2019年5月25日土曜日

2019年5月25日(サムエル記上15〜16)

今日の通読箇所:ルカによる福音書21、サムエル記上15~16、ヨブ記5

サムエル記上15~16;
主はサムエルに命じ、サウルを遣わしてアマレク人からイスラエルを救おうとされました。その際、サウルに「さあ、行って、アマレクを討ち、アマレクに属するものはすべて滅ぼし尽くしなさい。容赦してはならない(15:3)」とお命じになったのです。ところが、サウルはこの点で不忠実でした。「彼はアマレクの王アガグを生け捕りにし、その兵をことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。しかし、サウルと兵はアガグと、初子でない羊と牛の最もよいもの、それに小羊など、良いものはすべて惜しくなり、滅ぼさないで、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした(8~9節)」。
その時、主なる神様はサムエルにおっしゃいます。「私はサウルを王に立てたことを悔やむ。彼は私から離れ去り、私の命令を実行しなかった(11節)」。このため、サムエルも心を痛めました。サムエルはサウルに指摘します。「主が喜ばれるのは、焼き尽くすいけにえや会食のいけにえだろうか。それは主の声に聞き従うことと同じだろうか。見よ、心して聞くことは雄羊の脂肪にまさる。・・・あなたが主の言葉を退けたので、主はあなたを王位から退けられた(22~23節)」。
サウルは、なぜ、主の言葉に従わなかったのでしょうか。戦利品を自分のものにしたかったのでしょうか。それもあったかもしれませんが、それ以上に、人目を気にしたのです。「私は主の命令とあなたの言葉を軽んじて罪を犯しました。兵を恐れるあまり、彼らの声に聞き従ってしまいました(24節)」。人の評価を基準としたとき、私たちも全く同じなのではないでしょうか。
主なる神様はサムエルに命じ、サウルに代わる新しい王をお立てになります。そのためにエッサイの家に遣わされました。始めにエッサイの長男を見た。彼もまた美男子だったようです。しかし、主は言われます。「容姿や背丈に捕らわれてはならない。私は彼を退ける。私は人が見るようには見ないからだ。人は目に映るところを見るが、私は心を見る(16:7)」。こうして、エッサイの7人の息子たちが退けられ、最後に残った末息子のダビデが主に選ばれ、イスラエルの新しい王になっていくことになります。
主がご覧になる私たちの心とは、一体なんでしょう。ただ神を畏れ、その言葉にだけ従うことではないでしょうか。人の目や評価、自分の目に映るところではなく、神とその御言葉に従って生きることを、主は望んでおられるのではないでしょうか。ダビデは、そのような信仰者だったのです。-

2024年4月24日の聖句

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