2021年8月2日月曜日

2021年8月2日(コヘレトの言葉7:1〜22)

コヘレトの言葉7:1~22
幸せな日には幸せであれ。
不幸な日にはこう考えよ。
人が後に起こることを見極められないように
神は両者を造られたのだ、と。(14節)

とても卑近な例ですが、この一週間私は腰痛に悩まされていて、小さな不幸の日々を過ごしています。腰が痛くなると「腰」というこの漢字はよくできているといつも思います。コヘレトにとっては幸せな日に幸せを楽しむのはふさわしいことですし、逆に不幸な日の過ごし方も知っているのだ、と言うのです。不幸な日には「人が後に起こることを見極められないように、神は両者を造られたのだ、と」考えよ、と言います。私たちはいつ、何が、どう起こるのかは分かりません。後に起こることについて私たちは無知です。後になって振り返ってみることしかできません。そして、後になって振り返ったときに、不幸だと思っていた出来事が奇貨となって別のよい意味を持つことがあるのです。神さまがどの出来事をどのように用いるのか、私たちには分かりません。それは神さまの範疇なのだから、幸か不幸かで一喜一憂するのではなく、神さまにお任せして今を楽しんで生きよ、とコヘレトは言います。


あなたは義に過ぎてはならない。
賢くありすぎてはならない。
どうして自ら滅びてよかろう。
あなたは悪に過ぎてはならない。
愚か者であってはならない。
あなたの時ではないのに、どうして死んでよかろう。(16,17節)

私はこの言葉が好きです。聖書が教える人間関係の極意、という感じさえ受けます。義に過ぎたり悪に過ぎたりしてしまうのは、自分が絶対だという思い込みから始まるのかも知れません。本当は「あなた自身が何度も他人を呪ったことを、心は知っているはずだ(22節)」と言うとおりで、私は絶対でも何でもなく、正しくないのです。今日の御言葉は、神さまの前にある私たちの小ささを気付かせる言葉だと思います。

2024年4月30日の聖句

主よ、思い起こしてください、あなたの憐れみと慈しみを。それはとこしえからあるもの。(詩編25:6) しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れ...