2017年4月16日日曜日

マルコによる福音書16:1-8「恐ろしい、だからこそ喜ばしい」


主イエスが十字架にかけれて三日目の朝、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人の女性は主イエスが納められた墓に向かいます。三日前、ご遺体をお清めする暇もなく葬られた愛する主のお体の世話をするためです。愛する者を奪われ、絶望しきっていました。主イエスの墓は大きな岩で蓋をされていました。彼女たちは互いに言います。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。その石は彼女たちの絶望そのものの象徴なのだと思います。岩のように大きくて、自分たちの力ではびくともしない。それは愛する者の死です。そしてそれを目の前に何もできなかった自分の無力です。主を十字架につけた自分の罪です。あの石を、誰が墓の入り口から取りのけてくれるのでしょうか。しかし、今朝はイースターです。私たちにはどうすることもできない岩が転がされてしまう日です。わたしが尊敬するカール・バルトという人がこんなことを言いました。「石は墓の入り口から転ばし除けられた。言葉は流れ出る。イエスは生きてい給う。」どうしたって動かないと思っていた石が転ばし除けられたとき、言葉が流れてきます。イエスは生きておられる、と。ここに私たちを絶望から救う望みがあるのです。彼女たちが石が転がされて入り口が開いていた墓の中に入ってみると、そこには白い長い衣を着た人がいて、主イエスのご遺体はそこになく、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言います。それを聞いて女たちは恐ろしくなり、墓からでて逃げてしまった。「イエスは生きてい給う!」・・・それは異常な知らせでした。初めて聞いた人は恐ろしくて逃げてしまいました。墓から溢れてきた言葉は、恐ろしい言葉だったのです。なぜ?異常な言葉だからです。常とは異なることだからです。墓が空になる。そんなことは恐ろしくて当たり前です。教会の墓所から骨壺が一つでも紛失したら、警察沙汰になるでしょう。異常なことです。「イエスは生きてい給う」、それは、異常な知らせです。私たちの常識から量ってみて、類推することができない事件です。ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコがこんなことを言ったそうです。「私たちの信仰は人間による理屈や予測、確信に基づくものではありません。」そして、真の希望が生まれるのは「もう希望は見いだせないと思われ、もう望むべきことは残っていないとさえ思われるときです」と続けた。更に真の希望は「信仰に根差し、まさにそれだからこそ、あらゆる希望を超えることができるのです」と教皇は強調し、その希望は神とその約束への信仰の上に成り立つからだ、と語ったそうです。その通りだと思います。イエスは生きておられ、あなたと出会いたいと願っておられる!墓で女たちはこうも言われました。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」わざわざ「ペトロに」と言っています。聖書は赤裸々に伝えていました、三日前にペトロが死ぬこと怖さに主イエスを見捨て、イエスを知らないと三度にわたって言い放ったことを。そのペトロに、今生きてられるキリストがあなたと出会いたいと願っていてくださると言うのです。ペトロにとってこの知らせは罪の赦しの知らせそのものです。主イエスが取りのけてくださった石の奥から、罪の赦しを告げるキリストの言葉が溢れ、流れてきています。

詩編第126編「思いもしない偉大な業」

この詩編はバビロン捕囚からの解放を背景としているのだろう。圧倒的な異国の力に押しつぶされ、解放など考えられもしなかった。しかし「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。」神の御業は我らの思いを遙かに超...