2019年6月29日土曜日

2019年6月29日(列王記下1〜2)

今日の通読箇所:使徒言行録19:1~20、列王記下1~2、ヨブ記41

列王記下1~2;
イゼベルと共にイスラエルを徹底的に主なる神様から引き離したアハブは死に、その息子であるアハズヤが代わって王となりました。彼も、「主の目に悪とされることを行い、父の道と母の道、およびイスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの道を歩んだ(列王記上22:53)」。あるとき、彼は怪我をした。あろうことか彼は使いの者に命じます。「エクロンの神バアル・ゼブブのもとに行って、私のけがが治るかどうか伺ってきなさい(1:2)」。何と言うことでしょう。彼は主なる神ではなく、全く別の神に自分の怪我のことでのお伺いを立てたのです。
エリヤは言います。「エクロンの神バアル・ゼブブのもとに伺いを立てに行くというのは、イスラエルには神がいないためなのか(3節)」。エリヤは、アハズヤが神を蔑ろにし、神を信じることも祈ることもしないことに罪を見て、厳しく指摘しました。
恐らく、アハブやアハズヤを、世界史の歴史研究の視点で評価したら、全然違う評価になるのだと思います。今回のことも外国とのお付き合いだったり、異文化交流という視点で見れば、外交政策としては賢いやり方だったのかもしれません。私たちは、時にそうやって自分なりの基準を導入して、こちらが賢いやり方、周囲とうまくやっていくための上手なやり方と理由付けをして正当化します。しかし、実はそれが神を蔑ろにしてはいないか、と聖書は問うているのかもしれません。バアル・ゼブブと恐らく同じものが新約聖書にも登場します。新約聖書ではベルゼブルという発音で表記されている、悪霊の頭の名前です。私たちが自分の考える賢さや上手な生き方にこだわるとき、実は悪霊の虜になっているのかもしれません。私たちは、自分をうまく生きられるかどうかで評価するのか、神の前に誠実であるかという点で見るのか、それが問われているように思います。
第2章はエリヤが天に上げられる場面が描かれていました。私には、個人的にある思い入れがある箇所で、いろいろなことを黙想します。メールが長くなりすぎないように、一言だけ。エリヤの働きは次のエリシャに引き継がれました。神様はエリヤにはエリシャを与えてくださっていました。そして、エリシャにもエリヤを与えてくださっていました。エリシャにとってこの別れは辛いものでしたが、その別れにしっかり目を向けることで、エリヤの働きをしっかりと受け継ぐことができました。神の言葉に仕える働きです。
洗礼を受けるとき、私たちはキリストを着ます(ローマ13:14)。エリシャがエリヤの外套を着たように。私たちが洗礼を受けたとき、エリシャと同じように、すでに主のために仕えるキリスト者の群れに聖別して加えられ、その働きを引き継いでいるのです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...