2016年3月24日木曜日

ヨハネによる福音書17:1-26

1.
ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が十字架に進んでくださったことを心に刻み、覚えるために。
そして、その長い最後の晩餐場面の最後に書かれているのは、主イエスの、これまた長い祈りの言葉である。そう。ヨハネによれば、あの最後の晩餐を支配していたのは、主イエスの祈りだったのだ。主が祈られた祈りの言葉によって、主イエスと弟子たちとの食事の場面は終わっているのである。しかも、ヨハネは他の福音書のようにはゲツセマネ(オリーブ山)の祈りを報告してはいない。つまり、この最後の晩餐の最後を締めくくる主イエスの祈りは、ヨハネが伝えるゲツセマネの祈りにも等しい。その祈りを、主は、弟子たちと一緒にいる場所で献げてくださったのである。このことがすでに主イエスの愛に満ちたなさり方であるのではないだろうか。
ヨハネは、心を込めて、今主イエスはどこに折られるのかということを問い、また、私たちに告げている。今、復活したイエスは父の御もとに折られる。父の御側近くにおられる。そして、父の一番お近くにいて、祈っておられる。何を祈っておられるのか?「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」(6)のために主は祈られた。そして、「彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20)とも祈ってくださった。そう、主イエス・キリストは、今も私たちのために祈っていてくださる。十字架を目の前にしたあの夜もそうでいらしたように、今日も主は私たちのために祈っていてくださる。

2.
この祈りの中でわたしの忘れられない言葉の一つは、14節だ。「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」主はわたしのことをよく知っていてくださるのだと改めて思う。この世界の中でキリスト者として生きることが何を意味しているのか、主はよくご存知でいてくださるのだと今さらのように思う。いや、わたしなどよりもずっと深くその事を知り、しかもそこで受けるべき憎しみを誰よりも経験されたのは、主イエス様ご自身なのである。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」私たちは山ごもりすることもできないし、無人島に逃げることもできない。キリストを憎むこの世で生きていく。主は誰よりもその生活の労苦をご存知で、その上で、この世界で私たちを父がお守りくださいますようにと祈られたのだ。

3.
もう一つ、心に残るのは、3節である。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とても不思議な文章である。「永遠の命」イコール「知ること」だ。知ることが永遠の命につながるとか、知れば永遠の命を得られるとかいうのではない。父と御子を知ることこそ、永遠の命そのものだと言われるのである。一体、何を意味しているのだろうか?
続く4,5節ではこのように祈られている。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」ここに、「栄光」という言葉が出てくる。二回も出てくる。恐らく、御子イエスと父なる神を知るというのは、栄光に満ちた方としてこの方を知る、あるいは、この方に栄光を帰す、ということなのではないかとわたしは思う。
神に栄光を帰す。「栄光」という言葉は、もともとは「重い」という意味だ。重んじるという日本語もある。神を重んじる、イエスを重んじる。それは、思考の世界の話ではない。実際の生き方の話だ。私たちの実際の生活の仕方は、一体何を重んじて生きているのだろう?例えば、このようなことを考えてみてもいい。一ヶ月働いて給料を手にしたとき、或いは年金を手にしたとき、一番最初に何のために使うだろう?最初に何を買うのだろう?もしかしたら、それがあなたが今一番重んじているものなのかもしれない。
神を重んじる、神の栄光。この「栄光」という言葉がこのヨハネによる福音書の中でどのように使われているかを調べると、とても興味深い。一つの論文になるほど豊かな意味がある。ここでは急所だけに留めよう。この言葉は、最後の晩餐の場面で集中的に使われている。つまり、イエスが栄光をお受けになる、そしてイエスが栄光をお受けになることで父が栄光をお受けになる、それは、イエスが十字架にかけられることによって栄光をお受けになる、という意味なのである。イエスの重み、神の重み、それは、十字架でこそ明らかになった、とヨハネは訴えるのだ。
何と言うことであろう。そうであるのならば、自体はひっくり返ってしまう。私たちが神を重んじる、イエスを重んじる、という以前に、神が私たちの命を重んじてくださっているのだ。イエスが私たちの命を重んじてくださっているのだ。だから、イエスは、私たちに永遠の命を与えるために十字架にかかってくださった。だから、主イエスはおっしゃったのだ。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と!

4.
だから、私たちはこの世で生きることができる。どこかに逃げてしまう必要はない。なぜ?主は祈られたではないか。「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」そう。主は、今イエスを信じる者のために祈り、そして、これからイエスを信じる者のために祈ってくださった。彼らにもまた永遠の命が与えられていることを信じるように、と。

私たちはこの食卓を囲む度に、このようにしてキリストがご自分の肉を裂き、血を流してくださったことを思い起こし、記念し、そして、この良い知らせ(福音)をのべ伝えるために今わたしもまた祈りに導かれていることを、知るのである。 

2019年12月7日(ホセア書13〜14)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録7、ホセア書13~14 ホセア書13~14; イスラエルよ、立ち帰れ。あなたの神、主のもとへ。あなたは自分の罪につまずいた。あなたがたは言葉を用意し、主に立ち帰って、言え。「どうぞ罪をすべて赦し、良いものを受け取ってください。私たちは唇の実を...