2020年1月20日月曜日

2020年1月20日(マタイによる福音書15)

マタイによる福音書15;
「こうして、あなたがたは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」主イエスは、そのように厳しく指摘します。実際、どういう神の言葉を無にしているのか。聖書には「父と母を敬え」と命じられています。しかし、「父または母に向かって、『私にお求めのものは、神への供え物なのです』と言う者は、父を敬わなくてもよい」と言っている、というのです。
この戒めに限らず、私たちは聖書を読むとしばしば自分勝手な「例外規定」を決めてしまいます。確かにこの言葉は大切だけれども、いつでもそれを完璧に守られるわけではない。こういう場合には仕方がない。あるいは、表面的にはこう書いてあるけど、本当はこういう意味なのだ、といって割引をしてしまう。主イエスが指摘した例では、本当に大切なことは神を礼拝することであって、そのためならば父母を敬えない場合もあり得る、という例外を造り出す。そうすると、結局、恣意的に例外を引っ張り出してきてもともとの言葉を無効化してしまいます。神様の御心を勝手に忖度して、結局自分のしたいことをする、したくないことはしない。そうすると、自分は変わらないで済んでしまいます。
ですので、私は、主イエスのこの言葉は厳しいと思いました。旧約聖書の言葉を引用しておられます。「この民は、唇で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。空しく私を崇め、人間の戒めを教えとして教えている。」私たちの心の中から溢れてくるものは、悪いものです。「口から出てくるものは、心から出て来て、これが人を汚すのである。悪い思い、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、冒瀆は、心から出て来るからである。これが人を汚す。」
ですので、次に出て来るカナンの女の話は、大変示唆的です。カナンの女(つまり、異邦人の女です)が主イエスに懇願します。「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」しかし主イエスはおっしゃいました。「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない。」それに対し、彼女はさらに言います。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」主イエスは聞いて「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言ってくださいました。
彼女は、主イエスの前に出ることのできない自分だとよく知っていました。自分は信じるにも祈るにもふさわしい人間ではない。神様に何かを願えるような私ではない。それでも、そんな汚れた私、心の中から出て来るのはろくでもないものでしかない私を、そのまま主イエスに差し出しました。娘のために。その願いを、主イエスは受け止めてくださいました。
私たちは、主イエスの前に、小犬のような存在なのではないでしょうか。堂々と胸を張って主の前に出られるようなものではない。聖書を読めば言い訳ばかりだったり、何か理屈をこねて神様に従おうともしない。しかし、そんな私を救いうる方がただひとりだけここにいてくださる。だから、一皮むけば汚れたものばかり溢れてくるのだとしても、その私を主にお委ねしましょう。祝福をいただくための熱心を、主イエスは喜んで受け入れてくださいます。--

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