2019年1月18日金曜日

2019年1月19日(創世記31)

今日の通読箇所:マタイによる福音書13:31~58、創世記31、詩編22

創世記31;
この章は、とても戦闘的な話です。伯父のラバンと駆け引きをし、対決するヤコブという意味でも戦闘的と言えますが、それ以上に主なる神様と異教の神との戦いの物語です。
ラバンは、主なる神様ではない、別の神々を信じていました。テラフィムという守り神の像を持っていた(19節。聖書協会共同訳では「テラフィム」と訳しています。)ことからも、それはよく分かります。しかし、ヤコブと娘たち家族が自分に何も告げずに家を出たことを知ったラバンに夢の中で語りかけたのは、ラバンが信じる神々ではなく、主なる神様です。「ヤコブとは、事の善し悪しを論じないように注意しなさい(24節)」。別の神々を信じる者にも、主なる神様は働きかけます。
それだけではなく、ヤコブはラバンのもとにいた20年間、ずっと神が自分を守っていてくださったことを信じています。「神はお父さんの家畜を取り上げて、私にくださったのだ(9節)」と、神様の守りを確信していました。
彼らがラバンの家を出て行くときに、ヤコブの妻ラケル(つまり、ラバンの次女)は父の守り神であるテラフィムを盗みました。後日ラバンはそのことで怒り、ヤコブ一行の荷物を改めることになります。その時、ラケルはテラフィムをラクダの鞍にしまってその上に座り、月経中であるからと鞍を調べさせないでやり過ごしました。この記述は異教の神をお尻の下に敷くという侮辱として書かれているのだと思います。それに対し、主なる神様は、この出来事の中で終始主導権を握っておられました。
こういう記事は、現代社会の中ではあまり受けがよくないと思います。もっと寛容に、異なる信仰に対する理解と尊敬が求められています。確かにそれはその通りで、自分と違う信仰だからといって頭から否定してかかることはふさわしくないと思います。しかし、他方では、この方こそまことの神であって、世界と歴史を支配しておられるのは確かなことです。確かに、私たち自身も私たちの確信も、相対的で不確かです。私たちはすぐに独善の罪を犯します。しかし、神様は相対的な方ではありません。この世界を造り、歴史を支配しておられ、私たちを救う力を持っておられる。だからこそ、私たちの救いであり、この世界の救いでいてくださいます。それは確かな真理です。

2024年4月30日の聖句

主よ、思い起こしてください、あなたの憐れみと慈しみを。それはとこしえからあるもの。(詩編25:6) しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れ...