2020年3月20日金曜日

2020年3月20日(マルコによる福音書3:20〜35)

マルコによる福音書3:20~35;
『イエスが家に帰られると、群衆がまた集まってきて、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからである。エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。』
主イエス・キリストが神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病に苦しむ人々を癒やすと、家族はそこに来てやめさせようとし、エルサレムから来た偉い先生たちは悪霊に取りつかれていると言います。主イエスの評判はすこぶる悪かったようです。それは、主が、本当に、本気で神の国を宣教していたからに他なりません。なんとなくやっていれば、なんとなく受け入れられていたことでしょう。しかし主は本気でいらしたから、周りの者も本気になってそれを止めようとしたのではないでしょうか。
使徒ペトロが、あるとき、コリント教会への手紙にこのように書きました。「彼らはヘブライ人なのか。私もそうです。イスラエル人なのか。私もそうです。アブラハムの子孫なのか。私もそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、・・・。」コリント教会に、反パウロ派の人がいた。その旗印になる指導者がいたようです。彼らはヘブライ人であること、イスラエル人であること、アブラハムの子孫であることを誇り、自分は正統的なキリストの弟子だとスマートに言ったようです。パウロは、スマートではありません。気が変になったようにして、自分はキリストの弟子だと言います。そのしるしは、彼がキリストのために苦しんだことです。コリント教会の人からしてみれば、パウロの苦しみの経験は、彼の指導者としての資質に疑問符をつけるものでした。スマートな指導者を求めていました。ところがパウロは、気がおかしくなるようにして苦しみつつキリストの弟子として生きたのです。なぜなら、キリストご自身がその道を歩まれたからです。
私たちは、賢くキリストの弟子として生きることはできません。時には家族や世間から後ろ指さされることもあるかも知れない。しかし、聖霊なる神様が私たちと共に働いてくださいます。神の国を、私たちの口や手足を通して実現してくださいます。キリストの愛の支配する国を、私たちの間にもたらしてくださる。その約束は、確かです。だから、これに懸けてよいのです。

2020年3月29日(マルコによる福音書8:1〜21)

マルコによる福音書8:1~21; 「弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせがなかった。その時、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい』と戒められた。そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始...