私たちの背きは眼前に立てられていて、私たちは自らの罪を知っています。私たちは主に背いて欺きました。(イザヤ59:12~13)
たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。(1ヨハネ2:1)
なんとありがたく、恵みに満ちた御言葉なのでしょう。「たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。」
ここに「例え罪を犯しても」とあります。私たちの実態は「たとえ」とすら言えない、自分の前にうずたかく積もりに積もっている罪を目の当たりに、もうどうすることもできない・・・ということでしかないのかもしれません。「私たちの背きは眼前に立てられていて、私たちは自らの罪を知っています。私たちは主に背いて欺きました。」そうです。私たちは主に背いてきました。それはごまかしようのない事実です。神さまを蔑ろにし、神さまがお喜びにはならない私でした。「身から出た錆び」という言葉がありますが、「私」という身から出て来る錆にはきりがない。いつまで経っても終わらない、尽きることのない錆が出続けている。思うところにおいて、口から出て来る言葉において、することとしないことにおいて、そのときに「正しい」と思い込んでいることがどんなにねじ曲がってしまっていることか。
しかし、聖書は約束します。「たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。」私たちはこの光のような御言葉を聞くことをゆるされています。私たちのために弁護してくださるお方がいるのです。私たちの罪を覆ってくださるお方がいるのです。私たちはもはや自分の罪にばかり目を向けるのではなく、キリストに目を向けることができる。キリストの赦しの光の中で、私たちの口に真実な悔い改めの祈りが生まれるのです。
たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。(1ヨハネ2:1)
なんとありがたく、恵みに満ちた御言葉なのでしょう。「たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。」
ここに「例え罪を犯しても」とあります。私たちの実態は「たとえ」とすら言えない、自分の前にうずたかく積もりに積もっている罪を目の当たりに、もうどうすることもできない・・・ということでしかないのかもしれません。「私たちの背きは眼前に立てられていて、私たちは自らの罪を知っています。私たちは主に背いて欺きました。」そうです。私たちは主に背いてきました。それはごまかしようのない事実です。神さまを蔑ろにし、神さまがお喜びにはならない私でした。「身から出た錆び」という言葉がありますが、「私」という身から出て来る錆にはきりがない。いつまで経っても終わらない、尽きることのない錆が出続けている。思うところにおいて、口から出て来る言葉において、することとしないことにおいて、そのときに「正しい」と思い込んでいることがどんなにねじ曲がってしまっていることか。
しかし、聖書は約束します。「たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。」私たちはこの光のような御言葉を聞くことをゆるされています。私たちのために弁護してくださるお方がいるのです。私たちの罪を覆ってくださるお方がいるのです。私たちはもはや自分の罪にばかり目を向けるのではなく、キリストに目を向けることができる。キリストの赦しの光の中で、私たちの口に真実な悔い改めの祈りが生まれるのです。