2020年7月15日水曜日

2020年7月15日(ヨハネによる福音書4:1〜30)

ヨハネによる福音書4:1~30
「私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝するときが来る。」

主イエスとサマリアの女との対話です。サマリア人は、かつて旧約の時代にイスラエルが南北に分裂した内の北王国の末裔に当たります。彼らの信仰の中心地であるエルサレムは南王国にありました。南の人たちは北の人たちをエルサレムではないところで礼拝している曲がった信仰の持ち主、と見なしていました。北の人たちにすれば、南の人たちこそ鼻持ちならない宿敵だったに違いありません。エルサレムという場所を巡って、彼らには大きな確執がありました。サマリアの女にしてみれば、神様をエルサレムで礼拝するべきだと言われた途端に、自分とは関係のない話、自分を阻害する話になってしまいます。
キリスト教は西洋の宗教だ、とよく言われます。そこには、もしかしたらサマリアの女と似たような阻害された感覚があるのかも知れません。自分とは関係のない話、外国の話。日本人だから関係がない。そうすると、自分を培ってきたアイデンティティと相容れない宗教の話ということになります。
主イエスは「あなたがたが、この山でもエルサレムでのない所で、父を礼拝するときが来る」と言われます。この山でもエルサレムでもない所です。西洋でも東洋でもない。ヨーロッパでも日本でもない。もちろん、どこでもない架空の場所というわけでもありません。「場所」や「歴史」、「文化」に寄りかかるのではない礼拝が始まる、と言われたのだと思います。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」父なる神様が、ご自分を礼拝する者を求めておられるから、だから、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る、と主は言われます。私たちのアイデンティティや文化、歴史、場所が問題なのではなくて、礼拝する者を求める神様が問題になっています。霊と真理をもってというのは、神様ご自身の促しによって、ということであろうと思います。
ここでは、礼拝の質が全く新しいものになっています。私たちのニードや、これまでの背景が礼拝を造り出すのではなく、神様が礼拝する者を招集するから、礼拝が始まる。それはエルサレムなのかサマリアなのか、西洋なのか日本なのかといいう問題ではありません。神様の招集に、今、あなたにも応じてほしい。主イエス・キリストが私たちに呼びかけておられます。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...