2023年2月27日月曜日

2023年2月27日の聖句

主は来られる、地を裁くために。主は義によって世界を裁き、もろもろの民を公平に裁かれる。(詩編98:9)
主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。あなただけが聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しい裁きが明らかにされたからです。(黙示録15:4)

私たちが告白している使徒信条には、主イエスが神の御許から再び私たちのところへ来られ、生きている者と死んだ者とを裁かれるという告白があります。私たちはキリストが再び来られること、そして裁きをなさることを信じています。
昨日の日曜日の礼拝では「御国を来たらせたまえ」という主の祈りの言葉に集中をしました。御国を来たらせたまえ、それは主なる神様が私たちのところへ来られて私たちの王となられるということです。王として、主は何をなさるのか。裁きをなさる。聖書はそのように言います。キリストの裁きが行われる。
私は、まだ裁判を経験したことがありません。しかし何かあった時に公正な司法手続きが行われるという信頼は、社会にとってとても大切なものだということはよく分かります。過ちを犯してしまえばそれが裁かれ、適正な償いと更正の措置がなされる。もしもそうでなければ、悪いことをしても野放しだったら、あるいはある特定の人だけがお目こぼしにあずかるのだとしたら、社会の正義への信頼は崩れてしまいます。そうなったら、社会の秩序も保てなくなってしまう。
ですので、例えばスピード違反でなぜか自分だけが狙い撃ちにされているとなれば納得がいかないし、警察検察が悪いことをしているはずの偉い人を放っておいていると見るとすごく厭な気持ちになります。
主イエスの王としての裁きは義による裁きであり、もろもろの民への公平な裁きだと言います。主イエスは世界の王として私たちを公平に裁かれる。神の義によって裁かれる。私たちの尺度ではなく、私たちの好みや限られた情報によってではなく、主がご自身の義と公正をもって裁きをなさる。そのことに私たちは信頼していい、と聖書は言います。
私たち人間の営みは疵だらけです。不完全です。裁きも、やはり不完全です。しかしキリストの裁きはそうではない。だから、正義を信じる純粋さをもちたいと思います。そして、キリストの正義はご自身が十字架にかけられたことによって貫かれたことを、心に刻みましょう。キリストの御名に、私たちの救いが確かにあることを信頼しましょう。

2024年5月6日の聖句

災いの日に、主は私を仮庵に隠し、幕屋の隠れ場にかくまってくださる。(詩編27:5) 主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3) 私たちの神さまは、災いの日に私たちをかくまい、私たちを守ってくださるお方です。どんな災いにも打ち勝ち、ど...