2023年12月30日土曜日

2023年12月30日の聖句

(自分を誘惑したポティファルの妻へのヨセフの言葉)「一体どうしてそのような大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょう。」(創世記39:9)
神は私たちを汚れた生き方ではなく、聖なる生き方へと招かれました。(1テサロニケ4:7)

性的な意味でも、その他の欲においても、現代は不道徳な時代だとよく言われるような気がします。確かにそれはその通りなのでしょうが、しかし他方では、いつの時代も変わらないことのようにも思います。
今日の旧約聖書の御言葉は、ヨセフという若者がポティファルという主人の家の奴隷として働いていたときのことです。主人の妻がヨセフを気に入り、ちょっかいを出した。不倫に誘い込もうとしました。こういうことは、洋の東西を問わず、あるいは時代に関係なく、どこででも起きていることのようです。そして、そういう関係がどこかロマンチックで魅力的なもののように言われるのは、人間の宿痾のような習性であるのだと思います。
ところがヨセフは彼女に調子を合わせることなく言いました。「一体どうしてそのような大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょう。」その結果ヨセフはかなり困った状況に追い詰められることになってしまいますが、それはまた別の話。今日はこのヨセフの言葉そのものを考えたい。
ヨセフは、神様の御前で生きていました。神さまが自分をどのようにご覧になるかという一点に関心を持っていたようです。目の前にいる女主人の機嫌や、若者である自分の肉体的な欲求とか、その場の空気や雰囲気、そういうものに流されなかった。それは彼が特別に倫理的で高潔な人物であったから、というわけではななかったと思います。ポティファルの家に行き着くまでのヨセフの歩みを見てみると、そのことはよく分かります。彼は家族に対してずいぶん失礼な振る舞いをしてきました。しかしここに至ってヨセフがあのように言えたのは、ただ自分は神の前に生かされているのだということに気づいたからです。神の前に生きているのだから、神に対して罪を犯すことはできない。
私たちは、今日、誰の前に生きるのでしょうか。誰のまなざしの中に生きていくのでしょうか。

2024年5月8日の聖句

(主は)私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。(詩編40:4) あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。(エフェソ4:23) 主が、新しい歌を授けてくださった。すてきな言葉です。「主に、新しい歌を」とは言っていません。主が私の口に新しい歌を授けてくださった...