2020年4月23日木曜日

2020年4月23日(ルカによる福音書4:1〜30)

ルカによる福音書4:1~30
「皆はイエスを褒め、その口から出て来る恵みの言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」
人々の驚きは、イエスへの信仰につながるものにはなりませんでした。彼らはこの後すぐに「憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうと」しました。この驚きは、怒りと殺意につながりました。彼らは「この人はヨセフの子ではないか」と言いました。主イエスがヨセフの子であることにつまずきました。あまりに近い存在であることと、その近い存在であるこの一人の男が「主の恵みの年」を宣言したこととが結びつかず、神様からの福音を聞き取ることができなかったのです。
ところで、この章の冒頭で、主イエスは悪魔から誘惑をお受けになっています。空腹を覚えたイエスに近づいた悪魔は、三つの誘惑をイエスさまに向けました。石に向かってパンになるように命じたらいい、すべての国々の権力と栄華とを与えるから悪魔を拝め、高い所から飛び降りて神の子であることを証明してみせろ、と言うのです。もしかしたら、これは今私たちに向けられた誘惑なのかも知れません。神の子なら、今私たちが苦しんでいるこの状況を早く解決してみせろ、と。

私はこれらの誘惑は、主イエスが人の子であることを揺るがす誘惑であったのではないかと思います。神の子としての力を発揮して、人々を救ったらいいではないか、と。言葉を換えれば、十字架などによらない救いを見せてみろ、その方が万人受けするではないか、ということになると思います。
そう考えると、悪魔の誘惑は主イエスがヨセフの子だと言って躓き、イエスを殺そうとした人々の怒りと、本質的には同じなのだと思います。イエスがアダムの子である人の子になられたことにつまずく私たちの気持ちを代弁しているのです。

主イエス・キリストは、それに対し、神の言葉を食べ、ただ神だけを崇め、神を試みることのない救い主として、私たちの前に現れました。このお方は、私たちに福音を宣言します。「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」という福音の実現を宣言するのです。それは、支配することではなく自由にすることによる救い、見聞きすることを独占するのではなく福音を宣言することによる救い、虐げ屈服させることではなくもう一度自分の足で立つ力を回復することによる救いです。そのために、キリストはご自身が誘惑や肉体の弱さを知る人の子になられたのです。ここに私たちの救いがある。聖書はそう宣言します。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...