2021年10月7日木曜日

2021年10月7日の聖句

私の思いを一つに保ち、あなたの名を畏れる者にしてください。(詩編86:11)
様々な異なった教えに惑わされてはいけません。(ヘブライ13:9)

ノーベル物理学賞を受賞したという真鍋淑郎さんはずいぶん前ににアメリカに渡り、米国籍を取得しました。なぜ米国籍を取得したのか、なぜ日本に帰らないのかという質問に対し、このように答えたそうです。
「日本の人々は、いつもお互いのことを気にしている。調和を重んじる関係性を築くから。」「日本の人々は、非常に調和を重んじる関係性を築きます。お互いが良い関係を維持するためにこれが重要です。他人を気にして、他人を邪魔するようなことは一切やりません。」「だから、日本人に質問したとき、『はい』または『いいえ』という答が返ってきますよね。しかし、日本人が『はい』と言うとき、必ずしも『はい』を意味するわけではないのです。実は『いいえ』を意味している場合がある。なぜなら、他の人を傷つけたくないからです。とにかく、他の人の気に障るようなことをしたくないのです。」そして、御自分は周りと強調することが苦手なことが、日本に帰りたくない理由の一つだとおっしゃっていました。
日本人には協調性があると、日本人が自称することが多いような気がします。確かに協調性はあるのかも知れません。真鍋さんのように海外に渡って日本を見る目をもっちる方が、調和を大切にしていると指摘しているのですし。ただその調和や協調は、同調圧力という暴力にもなり得ます。ほかの人と違うことを認めない、許さないという息苦しさと表裏一体です。しかしそうかと思うと、逆に現代社会は価値観が非常に混乱し、何が大切なことなのか、何が正義なのか、何が公正なのか、何が責任ある態度なのか、といったことが「人それぞれ」と言った具合に、社会的なコンセンサスがとれなくなってしまったようにも思います。良いことと悪いこととの区別がつかない。しかし、一体誰が「良いことと悪いこと」を決めることができるのでしょうか?
今日の二つの御言葉はとても示唆に富んでいます。「私の思いを一つに保ち、あなたの名を畏れる者にしてください。」「様々な異なった教えに惑わされてはいけません。」多様性があって良いのです。あるいは、それが必要です。ただ、主なる神様の御名を畏れるというところは、私たちキリスト者としては決して外せません。御言葉は「私の思いを一つに保ち」と言っています。「私たちの思い」ではない。ほかの誰でもなく私自身が主への一筋の心に生きられるように。他の教えに惑わされることなく、主を愛し、隣人を愛し、この世にあって生きていきたいと願います。私は、そこにこそこの社会の再生の鍵があると信じています。

2024年5月4日の聖句

あなたがたは豊かに食べて満ち足り、あなたがたの神、主の名をほめたたえる。(ヨエル2:26) イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。(マルコ6:41~42) 「我らの日用...