2022年7月10日日曜日

2022年7月10日の聖句

見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、あなたがたも私の手の中にある。(エレミヤ18:6)
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。(フィリピ2:13)

私という人間を造り、無だったのに存在する者とし、形を与え命を与えてくださったのは、主なる神さまです。私たちは神が造ってくださった作品。陶工が粘土から器を作りあげるように、神さまが私たちを造ってくださいました。それが私の命の根源、私たちの命の根です。
神さまは私たちの外から見て分かる形を造っただけではなくて、わたしたちの内側もお造りになった。私たちの願うことや思うこと、私たちの心も、神さまがお造りになったものです。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」だからこそ、神さまがお喜びになることを願い、その実現のために仕えていきたいです。
今日のエレミヤ書の御言葉は、前後を一緒に読むと、ここだけを抜き出したのとはかなり印象が変わります。預言者エレミヤが陶工の家に行った。すると陶工はろくろを回して造った自分の作品を壊して、自分の気に入った他の器に作り替えていた。エレミヤは陶工の家でそうやって仕事をしている様子を見ました。すると、神さまはエレミヤにおっしゃいます。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、私もあなたがたにしえないだろうか」と。
神さまがお造りになった作品である私たちには、神さまが込めた願い、神さまの御心やご意志があるはずです。それを無視することは、器が自分には食べ物ではなくて汚物を入れてくれと主張するようなものです。陶工はそんなことのために器を作ったのではない。私たちの心の良心や、志への願いといった思いは、神さまが私たちに造ってくださった心のしるしです。それを無視して生きれば、私たちは、自分という存在を裏切ることになってしまう。そしてそれ以上に、私たちを造ってくださった方への裏切りです。
私たちは神さまを賛美し、礼拝し、隣人を愛するために造られました。神さまの美しさを映し出すために、私たちは造られました。麗しい器として、神を畏れ、敬い、神の御前に歩んでいきましょう。

2024年4月29日の聖句

主は正しい。私は主の口に逆らった。(哀歌1:18) ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。(マタイ21:28~29) 今日の新約の御言葉は、主イエスの譬え話です。二人...