2020年4月14日火曜日

2020年4月14日(ヨハネによる福音書11:45−57)

ヨハネによる福音書11:45~57
急激に、イエスを殺す計画が具体化し、進み始めます。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。」彼らのそこまでのイエスへの憎しみを決定づけた出来事は、ラザロの復活でした。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを見たユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」そこで、ファリサイ派の人々は言いました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればいいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の土地も国民も奪ってしまうだろう。」ラザロの復活という、これまでイエスがしてきたどのようなしるしよりも決定的なしるしを見て多くの人が信じた。もっとイエスを信じる者が増えて行くに違いない。そのことへの危機感。そして、国内が不安定さをましていると見られ、ローマがつけいる隙を作ってしまうことへの恐怖心。そのような思いが、イエスへの殺意になりました。
主イエスは、ラザロに命を与えたことで殺意を向けられるようになりました。イエスが憎まれたのは、誰かの命を奪ったからではなく、命を与えたからです。
祭司長カイアファが言いました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」イエス一人を犠牲にすることでローマへの恭順を示すためになり、ユダヤの国全体には好都合だと言うのです。みんなのために一人を犠牲にする。イエス一人を殺すことがいちばん犠牲が少なく、自分たちのたちを守ることにもなる。
カイアファの言葉は図らずも主イエスの死の本質を言い与えることになりました。イエスはただひとり犠牲になり、私たちはそれで滅びることなく、命をいただきました。ラザロの命は、イエスの犠牲の上に成り立っています。私たちの命は、イエスの犠牲の上に成り立っています。主イエス・キリストは、ただひとりで私たちのための死を引き受けるために、十字架へと向かって行かれます。私たちのために、憎しみが待ち受けるエルサレムへと向かっていく。キリストの犠牲を思い、キリストの流してくださった血を思う祈りの道を、今日歩んでいきましょう。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...