2019年1月19日土曜日

2019年1月19日(創世記32〜33)

今日の通読箇所:マタイによる福音書14、創世32~33、詩編23

創世記32~33:
ヤコブが妻たちの実家を離れて、自分の父の家に帰ります。かつてヤコブはエサウを騙してひどい目に遭わせました。母の実家へ逃れたのはもう20年も。しかし、ヤコブはあのときを忘れていません。今でも兄が怒り続けているはずだと確信していました。
その怒りから逃れるための策を講じます。たくさんの贈り物を用意して自分よりも先に行かせ、またたくさんの家族や僕たちと一緒に帰りましたが、その歩く順番も念入りに考えました。「ヤコブは、子どもたちをそれぞれ、レア、ラケル、二人の召使いの女に振り分けた。すなわち、召使いとその子らを先頭に、レアとその子らはその後に、そしてラケルとヨセフを最後に配置した。(33:2)」兄が怒って襲ってきてもいいように、大切なものがより後ろに来るように配置したのです。
ヤコブが実際にエサウに再会したとき、彼は言いました。「私は神の御顔を見るようにあなたの顔を見ております(33:10)」。この言葉をどう受け止めたらいいのか、私はよく分かりませんでした。白々しい、大げさな言葉のようにも聞こえます。
この「神の御顔」というのは、実は大切な言葉です。第32章の後半で、ヤコブは何者かと格闘します。股関節に一撃を食らって足を引きずりながら、ヤコブは「祝福してくださるまでは放しません」としがみつく。この格闘の相手が実は神様ご自身だと気づいたのです。この格闘の後、ヤコブはその場所をペヌエルと名付けました。これは「神の顔」という意味の名前です。この格闘の翌朝、エサウに向かって「私は神の御顔を見るようにあなたの顔を見ております」と言ったとき、ヤコブはどういう気持ちだったのでしょうか。白々しいリップサービスなのか、昨晩格闘し向き合った神の顔をなお見続けていたのか。
そう考えながらここまで読み進めて、気づいたことがあります。格闘の前、32:22では「こうして、贈り物は彼より先に行き、彼自身はその夜、自分の宿営地で一夜を過ごすことにした」と、自分は安全な最後尾に残っています。ところが格闘の後、33:4では「ヤコブは先頭に進み出て、兄に近づくまで、七旅地にひれ伏した」と、一番リスクが高い先頭を進みます。ヤコブの位置が変わっている。やはり、これは神様との格闘によって変わったことなのではないか。そうとしたら、「神の御顔を見るかのように・・・」というのも白々しいでまかせではなく、神との格闘がなお続いている者としての言葉だったのかもしれません。
今朝の御言葉は、私たちの人間関係の悩みの中で、人と向き合うためにはまず神と向き合い、神と格闘すべき事を伝えているように思います。

2024年5月17日の聖句

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