2024年5月21日火曜日

2024年5月22日の聖句

主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。(詩編111:9)
この方(イエス・キリスト)こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2)

主が民をご自分のものとしてくださった。御言葉はそのように宣言します。私たちも神の民、神のものとして頂いた!
それは、1から10まで全部神さまがしてくださったことです。「この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。」主イエス・キリストが私たちの罪のための宥めの献げ物になってくださった。私たちを神のものとするための供え物になってくださって、私たちを罪から救ってくださった。聖書は、私たちを救うために神が何をしてくださったのかを語ります。私たちが何かをしたからとか、私たちが少しはよくなれたからとか、そのようなことは一切語らない。神の救いの光の中に、この私も生かして頂いている!だから、私たちも神に救って頂いた。それが私たちのすべてです。
神さまは、私たちが信じたから罪を赦してくださったのではありません。神が先に私たちを赦してくださった。その事実が先です。だから、私たちもまた神を信じることができる。私たちは信じたから救われるのではなく、救われたから信じた。救って頂いていたことを知ったから、私たちはその救いの神を信じたのです。
「主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。」この契約は、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、イザヤやエレミヤ、そういった無数の信仰者たちと結んできた契約です。私もその契約の民の一人にして頂いた。神の民に加えて頂いた。キリストが私たちを迎えてくださいました。このキリストを、私たちは崇めます。

2024年5月20日の聖句

主である私はその番人。絶えずぶどうに水をやり、畑が荒らされないように、夜も昼も守っている。(イザヤ27:3)
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。(1コリント10:13)

夜も昼も畑が荒らされないように守っている番人のように、ぶどうを枯らさず水をやる農夫のように私たちを守ってくださる方。主なる神さま。このお方は、私たちの試練の日にも私たちを守っていてくださいます。どのようなときにも、神は私たちを決してお見捨てになることがない。私たちはそう信じています。
しかし、試練の中にいると、永遠にそれが続くようにしか思えません。神さまはどうしてこのようなことをなさるのかと、すぐに不信感が募ってしまいます。「絶えず、夜も昼も。」そう言われても、とてもそうは思えない私たちの現実もあります。
今日の新約の御言葉の中でいちばん大切なのは、冒頭です。「神は真実な方です。」私たちは、試練の中でそのことを忘れてしまいがちです。自分の苦しいことや辛いことでいっぱいになってしまいます。しかしそんな中に神の真実が光のように指したとき、私たちの世界が変わります。神が真実なお方だということが分かったとき、私たちを取り囲む試練も、苦しさも、相対化される。なぜなら、神の真実は十字架にかけられたキリストによって明らかにされたからです。独り子を下さる神の愛によって、神の真実が示されたからです。だからこそ、神は私を見捨ててはおられないと私たちは知ることができるのです。
このキリストの恵みと祝福が、今日もあなたにありますように。

2024年5月20日月曜日

2024年5月20日の聖句

主はこう言われる。天は私の王座、地は私の足台。あなたがたが私のために建てる家はどこにあるのか。(イザヤ66:1)
あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。(1コリント3:16)

天を王座とし、地をご自分の足台となさる方。この天と地とをお造りになった方。この私のことをも造り、命を与えてくださった方。そのお方が、この私のうちに住んでいてくださる、と聖書は言います。「あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。」驚くべき言葉です。
神殿は、礼拝を献げるための場所です。神の御前に祈りと賛美を献げ、犠牲を供えて神を礼拝する。そのための場所に神がご自分のお名前をおき、そこでご自身を現してくださる。それが神殿。そして、私たちの内に住んでくださる神の霊は、私たちを神の神殿としてくださいます。私たちの内に住んでくださって、私たちと出会ってくださる。私たち自身が神の神殿なのだ、と聖書は言うのです。
聖霊なる神様の出来事は、私たちにおいて起こっています。私たちにおいて、神の出来事が始まっています。私たちはその事実を信じます。私たちは、私たちと永遠に共にいてくださる聖霊によって神と出会う。聖霊。このお方は神ご自身でいらっしゃる神の霊です。ですから、私たちの目には見えません。しかし私たちと永遠に共にいてくださるお方です。私たちは聖霊が与えられているからこそ、キリストの恵みにあずかっている。
私たちの内に神が御業を始めてくださっていることを、喜んで信じましょう。私たちの内において神が出会ってくださる恵みを信じましょう。主イエス・キリストの恵みと平和が、聖霊によって今日もあなたにありますように。

2024年5月19日日曜日

2024年5月19日の聖句

今週の聖句:
武力によらず、権力によらず、わが霊によるーー万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6b)

今日の聖句:
公正を水のように、正義を大河のように、尽きることなく流れさせよ。(アモス5:24)
しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる。その方は、勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなたがたに告げるからである。(ヨハネ16:13)

真理の霊である聖霊、神ご自身の霊が降った!
私たちに起きた神の出来事です。私たちは神を信じる。主イエス・キリストを信じます。キリストがこの私のために十字架に死なれたこと、神がそのキリストを死者の中から引き上げたことを信じています。それと同じように、神はこの私にも聖霊を送り、私も神ご自身の霊によって生かされ、神は私とも永遠に共にいてくださることを信じています。
聖霊、それは、私がどう感じるかということとは関わりなく、神ご自身の御業として、私と共にいてくださる神の霊です。私たちは聖霊を信じます!
今週の聖句では「武力によらず、権力によらず、わが霊による」と言われています。武力や権力といった私たち人間の浅はかな思いや誇りを打ち砕いて、神が御業をなしてくださっている。神はご自分の霊によって私たちを救ってくださる。神を待ち望みつつ、私たちは新しい一日を歩んでいきます。

2024年5月18日の聖句

主は言われた。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いた。」(出3:7)
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、体に必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょうか。(ヤコブ2:15~16)

口先だけの愛は、結局は愛でも何でも無い。言っているだけでは愛にならない。そういうことでしょう。ヤコブの手紙が指摘する事柄は、本当に心にグサリと刺さります。鋭いです。私の現実を何でこんなに知っているのかと思います。聖書のすごみです。自分がいかに愛することに乏しく、どうしようもない人間なのかと言うことを思い知らされます。
ところが、神さまはそうではないのです。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いた。」神さまは私たちの苦しみをつぶさにご覧になり、私たちの叫びを聞いてくださいます。そして、そこから人々を救い出すために、このときにはモーセをお遣わしになりました。あるいはその後も、たくさんの預言者たちを遣わし、ずっと私たちの叫びや苦しみに寄り添い続けてくださった。そして、最後にはご自分の独り子イエス・キリストを遣わしてくださった。私たちの苦しみや叫びの中に入ってきてくださったのです。
神さまの愛は口先だけだったり絵空事だったりするのではなく、情動的であり、行動的であり、実際的です。共に苦しみ、共に叫び、共に痛む愛です。そして、私たちをその苦しみや叫びから救い出すために、飛び込んでくださる愛です。なんと素晴らしい神の愛!このような神の情熱的な愛が私たちに向けられているのです。

2024年5月17日金曜日

2024年5月17日の聖句

あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。(出エジプト記23:9)
正しい人たちが王に尋ねた。「主よ、いつ、見知らぬ方にお宿をお貸ししたでしょうか。」王は答えた。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」(マタイ25:37,38,40)

あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ、と神さまはおっしゃいます。私たちはエジプトの地で寄留者だった。よそ者、仮住まいの者、在留外国人だった。もちろん、私たちの肉の先祖ではない。私たちはユダヤ人ではない。しかし、私たちも同じ神を信じている信仰の祖は、エジプトの地で寄留者だった。よそ者として虐げあれ、奴隷の憂き目に遭っていた。何人であろうと関係ない。この事実が私たちの信仰の原点です。寄留者であり、よそ者である私たちを神が目に留めてくださり、その叫びを聞き、奴隷の家から救いだしてくださった。
「あなたは寄留者を抑圧してはならない。あなたがたは寄留者の気持ちが分かるはずだ。あなたがたもエジプトの地で寄留者だったからである。」
その原点に立ち返るとき、私たちには、寄留者を抑圧するという振る舞いをすることはもはや不可能なはずだ、と神さまはおっしゃいます。そのようなことはできないだろう、と。そして、同じまなざしを持って、目の前にいる「最も小さな者の一人」と相対するとき、そこでする私たちの業を、主はご自身への業として御心に留められます。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」最も小さい者。寄留者。この人たちの共通点は、社会の中で軽んじられ、その存在が侮られているということです。そういう片隅に追いやられた人と共に神がおられる。そこで示す愛を決してお忘れになることはない。主なる神さまは、私たちにそうおっしゃいます。

2024年5月16日木曜日

2024年5月16日の聖句

主は高殿から山々を潤す方。主の業の実りで地は満ち足りる。(詩編104:13)
人々が十分食べたとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい」と言われた。集めると、人々が大麦のパン五つを食べて、なお余ったパン切れで、十二の籠がいっぱいになった。(ヨハネ6:12~13)

「主は高殿から山々を潤す方。」主は泉を湧き上がらせて川とし、山々の間に流れさせるお方です。その水を野の獣が飲み、渇きを癒やす。空の鳥は水のほとりに巣を作り、梢の間からさえずり歌う。家畜のための草も、人間の働きに応じて青草を生えさせてくださるのも、主なる神さまです。この世界は、高く天におられるお方の慈しみで満たされています。主なる神さまのご慈愛によってこの世界は支えられている。
主イエスは大麦のパン五つを持って5000人の人を養ってくださいました。大麦のパン。それは貧者のパンと呼ばれていたそうです。貧しい子どものお弁当です。しかしそれを豊かに祝福して、たくさんの人を養ってくださった。その恵みは溢れ出て、12の籠いっぱいになったと言います。
主イエス・キリストのあふれる恵みが私たちを生かします。キリストの溢れる愛が私たちを満たします。今日、私たちが生きるために必要な物を備えてくださったのも、同じお方です。このお方は私たちを絶えず祝福してくださっています。例え私たちにそれが見えないときにも、私たちが迂闊にもキリストの恵みに気付かないときにも、このお方の慈しみがなくなってしまうということはありません。主イエス・キリストを仰ぎ、キリストと共に歩む一日を過ごしましょう。

2024年5月15日水曜日

2024年5月15日の聖句

主よ、朝ごとに私たちの腕となり、
苦難の時に私たちの救いとなってください。(イザヤ33:2)
この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか。この人たちは大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。彼らは、もはや飢えることも渇くこともない。(黙示録7:13,14,16)

ヨハネが幻の内に見た人々。殉教者たちが天で神を礼拝している様子を目の当たりにしました。迫害を受け、大きな苦難を味わい、殉教して血を流した。しかしその血に汚れた衣を主ご自身の血が洗って白くしてくださった。白い衣を着て、この人たちが神を礼拝している。そういう幻です。
殉教とか迫害とかいうと、私たちの現代日本での生活からはずいぶん遠い話をしているように聞こえます。確かに私たちは教会に通っているからといって命を落とすことは無いし、キリスト者であるということで市民生活から排除されることもありません。ただ、ほんの数十年前の日本の先輩キリスト者たちはそういう時代を生きていました。キリスト者であるということで逮捕投獄された人もいますし、獄中で命を落としたキリスト者もありました。本当は私たちに無関係な話ではなくて、同じ事が問われているのだと思います。
苦難の中での私たちの慰めは、一体何でしょうか。結局は、小さな事においても大きな事においても、それが問われるのだと思います。キリストが私の慰めでいてくださり、キリストのものとされたことが喜びであるならば、私たちの生き方の方向性は自ずから定まってくるのだと思います。朝毎に主に力を下さるし、苦難の時にキリストが慰めとなってくださる。このお方に、私たちが与えられたものをお返しする歩みを、今日お献げして参りたいと願います。

2024年5月14日の聖句

神を尋ね求める者には恵み深い御手があるが、神を捨てる者には激しい憤りがある。(エズラ8:22)
イエスは十二人に、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた。(ヨハネ6:67)

今日の御言葉には、神さまの、主イエスさまの、深い悲しみが込められています。「あなたがたも去ろうとするのか」と主イエスは十二人におっしゃいました。世の人々が見なさっていくからです。ご自分の前から去り、神を捨てていく人々をご覧になりながら、お前たちもなのか、と主イエスはおっしゃっている。深い悲しみです。
私たちはついうっかりすると、主イエスさまの悲しみや憤りにひどく鈍感になって平気な顔をしてしまいます。イエス様はゆるしてくださって当然、と・・・。しっかりと考えてみると恐ろしく不遜でひどい考えですが、主イエスさまの悲しみを真剣に考えようとしないということは、私たちにはどこか起こりがちなところがあるのではないでしょうか。いや、「起こりがち」どころか、絶えずそうなのかもしれない。そして、それこそ私たちの「罪」ということなのかも知れない。
「神を尋ね求める者には恵み深い御手があるが、神を捨てる者には激しい憤りがある。」神さまのこの憤りを恐れ、真剣にこれを考えたいと願います。
私たちは、主イエス・キリストを仰ぎつつ、その憐れみをただひたすらに求めるしかありません。キリストへの愛を拒み、キリストからの愛も否定し、傲慢で不遜な私を、主よ、どうか憐れんでください。そう祈るところからしか私たちは始められない。この朝、主イエスさまの憐れみを求めて祈りつつ、歩み出していきたいと願います。

2024年5月13日月曜日

2024年5月13日の聖句

あなたの泣く声を、目の涙を抑えなさい。
あなたの労苦には報いがあるからだーー主の仰せ。(エレミヤ31:16)
(イエスの言葉)あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネ16:22)

「あなたの泣く声を、目の涙を抑えなさい。」すごい言葉です。なかなか口にできない言葉です。言うだけなら誰にでもできるかもしれませんが、根拠ある言葉として、確かな言葉としてはなかなか口にできるものではない。
主なる神さまが言ってくださいます。「あなたの労苦には報いがあるからだ」と、主がそう言ってくださる。主が私の労苦も御心に留めてくださる。ただそれだけが私たちの力です。
この言葉は、あの主イエス・キリストの言葉とよく似ていると思います。「悲しむ人々は、幸いである。」これもまた驚くべき言葉です。そして主イエスはちゃんとその根拠も告げてくださっています。「その人たちは慰められる。」キリストご自身が私たちの慰めとなってくださるから、悲しむ人々は幸い。この言葉は、キリストにしか言うことのできない言葉です。
「あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」キリストとの再会の約束が私たちを支えます。キリストの御顔を仰ぐことが、私たちを立たせます。主イエス・キリストこそ私たちの慰め、喜び。キリストを仰ぐ一日を歩んでいきましょう。

2024年5月12日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。(ヨハネ12:32)

今日の聖句:
神よ、あなたは私たちを試み、火で銀を練るように私たちを練った。(詩編66:10)
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:17)

シモン・ペトロは、もしかしたら最も主イエスに傷つけられた人物であったと言えるかもしれません。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」主イエスは三度繰り返して彼に尋ねました。「私を愛しているか。」明らかに、ほんの数日前のあの夜をなぞっておられる。「お前もあの男の仲間だろう」と大祭司の家の中庭で問い詰められたシモンは、三度重ねて、あんな男は知らないと言ってしまいました。それをなぞるかのようにして、「私を愛しているか」と、主イエスはお訪ねになったのです。シモンは深く傷つき、悲しくなりました。
自分の失敗や自分の罪深さを直視することは、私たちにとっては本当に辛いことです。そのような自分の姿は見たくないし、触れて欲しくもない。そう思うのは当然です。しかし、その傷に敢えて触れなければ、本当に癒やされることもまたないのです。主イエスを知らないと言って呪いの言葉まで吐いてしまった。そういう私であることを深く知ることと、キリストの無限の赦しの恵みを知ることとは、一つのことです。キリストは私たちを愛してくださっています。キリストの「私の羊を飼いなさい」という、新しい使命を与える言葉、そして赦しの言葉がなければ、私たちは生きることができない。キリストの御前で、その事実を深く知らされます。

2024年5月10日金曜日

2024年5月10日の聖句

(主の言葉)私はあなたがたを顧み、多くの子どもを与え、数を増し加えて、あなたがたと契約を立てる。(レビ26:9)
キリストによって、体全体は成長させられ、愛の内に造り上げられてゆくのです。(エフェソ4:16)

キリストは、私たち教会を今地上にあるご自分の体としてくださいました。私たちはキリストの体です。キリストは今私たちのところで、教会というお体を持っていてくださるのです。キリストの体として、私たちはひとつです。
この体をキリストが成長させてくださいます。主イエスさまがご自分のものとして、私たちを一つの体として結び合わせ、成長させてくださる。その成長を、聖書は「愛のうちに」と言います。聖書が言う教会の成長というのは、数が増大するとか、社会への影響力を増すとか、立派な建物を持つとか、そういうことではありません。愛の成熟です。愛のうちに造り上げられていくこと、愛においてキリストのお体らしくされていくこと、それが教会の成長です。
今日の旧約では「私はあなたがたを顧み、多くの子どもを与え、数を増し加えて、あなたがたと契約を立てる」と言っています。ここでは数が増し加えられると書かれている。考えてみれば、確かに数が増すということも大切なことです。一人の人が主イエスと出会う。その「一人」という数は、統計的な意味での「1」とは違うと思います。一人の魂。キリストが愛する「一人」という存在。一匹の羊のような一人を、主イエスは心から尊び、喜んでくださる。一人が加えられることには、神の顧みがその背後にあるのです。
そう考えると、やはりこの旧約の御言葉も、愛における成熟ということではないかと思います。一人の人への愛。出会いを喜び、その人の存在を感謝し、愛することで結び合わされる教会。そういう姿がここに見えてくる。そして、私たちの教会をもキリストはそのように育て上げてくださっている。私たちはそう信じているのです。

2024年5月9日木曜日

2024年5月9日の聖句

主は彼らに喜びを与えられた。(エズラ6:22)
いつも喜んでいなさい。(1テサロニケ5:16)

復活の主日から40日目の今日は、主の昇天を祝う日として覚えられています。主イエス・キリストは、弟子たちの見ている前で天に昇って行かれたと聖書に書かれています。キリストは天に昇り、神の右に座しておられる。使徒信条でもそう告白しています。私たちは天におられ、私たちの祈りを父なる神様に執り成してくださっているキリストの祝福の中を今生きていると信じています。
「主は彼らに喜びを与えられた。」キリストが天におられる。そこに私たちの喜びの確かさが担保されています。キリストが御父の一番側近くにおられて私たちのために祈っていてくださるから、私たちは喜んで生きることができる。悲しいことがあっても、辛いことがあっても、それでもなおキリストにあって喜びうるのは、天にこのお方がいてくださると信じているからです。
しかし、思わないでしょうか。せっかくなら天に昇っていかずにずっと地上にいつづけてくだされば良いのに、と。ずっと私たちに見えるところにいて、私たちと一緒にいてくだされば良いのに、と。
しかしキリストはそうはおっしゃいませんでした。それは、キリストが天にお帰りにならなければ、約束の聖霊が私たちのところに来ないからです。キリストが天に昇って行かれたからこそ、神は私たちにキリストの霊である聖霊を送ってくださった。キリストはもはや私たちの目には見えないけれど、私たちと共にいてくださいます。その事実は、私たちに信仰が与えられ、祈り心が与えられ、神を求める思いが与えられていることからも分かります。神の右に座しているお方は、聖霊を送って、私たちと共にいてくださるお方。この恵みに満ちた事実を喜んで、今日の祈りの道を上っていきましょう。

2024年5月8日水曜日

2024年5月8日の聖句

(主は)私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。(詩編40:4)
あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。(エフェソ4:23)

主が、新しい歌を授けてくださった。すてきな言葉です。「主に、新しい歌を」とは言っていません。主が私の口に新しい歌を授けてくださった。主が授けてくださる新しい歌を私は歌う。
この歌の新しさは、単なる新曲ということではないでしょう。続けて「我らの神への賛美を授けてくださった」と言います。主が授けてくださる歌の新しさ、それは、神をほめたたえる賛美の歌という意味での新しさです。主なる神さまを心からほめたたえる歌は、私たちにとってはいつでも新しい歌です。私たちはそれを新しい心で、いつでも新鮮なものとして神に献げる。賛美というのは、そういうものだと思います。私たちの献げる賛美は、神ご自身が私の口に授けてくださる新しい歌に過ぎない。私の神を賛美したいという願いも、その情熱も、神が私たちに与えてくださった思い。賛美の喜びは、神が私たちに与えてくださった喜び。私たちが神に礼拝を献げ、賛美を献げるのは、神がそのように招き、そのような心を与えてくださっているからに他ならない。
「あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。」ここでもやはり「新たにされなさい」と言っています。新しくなりなさいとか、心を入れ替えなさいとは言っていません。神があなたを新しくしてくださる。それを心から喜んで受け入れなさい、ということではないでしょうか。神が新しくしてくださる。それこそ、聖霊のお働きです。あなたにも神が働いてくださっている。今朝、あなたがたった一言でも神に祈るなら、ほんの一言でも「神さま」と呼ぶなら、そこに既に神のお働きがある。神があなたの口に新しい歌を授けてくださっているのです。

2024年5月7日の聖句

この上なく麗しいシオンから、神は光を放たれる。我らの神は来られ、黙ってはおられない。(詩編50:2~3)
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です。」(マルコ12:32)

唯一の神、ほかに神はない。主イエス・キリストの父でいらっしゃるお方。この世界を、天と地とそこにあるすべてのものをお造りになった方。このお方の光は「この上なく麗しいシオンから」放たれる、と聖書は言います。
シオン。イスラエルの都、かつて神殿があった町、エルサレム。シオンとはその地を指す名です。「この上なく麗しいシオン」と書かれているのを見ると、今、胸が痛みます。この上なく麗しく、神をほめたたえる声が響いているはずの地が、今、世界の争いの発火点になってしまっている。いや、世界の争いが生み出した悲惨や理不尽を凝縮して押しつけられた場所と言った方が良いのかもしれません。暴力や怒り、悲しみ、蹂躙、そういったあらゆる事がこの地で繰り広げられてしまっている。主イエスが歩まれたその大地を悲劇が包み込んでしまっているというのは、なんと恐ろしく、また悲しいことでしょうか。
神は唯一。それは、本当であれば福音であるはずです。ただおひとりの神が私たちのところに来てくださって、私たちを罪と死と悪から救いだしてくださる。キリストの愛の勝利を祝うような福音の言葉であるはずです。それなのに、私たちは自分たちの主張を相手にぶつけるための言い訳のようにしてしまいました。神の麗しいお名前を、私たちの世界が徹底的に汚して、踏みにじってしまった。それがこの世界で今起きていることではないでしょうか。ただただひたすら、神の御前に憐れみを求めるより他ありません。神が決して黙ることなく、この世界のすべての造られた者のための救いを宣言してくださいますように。主イエス・キリストの救いを仰ぎ、待ち望みつつ、私たちは今日の日を生きていきます。

2024年5月6日月曜日

2024年5月6日の聖句

災いの日に、主は私を仮庵に隠し、幕屋の隠れ場にかくまってくださる。(詩編27:5)
主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3)

私たちの神さまは、災いの日に私たちをかくまい、私たちを守ってくださるお方です。どんな災いにも打ち勝ち、どんなに辛いことからも逃げずに、毅然として立ち向かえ、とは神さまはおっしゃいません。逃げるなんて弱虫がすることだ、信仰者はちゃんとどんなことにも向き合うべきだ、とは神さまはおっしゃらないのです。
主イエス・キリストは教えてくださいました。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈ることを。救ってください、助けてください。私たちはそう祈って良いのです。いや、そう祈れと主イエスご自身が教えてくださっています。悪に直面したとき、試練に遭ったとき、私たちはほかの誰でもなく神に祈り、神に助けを求めます。
「災いの日に、主は私を仮庵に隠し、幕屋の隠れ場にかくまってくださる。」「主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。」今日のこの二つの御言葉は本当に慰め深いです。神さまが私たちをかくまってくださるし、神ご自身が私たちを悪しき者から守ってくださる。主なる神さまのお陰で、私たちは試練の日にもなお生きることができる。
神さまは、私たちがどんなに情けない姿をさらして祈っても、私たちを決してお見捨てにはなりません。私たちが、自分の信仰を自分でも疑ってしまうようなひどい祈りをしても、神は憐れみをもってそれを聞いてくださいます。主イエス・キリストの祝福と恵みがあなたにありますように。今日の祈りの道に、神の祝福がありますように。

2024年5月5日の聖句

今週の聖句:
ほむべきかな、神。
神は私の祈りを退けず、
御恵みを私から取り去らなかった。(詩編66:20)

今日の聖句:
鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように、
神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。(詩編42:2)
私どもの信仰を増してください。(ルカ17:5)

神よ、私はあなたを求める。これこそ、私たちの思いではないでしょうか。主なる神を求めてあえいでいる。それが私たちの渇きではないでしょうか。私たちは神の御許に安らうまで、魂の真の安息を得ることができない。私たちは神に向けて造られているのですから。神はご自分を求める者に必ず御顔を向けてくださいます。命の泉から水を飲ませるように、必ず私たちの魂を潤してくださいます。私たちはそのことを信じて、神に祈り、キリストを仰いで、この方を礼拝するのです。
今日、この旧約の御言葉と共に与えられている新約の御言葉は「私どもの信仰を増してください」というものです。神を求める私たちに、神は、ご自分への信仰を与えることでもって応えてくださるのです。神を渇望する私たちへの答えは、信仰です。信じることによって私たちの渇きは癒やされる。
主を信じ、主を愛する者を、主は決して放っておくことがありません。神は私たちの祈りを決して退けない。だから私たちは安心して主を求め、主に救いを求めて生きることができるのです。

2024年5月4日土曜日

2024年5月4日の聖句

あなたがたは豊かに食べて満ち足り、あなたがたの神、主の名をほめたたえる。(ヨエル2:26)
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。(マルコ6:41~42)

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることを教えてくださったお方は、私たちの食べなければ生きられない命に関心を持っていてくださいます。食べることや飲むこと、あるいは他の生きるために必要な営みを、神さまは「卑しいこと」とはおっしゃいません。神さまや信仰の領域とは関係のない、程度の低いものだとはおっしゃらないのです。私たちの食べてつなぐ命を、神が慈しんでくださっています。
「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。」たった五つのパン、二匹の魚でしかありません。しかしキリストがこれを祝福すると、そこに出来事が始まります。神の民が喜んで頂く食事が生み出され、それを頂き、その食事に生かされる神の民が生まれます。
私たちは聖餐を祝いつつ、信仰生活を送ります。キリストがあのときパンを裂いてくださったのと同じように、私たちも小さなパンを分け合って、キリストに与えられた命を生きています。食べなければ生きられない私たちをキリストが養ってくださる。そして、天の宴席に招かれたとき、私たちはこのように楽しむのだという前味を味わわせて頂いている。その喜びの食卓が、明日の礼拝でも祝われます。「あなたがたは豊かに食べて満ち足り、あなたがたの神、主の名をほめたたえる。」この喜びへ、キリストが私たちを招いてくださっています。

2024年5月3日金曜日

2024年5月3日の聖句

耳の聞こえない人を呪ってはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。(レビ19:14)
(イエスの言葉)あなたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。(ルカ6:36)

悪意を持ってわざと耳の聞こえない人を呪ったり、目の見えない人の前につまずく物を置いたりする人は、少ないと思います。私たちはおいそれとそのようなことはしない。しかし、実際上同じようなことは起こっているのではないでしょうか。点字ブロックの上に自転車が放置されていたり、ろう者の存在が忘れられたり。私たちは面だって敵意をむき出しにして耳の聞こえない人を呪うことや目の見えない人に障害物を置いたりはしなくても、無関心のために、無意識のうちに、実際上同じ事をしているということがある。そしてそれは無意識であるからこそ、自分がそのような振る舞いをしているという自覚すらないのです。
愛の反対は憎しみではなく、無関心だと言った人があるそうです。そうだとすると、自分の他者、しかも不便を抱えている他者への無関心は、恐るべき愛の欠落です。
主イエスはおっしゃいます。「あなたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」天の父の慈しみは、私たちへの絶大な関心と、私たちを決して放っておくことのない行動力になって現されました。主イエス・キリストという一人の人として私たちのところにまで来てくださった。神の前に、まるで耳が聞こえないかのように御言葉に聞かず、まるで目が見えないかのように御姿に目を向けようとしない私たちのために、キリストがここまで来て御言葉を語りかけ、そのお姿を示してくださいました。十字架の上におられるお方として。私たちの信仰の耳と目を開くために、キリストはここまで来てくださったのです。この慈しみが私たちの道を新しくするのです。

2024年5月2日木曜日

2024年5月2日の聖句

(主の言葉)もし、わが民が私に聞き従うならば。(詩編81:14)
あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。(コロサイ1:23)

主なる神さまは、私たちが主に聞き従うことを願っておられる。聖書はそうはっきりと言います。私たちが信じようと信じまいとどうでも良いのではなく、私たちが主を愛そうが憎もうがどちらでもいい、というのではない。主なる神さまは私たちの愛を望んでおられる。主は私たちが信じ、従うことを願っておられる。聖書ははっきりとそう言います。
私たちはついうっかりすると、神さまがそう望んでおられるということを忘れてしまいます。自分の都合ばかりを考えてしまいます。しかし、他でもなく神さまが私たちのことを求めておられるというのは、本当に大切な事実です。
「あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」信仰に踏みとどまり、神の下さる御言葉に聞き従う。そこにこそ私たちの希望もまたあります。神さまを仰ぎ、神さまに従うことにこそ、私たちの幸いもまたあるのです。
私たちには、信仰を揺るがせるような出来事がときに起こります。神さまを信じて、祈って始めてもうまくいかなくなってしまうこともあります。神さまは自分のことを見放したのか、あのときの決断は間違っていたのではないかと思わざるを得ないこともあります。しかし、私たちにとって本当に大切なことは、ただ神を愛し、神に従うことだけです。うまくいくかいかないか、人から評価されるような結果をもたらすかどうか、ということはそれほど大切なことではありません。神に従いましょう。そしてそう願いつつ、道を選び取っていきましょう。私たちは愚かで道を誤ってしまうことが多いです。しかし神に従いたいという祈りや願いを神は必ず聞いてくださいます。そのことを信じて、神に従う幸いな道、福音の希望の満ちを歩んでいきましょう。

2024年5月1日水曜日

2024年5月1日の聖句

5月の聖句:
私には、すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私には、すべてのことが許されています。しかし、私は何事にも支配されはしません。(1コリント6:12)

今日の聖句:
私があなたと共にいて救い出すーー主の仰せ。(エレミヤ30:11)
(イエス)ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。(ヘブライ2:18)

イエス様はいつも私と共にいてくださる。私たちはそう信じていますし、それは私たちにとって深い慰めに満ちた約束です。「私があなたと共にいて救い出すーー主の仰せ。」主イエスがお生まれになるときにも、その名はインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれる、と天使が告げていました。キリストは私たちと共にいてくださる。神は私たちと共にいてくださるお方。
しかしその「共にいる」という神のあり方は、私たちの想像を超えて深くて確かです。主イエスはご自身が試練をお受けになって苦しまれた。だから試練を受けている者を助けることがおできになる、と言います。主イエスはこの世界に観光旅行のためにいらしたのではありません。ちょっと様子を見に来たとか、人々の苦労を視察しに来たのではない。キリストのインマヌエルというあり方は、完全なものです。ご自分が試練を受けて苦しみ、私たちの痛みを誰よりも深く知っています。それどころか十字架にかかって神に棄てられて死にました。私たちの誰も経験することのない究極の苦しみをご存じです。だからこそ、私たちと共にいる神として私たちを助けることがおできになる。
私たちには、他人には分からない苦しみや、経験していなければ推し量ることのできない痛みがあります。キリストはそのすべてをご存じです。その憐れみに満ちた事実に気付くとき、私たちの苦しみに閉じ込められていた思いが解放され、私たちは隣人と共に生きることが出来るようになるのです。

2024年5月22日の聖句

主はその民を贖い、契約をとこしえに定めた。(詩編111:9) この方(イエス・キリスト)こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。(1ヨハネ2:2) 主が民をご自分のものとしてくださった。御言葉はそのように宣言します。私たちも神の民、神の...