2021年4月21日水曜日

2021年4月21日(詩編115)

詩編115
なぜ国々は言うのか
「彼らの神はどこにいるのか」と。
私たちの神は天にいまし
御旨のままにすべてを行われる。(2~3節)

銀や金で造った神々を崇拝している人々が言うのです。「彼らの神はどこにいるのか」と。どういう状況で献げられた祈りの詩編なのかはよく分かりませんが、何らかの理由で銀や金で造った神々を礼拝している者たちから責められたり、馬鹿にされたり、虐げられたりしていたのであろうと思います。主なる神様を信じること、あるいはそもそも神さまを信じるということ自体、それは作り話の空想だとか、意味がないとか、怪しい特殊な人のすることだとか、自分たちとは関係のない西洋の宗教だとか、いろいろなことを言う人、いろいろな目で見る人がいます。この詩編も、そういう時の祈りの言葉なのではないかと思います。
銀や金で造った神々は偶像だと詩編作者は言います。銀や金で造ったというのは、そういう豊かさを求める人間の願望や欲の繁栄です。それは人が造ったものに過ぎない。人が造ったものは神ではない。だから、「口があっても語れず、目があっても見えない。…それを造り、頼る者は皆、偶像と同じようになる」(4~5,8節)。預言者エレミヤが言ったとおり、空しいものの後を追えば空しい者になってしまう。
だから、はっきりとした態度を示すのです。「イスラエルよ、主に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾。」銀や金で造った神々がどんなに豪華でありがたそうに見えたとしても、よしんば拝む者にとって御利益があったとしても、そのようなものを拝みはしない。主なる神様こそ、私たちの助けだからです。私たちの救いは、主にかかっています。だから、言います。「主が私たちを思い起こし、祝福してくださるように」と。ほかの何者をも頼ることなく、ただ主なる神様だけを頼り、この方に救いを求めて祈る。誰に馬鹿にされたとしても、嘲られたとしても、主を誇り、主を信じ、主の救いを仰ぐのです。
だから、この詩編の冒頭では言っていました。
「主よ、私たちにではなく
私たちにではなく
あなたに名にこそ、栄光を与えてください
あなたの慈しみとまことのために。」
私たちに栄光が与えられるのでは、意味がないのです。それでは結局私の誉れや願望の実現が救いの要になってしまいます。そうではなく、主なる神様の慈しみの確かさが明らかになり、主の愛に栄光があることこそが、私たちのまことの救いに他ならないのです。

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