2022年1月25日火曜日

2022年1月25日の聖句

主よ、私を懲らしめてください。しかし、あなたの怒りによらず、ただ、公正によって。さもなければ、私は無に帰してしまうでしょう。(エレミヤ10:24)
神は、私たちを怒りに遭わせるようにされたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るようにされました。(1テサロニケ5:9)

ダビデ王はイスラエル史上最高の名君でした。大胆に神を信じ、大胆に罪も犯しました。そして罪を犯していたことに気づいたときには大胆に悔い改めました。
ダビデが晩年に差しかかろうかという時のことです。彼の活躍で国内は平穏になっていき、安定した政治を行っていました。そんな時、彼は人口調査をすることにしました。その結果、剣を取りうる民がイスラエルには80万人、ユダには50万人ということが分かった。ところが「民を数えたことはダビデの心に呵責となった」(サム下24:10)のです。なぜなのか、聖書は詳しく説明していません。恐らく、人口を数えたいという思いの中に、本当は神ご自身のものであるはずの王国をダビデがあたかも自分の所有物のように考えていた、ということが隠れていたのだと思います。これはダビデ一人の良心の呵責にとどまらず、神さまの御目にも罪と罪と映りました。
ダビデは悔い改めの祈りを献げます。ダビデのところに預言者ガドが来て、神さまのメッセージを伝えました。「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか、あなたが三ヶ月間敵に追われて逃げることか、三日間あなたの国に疫病が起こることか」如何なる罰にするかを選ぶように、と言ったのです。ダビデはこれに対して「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」と言って、疫病を選んだのでした。
ダビデは罪を犯したとき、神さまの手にかけられることを望みました。神さまの御手から受けるのであれば、罰の中にもまた慈悲があるに違いないと信じたのです。「主よ、私を懲らしめてください。しかし、あなたの怒りによらず、ただ、公正によって。さもなければ、私は無に帰してしまうでしょう。」私たちは過ちを犯してしまうし、神の恵みを無駄にしてしまいます。悔い改めの祈りを献げるとき、私たちは神の慈悲にすがるしかありません。そうでなければ、私たちは無に帰してしまうしかありません。
「神は、私たちを怒りに遭わせるようにされたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るようにされました。」主イエス・キリストにあって、神さまは私たちを怒りに定めることがありません。ダビデのように過ちを犯してしまっても、新約の時代に生きる私たちはそれに相当する罰をもって報いることはなさらない。神の慈悲は更にはっきりと私たちに示されました。私たちはキリストに現された神の慈悲によって生かされているのです。

2024年4月27日の聖句

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