2021年7月29日木曜日

2021年7月29日(コヘレトの言葉4:1~12)

コヘレトの言葉4:1~12
私は再び太陽の下で行われるあらゆる虐げを見た。
見よ、虐げられる者の涙を。
  彼らには慰める者がいなかった。
また、彼らを虐げる者の手には力があった。
  彼らには慰める者がいなかった。(1節)

コヘレトはこの社会の中で、力が無く、弱く、虐げられている人々の現実に目を向けます。虐げられる者たちは涙を流し、彼らを虐げる者たちの手には力がある。虐げられる者たちを慰める人は誰もいない。コヘレトの時代であっても我々の時代であっても、同じことが起こっていると言わねばならないのではないでしょうか。そして、コヘレトはこのような悪が横行していることを見つめ、この悪を見ないで済むもう死んだ人々、そしてまだ生まれていない人たちは幸いだ、とまで言います。本当に激しく、厳しい絶望です。
とは言っても、その虐げは特別に悪い意図の下に行われているわけではないと思います。4節ではこのように言います。「また、私はあらゆる労苦とあらゆる秀でた業を見た。それは仲間に対する妬みによるものである。これもまた空であり、風を追うようなことである。」あらゆる労苦とあらゆる秀でた業は、普通であれば手放しにたたえられるべきです。労苦して働き、磨き上げて熟練した秀でた業はすばらしい「職人芸」です。ところが、そのような労苦や秀でた業の背後には「仲間に対する妬み」があるとコヘレトは指摘します。なんと悲観的な見方なのかとさえ思います。しかしコヘレトの言うとおり、一見良いことも実は良くない意図の下に行われているというのが、私たち人間の現実なのかも知れません。
8節では孤独な男の話をします。彼の労苦に果ては無く、富にも満足できない。そこで、コヘレトは仲間と共に生きることの幸いに目を向けさせます。「一人より二人のほうが幸せだ。共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。たとえ一人が倒れても、もう一人がその友を起こしてくれる。」私たちの世界には不正がはびこり、弱い者が虐げられ、仕事の労苦もその動機付けまで遡れば妬みに満ちている。そういう社会のつらい現実を一人で孤独に生きることには私たちは耐えられない。コヘレトはそう言います。一人ではなく二人で生きよう。仲間と共に生きよう。倒れたときに起こしてくれる友と共に生きよう。コヘレトはそう呼びかけます。これは真理です。キリストは私たちにとってのまことに憐れみ深いサマリア人になってくださったのです。この虐げに満ちた世界だからこそ、共に生きる祝福に、私たちは招かれています。

2024年4月27日の聖句

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