2019年3月17日日曜日

コリントの信徒への手紙一10:14-22「あなたは誰の食卓につくのか」


 「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」と始まっています。偶像礼拝ということですが、思い出すのはイスラエルの人々がエジプトを脱出したとき、荒れ野で金の子牛を造った事件です。7節にもそのことが書かれています。先日ある人から、どうして「子牛」の像だったのかと質問されました。調べてみたらある注解書でこのように説明していました。「古代メソポタミアでは子牛は豊穣と多産の象徴であった。」なるほどと思います。しかも、出エジプト記を見ると、彼らは金の子牛で主なる神様の像を造りました。主なる神様に豊穣と多産という自分たちの願望を押しつけたのです。結局、偶像というのは神様に自分の一方的な要求をぶつけ、あるいは欲望を保証するための装置なのです。偶像は単に像であることが問題である以上に、人間の願望や欲望の正当化であり、人間の願いの数だけ様々な顔を持つ神々が造り上げられるところが問題なのだろうと思います。
 その偶像礼拝を避けなさいとパウロは言いました。逃れの道があるからです。どこへ避けるのか?「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と言い出します。どうしたら偶像礼拝を避けられるのか?その逃れの道は聖餐に準備されている、と言うのです。
 「あずかる」という言葉が二回繰り返されていました。この言葉は、原文のギリシア語では「コイノーニア」という単語が使われています。普通は「交わり」と翻訳されます。聖餐に与るとき、私たちはキリストの血や肉と交わります。その意味を、ハイデルベルク信仰問答の76ではこのように言い表しています。「その意味は、ただに我々が信仰の心をもってキリストの苦難と死とのすべてを受けいれ、それによって罪のゆるしと永遠の生命とを獲るだけではなく、それに伴って、キリストの内にも我々の内にも住む聖霊によってますます主の祝福された御体と一つになり、かくして主は天にいまし我々は地上にいるのではありますが、しかもなお我らの主の肉の肉、主の骨の骨となって、一つの霊によって、あたかも我々の体の枝々が一つの魂によっているように永遠に生き、支配されるようになることであります。」つまり、神御自身の霊によって、パンと杯と交わる者を神の御心に適う者とし、神の御業のために用いてくださるということでしょう。
 20節を見ると、偶像礼拝の問題の本質は悪霊だと言われています。私が私の願望や欲望に従うとき、いつの間にか悪霊の虜になってはいないかと言うのです。私だけではなく、この社会そのものが、深く悪霊の虜になってはいないでしょうか。ニュージーランドで起きたヘイトクライムを背景とした銃撃事件と同じ病巣は、日本社会も蝕んでいるのではないか。私たちが自分の欲望の偶像に屈するとき、実は悪霊の仲間(コイノーニア)になっている。私たちはキリストの血と肉との交わりに生きるか、悪霊との交わりに生きるか、どちらかしかないのです。それに対し、神様は私たちをねたむほどに求めておられます。神様の愛は、本当に激しいのです。そうであるからこそ、キリストが十字架にまでかかった。そこで裂かれた肉と流された血へと、あなたも招かれています。

2024年5月4日の聖句

あなたがたは豊かに食べて満ち足り、あなたがたの神、主の名をほめたたえる。(ヨエル2:26) イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。(マルコ6:41~42) 「我らの日用...