2021年9月10日金曜日

2021年9月10日の聖句

我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。(詩編33:20)
私たちはこの希望のうちに救われているのです。(ローマ8:24)

「私たちはこの希望のうちに救われているのです」と使徒パウロは言っています。希望という言葉があります。希望とは、将来に寄せる期待のことです。希望という言葉には、今だけではない、過去だけでもない、将来が含まれています。今もうすでに実現していることを願っても、希望にはなりません。将来、よりよい存在になることを願うのが、希望です。
私たちは何を希望しているのか。聖書は何を私たちの希望と証言しているのか?今日、私たちに与えられている詩編はこのように言います。「我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。」ここにも希望が言い表されています。「我らの魂は主を待つ」と言っている。待つことができるのは、必ず主が助けてくださると信じているからです。主が私たちの盾となって、私たちを守ってくださると期待しているからです。ここには将来があります。主を待ち望む。主が助けてくださることを信じて待っている。確かに、今は苦しいかも知れません。望みが薄いように感じるかも知れません。しかし、そうだからこそ、期待して待ち望むこと、希望を抱き続けること、それこそが信じるということなのではないでしょうか。
神さまが私たちを助けてくださる、救ってくださる、その究極の成就は、キリストが再び私たちのところへ戻って来てくださるときの出来事。主イエスさまご自身がそう約束しててくださいました。キリストは私たちのところへ戻って来て、私たちを父のもとへ導いてくださいます。キリストは私たちのところへ再び来て、私たちを罪と死から救ってくださいます。それはまだ私たちの目には見えていませんが、必ずその時が来ることを私たちは信じ、今日も希望を持って歩んでいきます。夜は更け、日は近づいたのです。希望を持って生きていきましょう。まるで希望を持たないかのように振る舞うのはやめて、キリストをお迎えする望みに生きる一日を、喜んで歩んでいきましょう。

2024年4月30日の聖句

主よ、思い起こしてください、あなたの憐れみと慈しみを。それはとこしえからあるもの。(詩編25:6) しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れ...