2021年11月12日金曜日

2021年11月12日の聖句

万軍の主の日が臨む、高ぶる者と高慢な者すべてに。自分を高くする者すべてに。彼らは低くされる。(イザヤ2:12)
皆互いに謙遜を身につけなさい。なぜなら、神は、高ぶる者を退け、謙る者に恵みをお与えになります。(1ペトロ5:5)

聖書はなぜ謙遜を重んじるのでしょうか。恐らく多くの倫理道徳が謙遜を徳としているのだと思います。確かに高慢な人よりも謙遜な人は美しいです。最近の日本にも「上から目線」という言葉がありますが、高慢な態度は敏感に感じ取られ、そのいやらしさのようなものが指摘されることも多いです。聖書も、そういった人前での振る舞いへの注意として、謙遜を身に着けよと言っているのでしょうか。
私は、そうではないと思います。聖書の謙遜の究極的な起源は、主イエス・キリストです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~7)。神の身分であるキリストが謙られた。キリストが御自分を卑しい者、つまり私たちと同じ者にして、私たちと同じになってくださった。それどころか、十字架の死に至るまで従順に、究極の謙遜を示してくださいました。そのお陰で、私たちは救われました。神さまの究極の謙遜が私たちを救ったのです。
だから、聖書は私たちに謙遜を求めます。キリストが地の底まで謙って私たちを救ってくださったから。キリストが謙ったから、高ぶることは罪なのです。高慢な態度が鼻につくからとか、人から悪く思われて損だからとか、そういう話ではない。キリストの謙遜に救われたので、私たちの高慢は罪です。
厄介なことに、他人の高慢はすぐに目につきますが自分の高慢にはなかなか気づけません。自分にいやな思いをさせる隣人は、私の高慢を気づかせるための神さまからの使者に違いないと思います。キリストは高慢な私の手にかかって、十字架にかけられました。謙ってくださったキリストの御前に、ひたすら、高ぶるわが身の罪を思い知らされます。

2024年5月6日の聖句

災いの日に、主は私を仮庵に隠し、幕屋の隠れ場にかくまってくださる。(詩編27:5) 主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3) 私たちの神さまは、災いの日に私たちをかくまい、私たちを守ってくださるお方です。どんな災いにも打ち勝ち、ど...