2021年4月23日金曜日

2021年4月23日(詩編117)

詩編117
主を賛美せよ、すべての国よ。
主をほめたたえよ、すべての民よ。
その慈しみは私たちに力強く
主のまことはとこしえに絶えることがない。
ハレルヤ。(1~2節)

とても短い詩編です。それだけに、ぎゅっと内容が詰まった詩編です。すべての国、すべての民に向かって呼びかけます。「主を賛美せよ、主をほめたたえよ」と。すべての国、すべての民と言うのですから、異邦人、つまり別の信仰をもっている人への呼びかけということになるのだと思います。これまで主なる神様を知らなかった人も、イエス・キリストを礼拝したことがない人も、どんな人でも、さあ共に神を賛美しよう、神をほめたたえよう、と呼びかけます。
これは私たちの切なる願いです。今神さまを信じ、キリストの愛によって生かして頂いている私たちだけではない。あらゆる人が神の愛に生かされていることに気付き、共に神を礼拝する幸いを味わうことができますように、という願いです。それは、私たちの信仰が、喜びの信仰に他ならないからです。私たちは罰を恐れるからではなく、たたりに遭うからとか、いい人になって賞めてもらうためにではなく、圧倒的な神の愛と神の恵みに生かされていることを知らされたから、神を礼拝しています。

その慈しみは私たちに力強く
主のまことはとこしえに絶えることがない。

詩編はそのように言います。神の慈しみは私たちを越えて力強く、永遠です。神の慈しみが変わってしまうこと、無くなってしまうことは、ありえないことです。主イエス・キリストによって示された慈しみだからです。
昨日、一番下の娘があんまり頑固だったので私はとても激しく怒ってしまいました。その後、自己嫌悪に陥りました。どうしてもっと気持ちに寄り添ってあげられなかったのだろう、どうしてまず話に耳を傾けようとしなかったのだろう、どうしてあんなに怒ってしまったのだろう・・・。親の愛なんて、所詮は小さなもの、限りあるものです。いや、「親の愛」などと一般化せずに、「私の愛は」と言うべきなのでしょう。私の愛は小さく、醜く、そもそも愛とも慈しみとも言うことはできないものです。しかし、神さまの愛は変わらない。神さまのまことはとこしえに絶えることがない。この神の慈しみとまことは、こんなに醜い者にも向けられている・・・。ハレルヤ、と神を賛美する以外に、私はもはや言葉を持たないのです。

2024年5月6日の聖句

災いの日に、主は私を仮庵に隠し、幕屋の隠れ場にかくまってくださる。(詩編27:5) 主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3) 私たちの神さまは、災いの日に私たちをかくまい、私たちを守ってくださるお方です。どんな災いにも打ち勝ち、ど...