「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありたあらゆる病気や患いをいやされた。」主イエス・キリストにとって、病気や患いの苦しみはどうでもいい事ではありません。この様子を見て「深く憐れまれた」ともあります。「憐れむ」とは、自分自身の内臓までも痛む感情です。高みから見下ろしているのではないのです。主は病み、患う苦しみに喘ぐ人に御国の福音を宣べ伝え、彼らをいやされました。彼らにとって決して絵空事ではない福音の言葉を伝えてくださったのです。第10章8節を見ると、主イエスはご自分のなさったことを弟子たち(教会)に引き継がせて、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と言われます。病、死、そして重い皮膚病。この病はただ肉体の苦しみだけではなく、徹底的な隔離と差別の対象になっていました。社会から投げ捨てられる屈辱、孤独、悲しみを嘗めていたのです。そして、この社会には悪霊の働きと言わなければならない深みがある。1節でも、弟子たちを遣わされるときに「汚れた霊に対する権能をお授けに」なりました。現代にも悪霊の働きが見られます。病む人は社会からも自分自身からも見捨てられたような思いを味わいます。その背景には、現代社会の拝金主義とも言える、精神を失った資本至上主義があるように思います。生産性を失った人間の居場所を残さないのです。或いは、今の日本はとても不寛容です。とてもイライラしています。特に隣国に対して。先日のフランスのデモに至った「風刺画」の問題も、根は同じように感じます。異質な他者を理解する努力を放棄してはいないでしょうか。このような時代精神を形づくっているのは一体何者なのか。このようなところに人間の力を超えた力を見るのです。主イエス・キリストは弟子たちを派遣するに当たり、言われました。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」天の国、つまり神の御支配が近づいた、もうすぐそこにある。だから、あなたは悪霊に支配されているのではない。あなたを憐れむ神が、弱り果て、打ちひしがれた羊の群れのようになったあなたたちを養い、牧者になってくださる。私たちの周囲には、たくさんの打ちひしがれた人がいます。「打ちひしがれた」というのは、床に投げられたという意味です。必要ないと捨てられたのです。しかし必要ないというのは本当は嘘なのです。例えこの時代の精神が価値無しと断じても、あなたはキリストのもの!私たちはこの福音を宣べ伝えるために、ここから遣わされます。平和を届け、私たちもまた内臓を痛めて、天の国を宣言するのです。
2025年10月25日の聖句
あなたがたはパンを食べて満ち足り、安らかにこの地に住むことができる。(レビ26:5) 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。(ヨハネ6:33) 「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ることを、主イエスさまが教えてくださいました。私たちの神さまは、私たちの「食...
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1. ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1) こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15) 「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」 しかも、もったいないこ...