2020年2月27日木曜日

2020年2月27日(ローマの信徒への手紙15:1〜13)

ローマの信徒への手紙15:1〜13
「私は言う。キリストは神の真実を現すために、割礼のある者に仕える者となられました。」
パウロはこの手紙で、一貫して、割礼によらない福音を伝えてきました。人は割礼を受け、律法を守ることによって義とされるのではない。神の恵みによって、キリストの真実によって救われるのだ、と。つまり、神様の救いの御業には、異邦人もユダヤ人も与ることができる、と訴えてきました。これまでは異邦人は割礼を受けなければならないとされていました。つまり、先ずユダヤ人になったら救いの条件が整えられる、ということになります。しかしキリストの十字架の御業は、どんな人にも条件なく神様の救いを届ける出来事です。だから、キリストがいてくださるから、異邦人ではない私たちも神様の御許に招かれたのです。
しかし、キリストは異邦人だけではなくユダヤ人にとっても主です。割礼あるものにとっても、キリストは救い主です。主イエスは本当に自由な方だと思います。もしも私が救い主の立場だったとしたら、割礼なしの救いというものを打ち立てたら割礼ありの者は排除してしまうような気がします。しかし、主イエスは割礼の有無にこだわらずに、神の愛を届けてくださいました。主イエスは言われます。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする(ヨハネ8:32)」。主イエスの自由は、愛の自由です。私たちをどんな者でも、条件なしに愛する自由です。
だから、この愛を頂いている者として、パウロは私たちに勧めました。「私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。おのおの、互いを築き上げるために善を行い、隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自身を喜ばせようとはなさいませんでした。」私たちも愛する自由に招かれています。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...