2020年12月15日火曜日

2020年12月15日(ヨハネの黙示録15)

ヨハネの黙示録15
「また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りが頂点に達するのである。」
「そして、四つの生き物のうちの一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りで満たされた七つの金の鉢を、この七人の天使に与えた。すると、神殿は神の栄光とその力から立ち上る煙に満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰もその中に入ることができなかった。」

この次の第16章には、恐るべき七つの災いが描かれています。天使がその災いを携えてきました。これらの災いにおいて、神の怒りが頂点に達すると言われています。この災いをもたらす神の力のために、神殿の中に誰も入ることができなかった。私たちも、この神の怒りが下される地上に生きているわけですから、この災いは決して他人事ではない。厳しい言葉です。
関東大震災の時、当時の教会はこの災害を神の裁きだと受け止めたそうです。神の前に私たちは悔い改めなければならない、と。しかし現代の教会はそういうことを殆ど語りません。少なくとも、私が知っている限りでは。これはとても難しく、またデリケートな問いです。人間の力ではどうすることもできないような災いが起きたとき、その意味を誰もが問う。教会も問う。そのようなときに、教会は何を語りうるのか。早計な言葉を決して口にするべきではありません。災害に遭った人に罪があった、病気になった人は特に罪深かったなどと決して言ってはならない。(主イエスご自身がルカ13:4,5で言っておられます。)大正時代の教会がそのような意味で神の裁きを考えていたのではないことは明らかです。真剣に、自分事として、神の前に悔い改めていた。
今回のコロナのことを考えてみると、人間社会の行きすぎた有り様が無関係ではないと思います。自分の欲望の実現を第一の善とし、弱者から収奪する社会を私たちは改めなければならないですし、それが神の前に謙遜であることをやめた私たちの生き方の結果だということは真剣に考えなければならないと思います。
繰り返します。神の怒りがもたらす災いは、「私たち」が生きるこの世界に注がれました。私たちを避けては通らないし、私たち自身の罪がそこで問われています。私たちもこの世界の子、この時代の子として、神の御前に自分たちの罪を見つめないわけにはいきません。主よ、救ってください。主よ、来てください。私たちはただひたすらに、私たちの一万タラントンの罪を帳消しにしてくださったキリストの憐れみにすがる。生き方を変えて神の許に帰る。私たちの、そしてこの世界の救いは、ただキリストにあるのです。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...