2020年2月26日水曜日

2020年2月26日(ローマの信徒への手紙14)

ローマの信徒への手紙14;
「従って、もう互いに裁き合うのはやめましょう。」
パウロはそのように言います。人を簡単に裁いてしまうというのは、私たちの重い病気のようなものであるかもしれません。後になってよくなかったと思うことはあっても、裁くようなことを口にしているときには、こんなに強い快感を覚えることは他にはありません。誰かと会って噂話をしてその人を裁いてみせることも、テレビに座って、不倫や薬物で失敗した有名人を裁くことも、とどまることを知らない。そんな醜悪な言葉を吐いている自分をビデオにでも撮って後から見せられたりしたら、そんなに恥ずかしことはありません。頭ではそう分かっていますが、舌を制するのは本当に難しいことです。一体どうしたらいいのでしょうか。
やはり、キリストを見上げることなしには、それは不可能です。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、きょうだいを裁くのですか。また、なぜ、きょうだいを軽んじるのですか。」きょうだいを裁いてはならないということの根拠は、キリストが死に、そして生きたことだと言います。やはり、この事実から始めないと、どうしようもないようだと思います。キリストの死と復活の事実こそが、揺れ動き不安定な私たちの、変わることのない不動点、常に確かめるべき基準点です。
ここでは具体的に、食べ物のことが問題になっています。コリント教会と似たような問題があったのでしょう。偶像に備えられた肉を食べても良いのか?偶像の神なんてそもそもいないので、ただの肉として感謝して食べればそれでよろしい。論理的な話の筋としてはそうなりますが、それによって躓く人もいました。肉を食べる人たちは、弱い人たちを裁きました。パウロの考える筋道は、偶像の肉を食べることが正しいか間違っているかということではありません。「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人に信頼されます。だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。」「きょうだいが心を痛めているなら、あなたがたはもはや愛に従って歩んではいません。食べ物のことで、きょうだいを滅ぼしてはなりません。キリストはそのきょうだいのためにも死んでくださったのです。」キリストがこの人にしてくださったこと、そして、それゆえに私は何をすべきなのか。それがパウロの考える人間関係の基準です。

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35) イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42) 十字架にかけられた一人の罪人が主イ...