2015年2月1日日曜日

マタイによる福音書12:1-14「神が命を下さる日」

片手の萎えた人が登場します。しかし、彼を一個の人格として重んじる人はいませんでした。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と言ってイエスの揚げ足をとるための材料としか見なされていません。しかしこれは珍しいことでは無いのです。私たちの世界は人間を人間として見なさない世界です。村上春樹さんがかつて「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう玉子があるときには、私は常に卵の川に立つ」と言っていました。この「壁」とは社会システムのことでもあると言うのです。最後のところでファリサイ派の人々はどうやってイエスを殺そうかと相談し始めます。イエスが安息日の律法を守らなかったと見なしたからです。安息日の律法は本来は素晴らしいものです。男も女も子どもも奴隷も休みます。休んで神の救いの御業を思い起こして礼拝します。しかし、もはや彼らには安息日を定めた神の憐れみは忘れ去られ、そのシステムだけが残っていました。人間を人間扱いせず、邪魔な者を殺そうとさえするのです。片手の萎えたこの人の痛みも悲しみも嘆きも、見えなくなっていたのでしょう。主イエスは、しかし、異なる眼差しでこの人をご覧になるのです。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。」この「人間」というのは、一般的な人間ではなく、目の前にいる片手の萎えた人のことでしょう。主イエスはこの一人の人をご覧になっているのです。『隣の家の出来事』という本を読みました。戦前ドイツの小さな村が舞台です。この村で少年が殺された。ワルトホフという男がユダヤ人だというだけの理由で犯人と決めつけられます。仕事を失い、白い目に晒され、仕舞いには逮捕されてしまう。作家は容赦なく周囲の差別と偏見を描きます。その差別にはイエスを十字架につけたのはお前たちユダヤ人だという「宗教的」な理由もありました。「宗教的確信に基づくときほどに、完璧に、しかも喜んで人間が悪いことをすることはない」(パスカル)のです。イエスはおっしゃいます。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」いけにえの立派さは人目を引き、満足を与えます。でも、神と隣人への愛と憐れみを失った立派さは神がご覧になって空しいものでしかないのです。安息日は憐れみ深い神であるイエスと出会う日です。弟子たちが摘んだ麦の穂の下りを見ても、イエスの関心は私たちの命にあります。このような私さえも生きることを望んでくださる。だから同じ憐れみにあなたにも生きてほしいと主は招いておられるのです。   

詩編第119編89から96節「神の言葉に果てはなし」

「あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」苦しみから私を救ってくださったのは、あなたの律法。そう告白する。苦しいときの神頼みという言葉が批判的に言われることがあるが、もっと深刻なのは「苦しいときの神離れ」だ。苦しみの時にこそ、思いと心...