2020年5月7日木曜日

2020年5月7日(ルカによる福音書10:25〜42)

ルカによる福音書10:25~42
主イエスは、マルタとマリアの家に入り、話をしておられました。一体、どういう話をなさったのでしょう。25から37節には、憐れみ深いサマリア人の譬え話が登場します。主イエスはたとえ話の名人とよく言われますが、私はこの話は主イエスの本領がまさに発揮されていると思います。マルタとマリアの家でも、もう一度この話をなさったのでしょうか。ルカがここに至るまで記録してきた主イエスのいろいろな話を、この家でも改めてなさったのか。その話の内容は私たちには分かりませんが、それは、なんとも素晴らしい時間であったに違いありません。
ところが、この家のマルタはイエスのため、あるいはその一行のため、もしかしたらイエスの話を聞きに来た村の人々のもてなしのために忙しく立ち働き、イエスさまの話を喜久井と間もなかったようです。のんきにイエスの足元に座って話に聞き入っているマリアが気に入らず、イエスさまに訴えました。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
マルタの言い分は、私たちにも気持ちとしてはよく分かります。加えて、当時の文化的な背景もあると思います。当時は、イエスさまのような先生の話を聞くのは男だけで、女が足元でその話を聞くというのは考えられないことでした。そうすると、社会的にもマリアの振る舞いは非常識ということになります。
しかし、主イエスはマルタに言います。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」主は、マリアが選んだものが必要なただ一つのこと、良いものだ、と言います。もちろん、そこにはマルタにもそちらを選んでほしいという招きも含まれていることでしょう。この言葉は、私たちへの問いです。
あまりむやみな外出をするな、と言われています。そうであれば家にいる時間を活用してゆっくり聖書を読み、祈りを長くできればよいのでしょうが、却って難しいというのが実感です。マリアの選んだ方は、案外簡単なことではない。はっきり言って難しいと思います。これに対し、マルタの選んだ方が、不満が残るにしても安心できるのではないでしょうか。自分で成し遂げいている実感を得やすいからです。主は、私たちの手の成果を一度中断して、主の御前に御言葉に一心に耳を傾けるようにと言われます。そのときにこそ主の御言葉の前で初めて私たちの目にも隣人の姿が映り、憐れみの心が突き動かされる奇跡が始まるのかも知れません。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...