2019年12月30日月曜日

2019年12月30日(マラキ書1〜2)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録21、マラキ書1~2

マラキ書1~2;
私はあなたがたを愛してきたーー主は言われる。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして愛してくださったのか」と。エサウはヤコブの兄ではなかったかーー主の仰せ。しかし、私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ。(1:2~3)
これは、ヤコブの子孫であるイスラエルの人々に向けられた言葉です。ヤコブは、そもそも弟でした。エサウこそ、本来的には神の祝福を受け、神の民となるべき理由を持っている者でした。それなのに、神様の不思議な選びによって、人間的な理由を何一つ持たないヤコブが神の民の祖となりました。人間としての理由を超えた、神の選びです。
神様の愛は、道理を超えます。人間としての「当然」を乗り越えます。道理に従って、当然の理に従って愛すべきものを選ぶのであれば、ヤコブも、私たちも、選ばれることはありませんでした。それが、私たちの原点です。
ところが、とんでもないことが起きていると預言者マラキは告発します。「子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、私が父であるなら、私に対する尊敬はどこにあるのか。私が主人であるなら、私に対する畏れはどこにあるのかーー万軍の主はあなたがたに言われる」(1:6)。神様が「当然の理」を超えて私を愛し、憐れみ、ご自分のものとしてくださったことを骨身にしみてわきまえていれば起こりえないことが起きている。当然愛すべき方、当然敬うべき方を尊敬することも、畏れることもない。神をなめきっているのはなぜか、と問うのです。
マラキの指摘は、礼拝の文脈での不遜への告発になっています。祭壇に献げるパン、最善ではないささげ物、いたずらに灯される祭壇の火。人間同士、目上の人にはしないようなことを神様相手には平気でしている。自分にとって必要のない欠陥のある動物を、神へのささげ物としている。「私があなた方の手からそれを受け取るだろうか」(13節)と主は言われます。
さらに、話は結婚生活にも及びます。「主はもはや、供え物に見向きもされず、あなたがたの手から喜んで受け取ることはない。あなたがたは、『なぜなのか』と言う。それは、主があなたがたとあなたの若いときの妻との間の証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である」(2:13~14)。結婚生活も、神の御前で営まれているものだ、と言います。神との関係、神を礼拝することと、結婚相手である伴侶との関係とは、別々のものではない。神の前で、私たちの家庭生活も営まれていく。神の前で、私たちは、神を侮り、なめきって、自分の貪欲に従ってはいないか、と主は私たちに問うておられます。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...