2015年1月4日日曜日

詩編119:105-113


どれほど多くの人に愛されてきた詩編であろうかと思います。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」キリスト者として生きると、いくつもの御言葉がこれまでの人生の折に触れて私を照らしてきたことを知っています。大きな決断をしたとき。病気で苦しんでいたとき。進路に悩んだとき。結婚したとき。子どもが生まれたとき。あの人とどうしても上手くいかなかったとき。様々なときに聖書の記された神さまの御言葉によって支えられ、導かれてきました。まさに、神の言葉こそ、私の道の光であり、私の歩みを照らす灯です。もちろん、私たちの生きる道は平坦ではありません。そのようなことはありえません。「わたしは甚だしく卑しめられています。」一体、誰が私を卑しめ、圧迫するのでしょう。どうしても和解できないあの人なのか、自分にはどうすることもできない運命なのか。そのようなとき、私たちには祈り以外に逃れ場がありません。主よ、私を生かしてください。私の祈りを受け入れてください。あなたの裁きを教えてください。そこにしか私の救いはないからです。いや、もうすでに、「主よ」とお呼びして祈ることが許されていること自体が既に救いです。神さまの「主」というお名前は、「私はお前と共にいる」という約束を意味すると言った人があります。この方のお名前を呼んで祈ることができるとは、何ということでしょうか。例え悪いものが私の前に罠を仕掛け、もう風前の灯のようになっていても、私には主の律法がある。私はこれを決して忘れません。「律法(トーラー)」という単語はもともと「矢を放つ(ヤーラー)」という単語から派生しました。神がどこに行って良いのか分からなくなっている私のために、行くべき道を示す矢を放ってくださったのです。だから、神に逆らう者の罠にかかって行くべき道を見失ったとき、「これが道だ」と神に教えて頂けるならば、それは救いです。讃美歌460番の2節にこのようにあります。「行くすえ遠く見るを願わず。よろめくわが歩みを守りて、ひと足、また火と足、導き、行かせたまえ。」主の御言葉という光は強い光ではありません。夜道を煌々と照らす町の光ではなく、一歩先だけを照らす弱い光です。それで良いのです。行くすえを遠く見る必要など無いからです。なぜなら、一歩進んだその先でも、主の御言葉の光は消えてしまうことがないからです。神の御言葉、「それはわたしの心の喜びです」。2015年、私たちは聖書の御言葉に聞くことを大切にします。そして、それだけではなく、御言葉に照らされて生活することを大切にします。神が放つ矢は私たちの頭上ではなく、生活の場を飛んでいるからです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...