2023年12月20日水曜日

2023年12月20日の聖句

主をたたえよ。主はあなたの過ちをすべて赦し、あなたの病をすべて癒やす方。(詩編103:2,3)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(1ヨハネ4:10)

今日の新約聖書の御言葉に「宥めの献げ物」という言葉があります。旧約聖書のレビ記に、この献げ物について書かれています。欠陥のない雄牛を焼き尽くして献げる。それはその人自身の代わりに献げられるいけにえ、贖いとなる。その雄牛は切り分けられ、頭と脂肪が祭壇で焼かれます。「祭司はそのすべてを祭壇で焼いて煙にする。これは焼き尽くすいけにえである。すなわち、主への火による献げ物、宥めの香りである。(レビ1:9)」
この献げ物は、その人自身の代わりとして献げられます。自分自身を神さまに献げる象徴として、傷や欠陥のない雄牛、つまり最上のものを神さまに献げる。宥めというのは、その献げ物を焼くときの香りのこと。自分自身を献げるという徴の意味を持つ香りです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」主イエスご自身が献げ物になってくださったのです。私たち自身の代わりとして、キリストが宥めの献げ物になってくださった。神が私たちをご自分のものとして贖うために、御子を与えてくださったのです。
これは、考えられないほどすごいことです。先ほどのレビ記では、私たちの持つ最上の物である雄牛を自分自身の代わりとして献げよ、と命じられていました。一番良い物を献げる。ところが主イエスさまは、私たちの持つ最上の物ではない。神さまのお子様です。神様ご自身が私たちのために宥めの献げ物を準備してくださった。なぜなら、私たちには十分な宥めを献げることができないからです。私たちはどんなに最上の物を準備しようとも的外れになってしまう。神への愛をどんなに真摯に献げようとも、私たちの愛は偽りでしかない。それが、私たちが罪人だということです。罪の存在である以上、私たちがすることはどこか必ずねじ曲がっている。だから、神ご自身が最上の宥めを準備してくださいました。私たちを罪から贖ってご自分のものとするために、神がすべてを準備してくださった。それがクリスマスに起こった出来事なのです。

2024年5月8日の聖句

(主は)私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。(詩編40:4) あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。(エフェソ4:23) 主が、新しい歌を授けてくださった。すてきな言葉です。「主に、新しい歌を」とは言っていません。主が私の口に新しい歌を授けてくださった...