2017年11月26日日曜日

マタイによる福音書25:31~46「片隅で出会う王」

今朝の聖書の御言葉を、私はこれまでどこかで怖いと思ってきました。到底実現できないような無理難題をふっかける言葉だ、と。しかし、本当はそうなのではなくて、私たちを解放し自由にする御言葉なのだと気づきました。この箇所は、教会暦の最後である王であるキリストの主日に読まれることがあります。キリストが王でいらっしゃることを教えると考えられているのです。しかし、この世では私たちが王様です。特にお客様になったとき、私たちは王様になります。王様としてあらゆる権利を主張します。私たちは、お金を出す者があらゆる権利を主張できると思い込んでいます。先日、ある鉄道会社が電車が20秒早く出発したことを謝罪したそうです。私たちの社会は小さな王様たちの支配によって、かなりまずいことになっています。クレーマーという言葉はほとんど日常語になってしまいました。もう、私たちの社会は私たちのわがままに耐えられなくなっています。しかし、同時に私たちは「御国を来たらせたまえ」という祈りを主イエスから教えていただきました。神が王でいらっしゃる神の国が来ますように、と祈っています。私たちのわがままを聖書は罪と呼びます。わがままな王は怪物です。神に救っていただくというのは、神を王として迎えるということです。私たちは、本当に王としてあがめるべき方と出会うときに、人間らしさを取り戻すのです。神の国が来るときにキリストがなさるのは、今日の話によると裁きです。この裁きが私の心を重くしました。どう考えても、私は左側の羊の方にいるとしか思えないからです。祝福された人たちに該当するような愛の行いに生きてこなかった。でも、もしかしたら、その聖書の読み方は間違っていたかも知れない、と思います。王は言われます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」。これは、実はキリストが私にしてくださったことではないでしょうか。王は言われます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」最も小さい者の一人。私は、自分の小ささをよく知りませんでした。でも、本当は私は最も小さいのです。飢えていたり渇いていたりして、助けていただかないと生きられないのです。自分への過信を打ち砕かれる。しかし、それは実は救いです。使徒パウロはこのように言いました。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。(一コリ15:9)」自分の罪深さに震えている。いちばん小さな罪人、価値なき自分であることに気づいたとき、もうすでに私たちは救われています。怪物ではなくなるのです。主イエスのお姿を、私たちはそこで見ます。「『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。(ヘブ2:9)」低い者、これは小さいという字です。キリスト御自身が小さくなって、私のために死んでくださった。私たちの王は私たちのために十字架を玉座に、茨の冠を王冠に戴きました。このキリストを真似て、私たちは隣人のために小さくなる喜びに召されているのです。 

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...