人間の心は自分の道のことに思いを巡らすが、主がその一歩を確かなものとする。(箴言16:9)
言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)
神さまを信じる私たちにとって、自分の生き方や普段していることが本当に神さまの御心に適っているのか、自分が神さまの道を歩み得ているのか、ということは大きな問題ではないでしょうか。神さまのお名前を口にしながら自分勝手な主張や欲求を正当化しているということが私たちは起こりうるし、むしろ自分を省みればそのようなことばかりだと言わざるを得ないのが現実ではないでしょうか。困ったことに、不信仰はしばしば信仰深い顔をします。周りの人を騙すだけではなく、自分のことも騙してしまう。そして、神さまを騙そうとしてしまう。私たちにはそんな厄介な性質が染みついているのではないでしょうか。
「言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。」ここに「主イエスの名によって行い」と書いてあります。主イエスの名によって行うとはどういうことなのか?イエス様のお名前をむやみに濫用するとか、それを騙るということではないでしょう。むしろ、主イエスのようにへりくだるということではないでしょうか。主イエスが私にしてくださったように隣人のための損を引き受ける、ということではないでしょうか。キリストをまねる道こそ、神さまの道ではないでしょうか。
そこには父なる神への感謝がある、と使徒パウロは言います。損をしながら感謝をするというのはいかにも奇妙に感じますが、神を信じるとはそういうことなのだと思います。なぜなら、それこそキリストが私のためにしてくださったことだからです。キリストが私のためにしてくださった愛をいつも心に刻み、それに生かされ、キリストに似た者にならせてくださいと祈り、今日の日を歩んでいきたいと願います。
言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)
神さまを信じる私たちにとって、自分の生き方や普段していることが本当に神さまの御心に適っているのか、自分が神さまの道を歩み得ているのか、ということは大きな問題ではないでしょうか。神さまのお名前を口にしながら自分勝手な主張や欲求を正当化しているということが私たちは起こりうるし、むしろ自分を省みればそのようなことばかりだと言わざるを得ないのが現実ではないでしょうか。困ったことに、不信仰はしばしば信仰深い顔をします。周りの人を騙すだけではなく、自分のことも騙してしまう。そして、神さまを騙そうとしてしまう。私たちにはそんな厄介な性質が染みついているのではないでしょうか。
「言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。」ここに「主イエスの名によって行い」と書いてあります。主イエスの名によって行うとはどういうことなのか?イエス様のお名前をむやみに濫用するとか、それを騙るということではないでしょう。むしろ、主イエスのようにへりくだるということではないでしょうか。主イエスが私にしてくださったように隣人のための損を引き受ける、ということではないでしょうか。キリストをまねる道こそ、神さまの道ではないでしょうか。
そこには父なる神への感謝がある、と使徒パウロは言います。損をしながら感謝をするというのはいかにも奇妙に感じますが、神を信じるとはそういうことなのだと思います。なぜなら、それこそキリストが私のためにしてくださったことだからです。キリストが私のためにしてくださった愛をいつも心に刻み、それに生かされ、キリストに似た者にならせてくださいと祈り、今日の日を歩んでいきたいと願います。