2022年3月11日金曜日

2022年3月11日の聖句

人には死の日を支配する力はない。(コヘレト8:8)
あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。(マタイ6:27)

私たちは自分の命について無力です。どんなに思い煩っても、寿命をほんの僅かでも延ばすことはできません。自分がいつ生まれるかを選ぶことができないように、自分がいつ死ぬかを選ぶこともできません。それは神さまの御手の中にある。
この「思い煩う」という言葉ですが、新共同訳では「思い悩む」と訳されていました。4月から礼拝で読むことになっている聖書協会共同訳では、今日の翻訳と同じで「思い煩う」と訳されています。私は、こちらの方がいい訳だと思います。単に悩んでいるだけでなくて、煩い、つまり病んでしまっている。それは私たちの実態を現しているのではないでしょうか。思いが病的に塞ぎ込んでしまう。しかし私たちは自分の命についてどんなに思い煩ってもどうすることもできない。だから、神さまに委ねよと主イエスは言われるのです。「明日には炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」思い煩いは、不信仰の業です。「あなたがたにはなおさらのこと」と言ってくださる神さまの慈しみに信頼していい。安心して信頼して大丈夫。主イエスはそう言われます。
そして、私たちは自分の命だけではなく、他人の命に対しても無力です。その無力さに謙虚でなければならないのだと思います。戦争は、究極的に人の命を軽くします。しかし「人には死の日を支配する力はない」のです。
20年ほど前のことですが、母教会の高座教会で教会学校の教師をしていました。ちょうどその頃、ニュースや何かで、子どもの「なぜ人を殺してはいけないの」という問いに大人たちが答えられないということが大きな話題になっていた。実際、日本の法律では「人を殺してはいけない」とは書いていない。人を殺した場合に科せられる刑罰が書かれているだけです。ところが、私が教師をしていた教会学校で、ある子どもが、「人を殺しちゃいけないなんて、そんなの聖書にちゃんと書いてあるよ」と言った。大人たちがまごついてしまっていた問題に、子どもが聖書から明快な答を出したのです。「殺してはならない。」これは、神が十戒で命じておられることです。
私たちは自分の命に対しても、他人の命に対しても、無力です。しかしその無力さは、私たちが人間らしく生きるために必要な空白です。神が働き、神が責任をもっておられる領域です。私たちには理解できないことがたくさん起こります。しかし、この空白に神はキリストにあって底知れない愛を輝かせてくださっているのです。

2024年4月30日の聖句

主よ、思い起こしてください、あなたの憐れみと慈しみを。それはとこしえからあるもの。(詩編25:6) しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れ...