2021年2月4日木曜日

2021年2月4日(詩編40)

詩編40
私は耐えて主に望みを置いた。
すると主は私に向かって身を乗り出し
私の叫びを聞いてくださった。
主は私を滅びの穴、泥沼から引き上げて
私の足を岩の上に立たせ歩みを確かなものとし
私の口に新しい歌を
我らの神への賛美を授けてくださった。(2~4節)

「私は耐えて主に望みを置いた。」そのように言います。普段の生活があまりに安心、安全、便利、快適を土台に造り上げられているからか、私は耐えるということがとても不得意です。「私は耐えて主に望みを置いた。」耐えること、待ち望むこと。苦しいことや悲しいことに見舞われているときに神さまを待つ忍耐を重ねる。正直に言って、私にとって簡単なことではありません。
ただし、この詩編は単に「耐えた」といっているわけではありません。闇雲な我慢はあまりにも辛いですし、長続きしません。しかし、そうではなく、「私は耐えて主に望みを置いた」と言っている。望みはある。主に、私の望みを置く。望みがあるから待ち望むし、望みがあるから耐えることができるのです。
何を望んでいるのか。主を待ち望んでいます。だから、とても興味深いことを言います。「すると主は私に向かって身を乗り出し、私の叫びを聞いてくださった。」主なる神様が私に向かって身を乗り出してくださっている。主に望みを置いて耐える者は、知るのです。神さまは私に向かって身を乗り出してくださっていることを。遠くの方でふんぞり返ったり、私のことなんて忘れているのではない。主は身を乗り出して、私の叫びを聞いてくださっている。私の祈りに耳を傾けてくださっている。
主は、私の口に新しい歌を授けてくださいます。新しい歌で私たちは神さまを賛美する。讃美歌を歌いつつ、私たちは主を待ち望んで、この苦難の時を耐えることができる。その意味では、すべては礼拝から始まります。礼拝で神を賛美し、祈り、聖書の御言葉に聞く。そこから始まる私たちの信仰生活は、主を待ち望む、希望に向かう営みなのです。

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