2016年3月20日日曜日

ヨハネによる福音書12:12〜19「小さな王たちが跋扈する時代に」

昨日のサタデーパレットで主イエスが十字架の上でご自分を十字架につけた者たちを見つめながら祈られた言葉の話をしました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」主はそう祈られました。それを聞いた小学3年生の子が言いました。「優しいじゃん!」そうです。私たちが信じる神、イエス様は優しいお方です。柔和な方です。子ろばに乗って私たちのところへいらっしゃいます。私たちを征服するために軍馬に乗って来るのではないのです。今日、優しさを求める全ての人を神は招いてくださっています。世の巷にあふれかえっている言葉は、赦しの言葉ではなくて裁きの言葉です。断罪したり、怒ったりする言葉です。関係を断ち切ってしまう言葉ばかりが耳に飛び込んできます。そして、つい、本当はそんなことしたくないのに、同じような言葉が自分の口からもでてきてしまいます。それに気づくと自己嫌悪に陥ります。それは、まるで小さな王様にでもなってしまったかのようです。主イエスはロバに乗って私たちのところへ来てくださる王様です。イエス様が王として来られたのは、私たちが王様のままでは、私たちがどうしたって救われようがないからです▼イエスと一緒にエルサレムまで旅をしてきた群衆がいました。彼らはベタニヤ村でイエスがラザロという若者を生きかえらせた奇跡を目撃して、ここまで付いてきたのです。そして、エルサレムでなつめやしの枝を振ってイエスをお迎えしたのは、ちょうど祭りのために上京してきていた巡礼者が、その話を聞いたからでした。彼らは皆巡礼者です。巡礼者が死者の中からの甦りといういのちの福音を耳にして、イエスを王としてお迎えしていたのです。死というのは、単なる生命活動の停止ではないのではないでしょうか。それは、関わりの死です。愛の絆の死です。死を迎えた本人だけではなくて、その人を愛する者にとっても、その人を喪うことで自分の何かが死んでしまいます。死はそういう出来事です。今日、伝道師任職式があります。伊能悠貴教職志願者が伝道師になります。伝道師になるというのは、説教者になるということです。小さな王たちの大きな声しか聞こえないようなこの世界の中で、キリストのいのちの福音を宣べ伝える巡礼者の一人になることです。私がかつて仕えていた教会で出会ったMさんは、まだ60歳くらいの時に多発性骨髄腫が見つかり、非常に進行が早く、見つかって短い期間で最期を迎えられました。ご家族はいのちが長くないことを告げるときに激しく動揺するのではないかと心配しました。しかし、Mさんはおっしゃった。自分は若い頃に洗礼を受けて、たくさんの説教者が語る福音の言葉を聞き続けてきた。ここで動揺しては、それが無になってしまうではないか、と。伝道師が生まれるというのは、このようないのちの福音を語る巡礼者が新しく生まれるということに他なりません▼聖書に登場する巡礼者は、しかし、ほんの数日後にはイエスを見捨て、それどころかイエスを十字架につけろと叫びます。それでは、彼らの言葉は空しいものに過ぎなかったのでしょうか。そうではないと私は信じます。神は、私たちのことを私たち以上によく知った上で、それでも私たちを信じてくださいます。なぜなら、この方、私たちの王の優しさは死にも罪にも打ち勝つ優しさだからです。この方があなたの神。全てをバラバラにするこの世界に生きるあなたの神はこの方です。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...