2021年8月1日日曜日

2021年8月1日(コヘレトの言葉6:1~12)

コヘレトの言葉6:1~12
太陽の下、私はある災いを見た。それは人間に重くのしかかる。神が富と宝と栄誉を与えて、望むものは何一つ欠けることのない人がいた。だが、神はそれを享受する力をその人に与えず、他の人がそれを享受することになった。これも空であり、悪しき病である。(1~2節)
空である短い人生の日々に、人にとって何が幸せかを誰が知るのだろう。人はその人生を影のように過ごす。その後何が起こるかを、太陽の下、誰も人に告げることができない。(12節)

太陽の下、コヘレトがみたある災い。これは第4章などで「私は再び太陽の下で行われるあらゆる虐げを見た」と言っているのに対応しています。この社会の虐げや不正を見たコヘレトが、今度は災いを見つめている。人間に重くのしかかるその災いとは、いかなるものなのか。このように言います。
「神が富と宝と栄誉を与えて、望むものは何一つ欠けることのない人がいた。だが、神はそれを享受する力をその人に与えず、他の人がそれを享受することになった。」
神さまがせっかく富と宝と栄誉を与えてくださったのに、その人はそれを享受する力を持たなかった。結局、他の人がそれを享受することになった、と言います。何を言っているのでしょうか?小友聡というコヘレトの言葉の研究をしておられる先生によると、この言葉の背景には「黙示批判」がある。私なりに言い換えると、死後の救いばかりに心を奪われて極端な禁欲をし、この世の楽しみをまったく否定する人たちがいた。コヘレトは彼らの考え方の誤りを指摘している。小友先生がおっしゃっているのはそういうことだと思います。
コヘレトは食べたり飲んだりする楽しみを肯定します。「人の労苦はすべて口のためである。」ただし、ただ美食を楽しんで放埒に生きるというのでもない。「だが、それだけでは魂は満たされない。」それではどうしたら良いのか?「空である短い人生の日々に、人にとって何が幸せかを誰が知るのだろう。」ある人たちはよの楽しみを否定し、あるいはその価値を認めずに禁欲に心を傾けます。しかし食べる物も飲むものも神が造った良いものであって、神に与えられたものとして感謝して受けるのであれば、すべては良いものであるはずです。だからコヘレトは言います。「神が富と宝と栄誉を与えて・・・」と。神が与えてくださったものとして感謝して受けるということが大切なのです。神に与えられた人生の中で、神に与えられた楽しみを喜ぶ。コヘレトはその尊さを私たちに伝えます。神さまに頂いたものとして、私たちの小さな楽しみも神の祝福の内にあるのです。

2024年5月4日の聖句

あなたがたは豊かに食べて満ち足り、あなたがたの神、主の名をほめたたえる。(ヨエル2:26) イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。(マルコ6:41~42) 「我らの日用...