2021年11月25日木曜日

2021年11月25日の聖句

あなたがたのところで、みなしごは憐れみを見いだす。(ホセア14:4)
あなたがたは、今やよそ者でも寄留者でもなく聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の成員です。(エフェソ2:19)

みなしごも、よそ者も、寄留者も、誰でも聖なる民につながれ、神の家族となる。それが教会です。私たちは今やよそ者でも寄留者でもなく聖なる者たちと同じ民、神の家族です。
家族にはいろいろな人がいます。仲のいい家族もいれば、理解不能な人もいたりします。家族は、選んでなるわけではない。生まれたときから家族です。強い人もいれば弱い人もいます。社会の中では弱さは評価されないことが多いですが、家族にとっての弱さは、かけがえのない価値です。当初は弱さを受け入れられないことが多いのは事実です。しかし、弱さの持つ価値は家族を新しくします。まったく同じことが教会という神の家族の中で起きます。いや、肉の家族よりも、神の家族の中でこそ神の起こしてくださった奇跡は明らかになります。一人の人の弱さが神の家族の中で持つ尊い意味があるのです。
みなしごも、よそ者も、寄留者も、社会の中では歓迎されないし、邪魔者扱いされます。世の目から見れば、弱い存在です。だからこそ、教会には弱い存在が必要です。神さまは強いものではなく弱いものを呼び集めて、キリストの体、神の家族をお造りになるからです。
昨日、近所の小学生たちがほうかごの会に遊びに来ました。ある子が、私のおばあちゃんも教会なのと言っていました。どこかの教会に行っているということなのだと思います。嬉しい出会いでした。その子自身も、おばあさんの教会でもさがみ野教会でも、どこであっても教会に行ってほしいと思います。さがみ野教会の軒先に集まってくる子どもたちも、すでに神さまが神の家族の一員として迎えておられるのです。教会という神の家族は、開かれた家族です。血縁も、社会的な立場も、人生経験も、性別も年齢も関係なく、誰でも入ることのできる家族。誰でも軒で雨宿りできる家族。
家族は選んでなるものではない。生まれたときから家族。ただ、家族の中で夫婦だけは例外です。夫婦だけは生まれついての関係ではないし、夫婦になるにあたって自分の意志が働きます。聖書は、私たちをキリストの花嫁と呼びます。キリストが私たちをご自分の妻として迎えてくださる。ここに神の家族の基礎があります。

2024年5月6日の聖句

災いの日に、主は私を仮庵に隠し、幕屋の隠れ場にかくまってくださる。(詩編27:5) 主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3) 私たちの神さまは、災いの日に私たちをかくまい、私たちを守ってくださるお方です。どんな災いにも打ち勝ち、ど...