還民が取り組んでいる神殿再建事業は、神の光が向けられているという意味なのだろうと思います。
「これはゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず、わが霊によるーー万軍の主は言われる」(6節)。神の光の中で行われている神殿再建(礼拝再建)の業は、武力によらず、権力によらず、ただ神の霊によって進められるのです。神の光が、行くべき道を照らしているのです。
ゼカリヤが第七の幻で見たのは、エファ升でした。その蓋を開けると、一人の女が座っていた。これについて、「これは邪悪である」(5:8)と言われています。そして、この升はシンアルの地に運ばれ、そこに神殿が建てられると言われます。シンアルと言えば、バベルの塔が建てられたところです。この幻は、人間が自分たちの力を神としてあがめる、その邪悪性について指摘をしているものと思われます。
人間が自分たちの力を神とするということは、人間の宿命的な悪であると思います。その邪悪がエファ升によって象徴されていることは、意味深いと思います。自分の力への過信は升を歪めます。取引を不正にし、富める者が富を収奪し、貧しい者はますます貧しくなる。
だからこそ、武力によらず、権力によらず、ただ神の霊によるのでなければ、礼拝は再建されません。そして、私たちの人間らしさも取り戻されることがありません。この一人の預言者は、そのことを語りかけているのではないでしょうか。

2019年12月25日水曜日

2019年12月25日(ゼカリヤ書1〜3)

今日の通読箇所:ルカによる福音書2:21~、ゼカリヤ書1~3

ゼカリヤ書1~3;
預言者ゼカリヤはペルシアのダレイオス王の治世第二年に活動を始めました。前520年のことです。ハガイと同時代の預言者です。
「主はあなたがたの先祖に対して激しく怒られた。彼らに言いなさい。万軍の主はこう言われる。私に立ち帰れーー万軍の主の仰せ。そうすれば、私もあなたがたのもとにかえるーー万軍の主は言われる」(1:2~3)。ここだけではなく、この段落には「立ち帰る」という言葉が何度も繰り返されています。この言葉は、文字通りに、空間的な意味で「帰る」という意味でも使います。時代を考えると、人々は故国へ帰って神殿を再建するという思わぬ使命を与えられましたから、そういう意味もあると思います。しかし、この言葉は思いや生き方を方向転換して、神のもとへ「戻る」という意味にも使います。ここでは両方の意味があるのかも知れません。
ゼカリヤは、さらに、神の民が神のもとへ帰って仕える神殿再建の業の少し不思議な面を語ります。「走って行って、あの若者に言いなさい。『エルサレムは多くの人と家畜が住む城壁のない町となる。私自身がそれを取り囲む城壁となるーー主の仰せ。私はその中で栄光となる』」(2:8~9)。この神殿のためにエルサレムには城壁を作るな、と命じています。城壁がないと、率直に言って危険です。敵がいつ攻めてくるか分からない。事実、神殿再建は何度も敵の妨害に遭って遅々として進みませんでした。ところが、神は城壁を作るなと言われます。なぜか。主ご自身が「それを取り囲む城壁となる」からです。神様が城壁になって、囲んで、守ってくださる。だから、他の壁は必要ありません。
そして、この城壁のない神殿には、「多くの人と家畜が住む」ことになります。壁がなければ、望む者は誰でも入れます。羊飼いでも、東方の占い師でも!誰にも開かれている。そして、壁がないので、どんなにたくさん集まっても大丈夫です。どんなに多くの者が来ても、ここで神を礼拝することができる。預言者ゼカリヤは、そういう神の民の新しい礼拝の幻を見たのです。

2019年12月24日火曜日

2019年12月24日(ハガイ書)

今日の通読箇所:ルカによる福音書2:1~20、ハガイ書

ハガイ書;
預言者ハガイが活躍したのは、イスラエルの人々が捕囚から解放され、神殿再建のためにエルサレムに帰還してきた頃です。彼らは、都を再建し、神殿を再び祈りの家として神に献げるためにイスラエルへと帰っていきました。
神は預言者ハガイに言われます。「万軍の主はこう言われる。この民は、『まだ、主の神殿を再建する時は来ていない』と言っている。主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。『この神殿が廃墟となっているのに、あなたがたが板張りの家に住むときであろうか。今、万軍の主はこう言われる。あなたがたは自らの歩みに心を留めよ』」(1:2~5)。
そうは言っても、と思います。彼らは神殿をほったらかして贅沢三昧をしていたわけではありません。遊んでいて遅れたのではない。彼ら自身、はじめて足を運んだ故郷、廃墟の中に埋もれていた故国へ何世代かぶりに帰って来て、自分自身の住む家も瓦礫のような状態です。そういう彼らの生活状況を考えてみるに、本当に厳しい言葉であると思わざるを得ません。
私は今回ハガイ書を読んで、3月11日の震災の後に見た写真を思い出しました。東北の沿岸にあった教会堂、津波で瓦礫と化した教会堂跡地に、廃材を組み合わせた十字架が立てられていた写真です。そこに来て、祈っている信仰者がいたのでした。
この預言者は、人々の暮らしなどどうでもいいと言っているわけではないと思います。私たちの生活は、毎日が精一杯のところがあります。その日その日を生きていくだけで、大変なことです。そうすると、毎日、今日は仕方ない、またこの次に頑張ろうと、いくらでも言い訳の材料は生まれてきます。いつの間にか、私たちの心の中はカオスに埋め尽くされてしまいます。そんなとき、私たちの内に、十字架は立っているのでしょうか。
「主の神殿の基が据えられたこの日から、心に留めよ。穀物倉にはまだ種があるか。ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブの木は、まだ実を結んでいない。しかし、今日から、私は祝福を与える」(2:18~19)。
神様は、私たちの思いもかけない報いを下さることでしょう。私たちの目には見えない範囲のことなので予想も付きませんが、神が下さる祝福は私たちの想像を超えて大きい。いや、私たちはその祝福をすでに見ています。私たちが祈りの家を再建しようとするよりももっと先に、神様ご自身が私たちに先立って、私たちのための祈りの家を再建してくださいました。キリストのお体、教会です。クリスマスにお生まれになった方が、私たちの祈りを執り成してくださいます。だから、今、私たちはすべての私たちに与えられた課題を一度中断して、神様の前に、御言葉に聞き祈りを献げている。神が私たちに先立って、イエス・キリストという恵みの賜物を下さったからです。

2019年12月23日月曜日

2019年12月23日(ゼファニヤ書3)

今日の通読箇所:ルカによる福音書1:57~80、ゼファニヤ書3

ゼファニヤ書3;
「その日、人々はエルサレムに向かって言う。『シオンよ、恐れるな、力を落としてはならない。あなたの神である主はあなたのただ中におられ、救いをもたらす勇者である。主は、喜びをもってあなたを祝い、愛をもってあなたを新たにし、喜びの歌をもってあなたに歓喜の声を上げる』」(16~17節)。
主が、イスラエルの人々を救ってくださる、その日に献げるべき賛美です。神の民は自分たちの罪が招いた裁きのために苦しんでいますが、必ず神が救ってくださる将来が来る、そう約束しています。主ご自身が救いをもたらす勇者として、主が喜びをもって祝福してくださるという力強い約束の言葉です。
この救いの日の幻としてすばらしいのは、この言葉です。「私はあなたの中に、貧しい者、弱い者を残す。彼らは主の名を逃れ場とする」(12節)。主は救いの日に、民の中に貧しい者、弱い者を残す、と言われます。神様が下さる救いというのは、弱い者が強くなることではありません。まして、貧しい者が淘汰されて強い者だけが生き残るということではないのです。神は、貧しい者、弱い者を残される。彼らは主の名、私の名を逃れ場とすると神は言われます。弱い者が弱いままに、主の御名のゆえに生きることができる。神様が私たちに約束してくださった救いは、そういう救いです。弱い者の存在を神は尊んでおられる、という宣言です。
だから、このようにも言われています。「その時、私はもろもろの民に清い唇を授ける。彼らは皆、主の名を呼び、一つになって主に仕えるようになる」(9節)。貧しい者も弱い者も、異邦人もユダヤ人も、豊かな者も強い者も、皆一つになって主の前に進み出て、仕える日が来る。主の救いの日、神が私たちをご自分の国に迎え入れてくださる日、この約束が実現します。
皆が一つになって主に仕えるというのですから、神様の救いの中には、私たちが助け合ったり支え合ったりするということも含まれるのでしょう。思えば、主の救いの日というのは、教会で、すでに始まっているのではないでしょうか。教会というキリストの体、キリストが呼び集めた神の民、キリストの救いに与った者たちのうちに、神は、この救いの日を始めておられるのではないでしょうか。「御国を来たらせたまえ」と祈って、今日の歩みを始めましょう。

2019年12月22日日曜日

ローマの信徒への手紙第8章31から39節「誰も、神の愛からあなたを離し得ない」


 今日の聖書の御言葉は、私の最愛のものの一つです。読む度に、心が震えます。特に3839節です。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」ここでしているのは、私の話ではありません。私がどうあるかということではなく、私を愛するキリストの愛の確かさの話です。私の決意の揺るぎなさや、私の決心の強さの話ではありません。キリストの愛が確かであって、私たちを離すことがない。それを信頼しよう、ということです。
 第二次世界大戦時にドイツで生き、そして死んだ詩人ヨッヘン・クレッパーのクリスマスの詩、どれもすばらしい詩ですが、特に私が好きなクリスマスの詩は、このように始まっています。「やめなさい、あなたの罪と弱さの中で、あなたが何者かを見つめるのは。あなたの弁護のために来られた、御子に目を留めなさい。」キリストの愛が私たちをつかんでいてくださるから、私たちは自分がどんなに強いのか、あるいは惨めなのか、そのようなことにこだわる必要はないし、こだわってはならないのです。大切なことは、私たちのところに来てくださる救い主に目を注ぐことです。
 なぜなら、神が、私たちの味方でいてくださるから。神が私たちの味方。その証拠は、神が、その御子をさえ惜しまず死に引き渡されたことです。キリストの死、それは、キリストが飼い葉桶の中に生まれたことに、既に始まっているのです。クリスマスは、神が私たちの味方でいてくださることの証拠です。神が、私たちの味方なのです。秋に野球の国際大会がありました。普段のペナントレースではライバルとして戦っている者たちが味方になり、一つのチームになって輝かしい勝利を目指して戦います。この戦いは、一度勝つだけでは、まだ戦いの途上に過ぎません。予選リーグを勝ち抜き、決勝リーグでも勝利を収め、決勝での輝かしい勝利を目指します。聖書は言います。「私たちは、私たちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています」(37節)。神が私たちのために戦い抜いて、私たちは勝利を収める。聖書が言うのは、無論、野球の話ではありません。では「勝利」とは一体何のことなのか。それは、キリストの愛の勝利です。キリストによって示された神の愛から私を引き離すことはできない。クリスマスは、私たちを愛しぬくための神の愛の戦いの日なのです。
 ケン・ローチ監督の「家族を想うとき」という映画を観ました。リッキーというフランチャイズの宅配ドライバー、パートの訪問介護士の妻アビー、高校生の息子セブと12歳の娘ライザという四人家族が物語の中心です。リッキーの仕事は実入りが少なく、休みも取れず、心身共に疲弊していきます。家族を守り懸命に働きますが、働くほどに家族を顧みる時間を奪われ、何かにつけて職場から罰金をとられ、貧しくなります。それでも家族はリッキーの味方で居続けようとする。しかし、家族を守るための仕事によって時間も余裕も奪われ、ますます追い詰められていく…。そんな時に、私たちは味方を信頼して、その愛の中に帰ることができるのでしょうか?キリストは私たちの味方として、私たちが帰るのを待っていてくださいます。私たちを取り戻す戦いを戦っておられるのです。

2020年7月10日(使徒言行録27:1〜26)

使徒言行録27:1~26 パウロは皇帝がいるローマに向かって船で護送されることになりました。しかし、船出してすぐに向かい風のために思うように航海を進めることができなくなってしまいました。季節性の風なのでしょう。港に寄港しながら風が収まるのを待って、航海していこうとしていました。し...