2019年5月26日日曜日

コリントの信徒への手紙一第12章31節bから第13章13節「愛がなければ、無に等しい」


 昨日、たまたま車の運転中に付けていたテレビで、高校生の合唱コンクール(Nコン)を聞きました。課題曲の練習風景を放送していました。なかなか意欲的な曲で、ラップのパートや手拍子も入っていました。私はあまり合唱に詳しくないので、そういうものもあるのかと半ばびっくりしながら聞いていました。合唱しているときの手拍子は、きっと、皆で心を合わせてすることができればうつしいう他声を支える力を持つのだろうと思います。そうでないと、却って悪目立ちしてしまうことでしょう。今朝の御言葉の中には「わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」という言葉が出てきます。どらやシンバルのような打楽器は、合奏団の中での調和がとれていれば、ほんとうに美しい楽器です。しかし、その響きをかき消してしまうような演奏になっては、音楽全体が台無しです。「たとえ、人びとの異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら…」。異言というのは、他の人には理解できない特別な祈りです。神に向かって語られる言葉です。パウロは、異言はその人自身を造り上げるのに役立つと認めています。しかし、他人に向かう言葉ではない。それが愛を欠くとき、独りよがりになってしまいます。独りよがりの祈り、独りよがりの熱心、独りよがりの言葉、独りよがりの正義。それは、全体のハーモニーを台無しにしてしまいます。
 2節に登場する「預言」は、今の教会の言葉で言えば説教のことです。これは異言とは違い、人に向かって話しています。通じるべき言葉です。しかも、ここでパウロが言っているのはあらゆる神秘とあらゆる知識に通じるような預言です。それが愛を欠くことがある。説教が下手くそだから分からないというのではありません。愛がなければ、無に等しい、意味のない言葉になってしまう。
 山を動かすほどの信仰、というのも出てきます。これは主イエスご自身の言葉が思い起こされています。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。(マタイ17:20)」最初に「信仰が薄いからだ」と言っているのは、弟子たちが病気の子どもをいやせなかったのはなぜでしょうかと問うたことへの答えです。あなたたちの信仰が薄いから、隣人をいやすことができなかった。これとは逆に、私が疲れ果てて精も根も尽き果てるようなとき、他の人の信仰によっていやされることがあります。もう一度立てるようにして頂ける。そういう信仰の出会いがある。しかし、そんな隣人をもいやす完全な信仰に、愛を欠くことも起こりうると言います。驚くべき言葉です。それどころか、3節を見れば、全財産を貧しい人のために使い尽くしたり、自分の命さえも死に引き渡してしまう、そんな愛の局地と言えるような献身にさえも、愛を欠くことがあると言うのです。愛がなければ、何の益もない。どんなに優れた言葉も信仰も献身も、愛がなければ無に等しい。パウロはそう言うのです。
 そのことを思うと、私たちの罪というのは、何か悪いことをしたということ以上に、愛にまったく不能なこの現実のことなのです。キリストは、ご自身には何の益もなく、何の得もないのに、このような私を愛し、私のために十字架にまでかけられた。この愛無しでは、生きられないのです。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...